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元禄15(1702)年12月15日(第240号)

忠臣蔵新聞

忠臣蔵 - Wikipediaを検証する

ウィキペディアは参加型百科事典
無償のボランティアが執筆・編集
誰でも、どこからでも、自由に

12月15日(東京本社発)
昔は、史料は中央に偏在し、中央が情報を支配
今は、ネットで自由に閲覧でき、権力・権威の弱体化
ホームページやWikipediaで反権力・反権威
 今から40年ほど前です。私が大学院を中退して、兵庫県の高校教師になることを、大学院の担当教授に伝えました。ガンで入院していた教授は「史料中心の研究をするには、史料が豊富な京都か東京がいい。しかし、民俗の研究は、地方そのものが資料だから、その選択も悪くはない」と言ってくれました。これが教授の私への遺言となりました。
 その後、インターネットの発達で、史料が地方にいても簡単に入手できるようになりました。そして、ホームページも盛んになり、どこにいても、お金がなくても、施設がなくても、個人として、個展を世界中に送れるようになりました。
 しかし、厳しい検証・批判がないホームページの軽さがしてきされ、言論として、余り重視されてきませんでした。 
 幸い、私の場合も、地元赤穂の出身で、最後の赤穂高校に勤務した関係で、相談する先輩や史資料に事欠きませんでした。その結果、私のホームページを見て、専門家からの意見やアドバイスがあり、著作に発展したものもあります。また、大学生から卒業論文として、メールでやり取りした後、我が家に足を運んだ大学生もたくさんいます。
 最近は、グーグルで検索すると、約80万件中、私の忠臣蔵は6番目です。ヤフーで検索すると、約65万件中、私の忠臣蔵は2番目です。ところが、忠臣蔵-Wikipediaはグーグルで3番目、ヤフーで4番目です。
 Wikipediaとはいったい何ものなのか、調べてみると、「ウィキペディア (Wikipedia)は、無償のボランティアの参加者の貢献によって執筆、編集されている百科事典であり、その編集方針、百科事典作成プロジェクトとしての運営方針などもボランティアの議論によって決められています。プロジェクトへの参加資格の制限はなく、参加者には一定期間または一定量の貢献をすることなどの義務はありません。さらに、ウィキペディアでは、ウィキウィキウェブとよばれるシステムを採用することによって、ほぼ全てのページが、いつでも、誰にでも書き換えられるような状態にしてあります」とHPにありました。
 つまり、世界の学歴や職業に関係のない一言居士が知識を寄せ合い、自由に、1つの言論を形成する。これは、私の反中央・反権威主義と似た立ち場で、かなりの成果を挙げていることを知りました。
 『忠臣蔵 - Wikipedia』は今も、多くの人の書き込みで、進行して、変化を続けています。私も。参加しようと思いましたが、既にある程度、形成している言論を、最初から構築し直すより、私なりの『私の忠臣蔵』を書いてました。
 まず、『忠臣蔵 - Wikipedia』の忠臣蔵という項目を紹介します。
忠臣蔵 - Wikipedia
忠臣蔵(ちゅうしんぐら)は、歌舞伎・文楽の演目『仮名手本忠臣蔵』(假名手本忠臣藏)の通称。
歌舞伎や演劇・映画の分野で、赤穂浪士の復仇事件元禄赤穂事件に題材をとった創作作品のこと。以下詳説する。
忠臣蔵事件。旧暦元禄15年12月14日(新暦1703年1月30日)夜(ただし、翌日夜明けまでを1日の区切りとする当時の慣習による。正確には1703年1月31日未明という方が正しい)に起った旧赤穂藩士の吉良邸討ち入り事件の元禄赤穂事件を指す。ただしこの場合には、「忠臣蔵」という言い方は、赤穂浪士方を善、吉良方を悪とし、赤穂浪士に対する賞賛の意をこめた呼名であり、客観性がなく非歴史的であることから、学術的な用語としては使用を避ける傾向にある」
[編集]元禄赤穂事件概要
