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元禄15(1702)年12月15日(第237号)

忠臣蔵新聞

赤穂浪士は回向院で
上杉家の出方を待ちました

内蔵助さんは切腹が怖かった?

吉良邸から回向院へ約200メートル
回向院(墨田区両国2丁目8−10) 吉良邸(墨田区両国3丁目3)
12月15日(東京本社発)
吉良上野介さんの北隣の土屋主税さんに討ち入り趣旨を説明
同時に、手出しをしないよう依頼
引揚げの時は挨拶しませんが…
 吉良上野介さんの北隣が土屋主税様のお屋敷でした。吉良邸と土屋邸の境界に高提灯を灯し屋敷内を固めているように見えました。こちらより垣根越しに、私たちが討ち入りした理由を伝えて、手出しはしないで欲しいと申し入れました。
「引揚げる時も、吉良上野介を討ち取り本望を達してもそのようなことを言わずに、引揚げます」と。
 15日の朝、土屋主税様より、討ち入りのことを申し上げた様です。
史料
「一 上野介殿北憐土屋主税様御やしきニて候、境目へ高挑灯御ともし内を御堅メと相見申候、此方より垣越右之意趣申達御手さし御無用と申入候、引取申候節も本望達候由申達捨にいたし罷通候
一 十五日朝主税様より御註進御坐候由」
上杉屋敷から追っ手が来るから、回向院で待つ
回向院の坊主は恐れて、開門しませんでした。
追っても来なかったので、泉岳寺に向かいました
 47士は吉良家を引き上げました。このときの様子を冨森助右衛門さんは次のように書いています。
 引き上げた時刻は、まだ透きとは明けてはいませんでした。かねてからずっと思っていたことの本意を遂げたので、吉良上野介さんの首は泉岳寺へ持参し、亡主浅野内匠頭の墓前に手向ける覚悟でした。しかし、ここから泉岳寺までは長いし、ここへ外からやってくる者のあるだろう。上杉屋敷より吉良上野介さんのために駆けつけて来る者もおれば、逃げ出しては、そこは本意ではない。先ずは近所の無縁寺の回向院に行って、その旨申し入れよう。しばらく待っても、追って来る者のいないようなので、もういいだとうと、先ず回向院に行きましたが、まだ門は開いていませんでした。理由を申し入れたが、門内にも入れてくれませんでした。しばらくの間、回向院の門前で出発を延ばしていましたが、遮ったり留めたりする者もいないので、泉岳寺に行きました
史料
「一 引払候刻は未透と明はなれ不申候、かねての存念遂本意候ハ上野殿しるしハ泉岳寺江致持参亡主之墳墓江手向可申覚悟ニ存候へ共、長途之儀と申又は場所江外より懸合セ之者も可有之、屋敷よりしたひ候而追駈候ものも候ハヽ其段如本意難仕候半歟先近所無縁寺罷越申談其時宜次第ニ可仕と申合置候付、先寺へ参候所ニ未門開候、断申入候へ共門内へ入られ不申候、暫彼門前ニ猶予仕候へ共さへ切留候ものも無御坐付泉岳寺へ罷越候、(『冨森助右衛門筆記』)」
討ち入り後、切腹しなかった内蔵助さんの真意は?
上杉家の追っ手を待つ内蔵助さん
 井沢元彦氏は、大石内蔵助らのことを、「泉岳寺で切腹しなかったのは臆病者である」と書いたり、TVで発言しています。井沢元彦氏への反論は、書評忠臣蔵第16号をご覧ください←ここをクリックしてください。
 内蔵助さんは、『討ち入り心構え16箇条』の中で、「上杉方から追っ手があれば踏みとどまって戦う」とか「引き上げた後も必らず死ぬと覚悟する」と覚悟の程を書いています。忠臣蔵新聞192号をご覧ください←ここをクリックしてください。
 引き上げのとき、回向院前で立ち止まって、上杉家の追っ手を待ちましたが、結局来ませんでした。
 これらを見ても、大石内蔵助には、死を恐れる姿は見れません。
 史料も読まず、状況だけで推測する作家がいます。

参考資料
『忠臣蔵第一巻・第三巻』(赤穂市史編纂室)
『実証義士銘々伝』(大石神社)
『実録忠臣蔵』(神戸新聞総合出版センター)

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