江戸時代・1701年(元禄14年)3月に江戸城内の松の廊下で赤穂藩藩主・浅野長矩が高家肝煎・吉良義央に切りつけた刃傷沙汰に端を発する。松の廊下事件については、加害者とされた浅野は切腹となり、被害者とされた吉良はおとがめなしとされた。その結果を不満とする大石良雄をはじめとする赤穂藩の旧藩士47人(赤穂浪士、所謂"赤穂四十七士")による、元禄15年12月の本所・吉良邸への討ち入り及びその後の浪士たちの切腹までを題材にとった物語の総称として使われる。詳しくは元禄赤穂事件参照。
ただし、忠臣蔵は、かなりの演出・創作が含まれており、必ずしも史実の通りではない事に注意しなければならない。
 私の忠臣蔵(忠臣蔵という用語は、狭義の解釈では、浄瑠璃や歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』が庶民の喝采を受け、それが全国に広まり、現在にまで引き継がれたとします。広義の解釈では、赤穂藩主の浅野内匠頭長矩が高家の吉良上野介義央に刃傷に及んだ元禄14年3月14日(旧暦1701年4月21日)から、旧赤穂藩士大石内蔵助良雄ら47人が吉良邸に討ち入った元禄15年12月14日(旧暦1703年1月30日)を経て、旧赤穂藩士46人が切腹した元禄16年2月4日(旧暦1703年3月20日)までの時期を扱います。討ち入りの直後、江戸では集団の討ち入りを扱った『傾城阿佐間曽我』、京都では敵討の苦心や討ち入りを扱った近松門左衛門の『傾城三の車』が上演されました。しかし、幕府はこれを禁止しました。このことから、大石らの行動は反権力的な性格を有しており、当時の庶民から支持されていたことが分かります。そのことが、時代を経ても、普遍的に、日本人の支持をうけて、現在に至った理由です)
元禄赤穂事件 - Wikipedia
[編集]当時の評価
事件当時において、この事件がどの程度知られていたかは諸説ある。「事件直後はあまり知られていなかった」とも「事件直後から有名だった」とも言われる。その当時の市井の状況を事細かに記した尾張藩士の日記『鸚鵡籠中記』には、刃傷と浅野内匠頭切腹、赤穂城明け渡し、吉良邸討ち入りの3点のみ(浪士切腹は記述なし)が簡潔に記述されているので、少なくとも名古屋城下までは噂になっていたらしい。また「かわら版物語」によると、浪士の姓名が書いてある瓦版が江戸に出回ったという話は間違いないようだ。「赤穂分限帳」(あだ討ちに参加した者、変心した者、切腹した者、赤穂を退散した者を区別して書いている)や「赤穂義士後日譚」(義士の肖像・戒名が書かれている)の二枚の瓦版が同書に収められている。また切腹が決まった際には、これに反感を持つものが増え、日本橋に幕府が立てていた高札に悪戯するものが現れた事件が発生している。
 私の忠臣蔵(高野澄氏などは『仮名手本忠臣蔵』の芝居が面白かったから、忠臣蔵は人気が出といいます。しかし、当時から庶民に支持され、人気があったから芝居になったのです。
(1)尾張藩士の朝日重章が書いた『鸚鵡籠日記』には、「元禄15年12月15日夜、江戸ニ而浅野内匠家来四十七人亡主ノ怨ヲ報スルト称シ吉良上野介首ヲ取リ芝専岳寺江立退」とあり、尾張でも話題になっていたことが分かります。
(2)江戸に出ていた浅田孫孫之進充清は、山城の浅田金兵衛に対して、「(元禄15年12月16日)此十四日之夜七ツ時吉良上野介殿屋鋪本庄ニ御坐候、此所江浅野内匠頭殿御家来都合四十七人、主人之敵討ニ表并裏両方よりはしこ掛内へ入、首尾能上野之介殿打仰(ママ)芝江引取申候、何も出立ハ着込之上ニ黒羽(二)重紅裏之小袖、浅黄股引鑓不残持勝時作り彼上野之介殿首ヲ引さけ帰候由、江戸中之手柄ニ御坐候」という手紙を書いて、討ち入を江戸の町人は自分の手柄のように喝采したと報告しています。
(3)宮津藩士の桜井惣右衛門正朝は「元禄16年1月7日、一分の大慶御家の御外聞能御座候て喜悦仕候、定て御家中より其許御家中へ方々より可申参と存候間、私方よりも各様迄御内証にて御しらせ可申と為念如斯御座候」という手紙を書いて、引揚げ浪士と接触できたことは宮津藩にとって大慶で喜悦だった報告しています。
(4)有名な儒学者である室鳩巣は、京都で有名な『庶物類纂』の著者である稲生若水に対して、「元禄16年1月20日、君仇吉良上野介殿を討取申侯儀、前代未聞、忠義の気凛々。赤穂士風之厚も是に而相知れ・・・。当地なども此儀のみ沙汰仕侯。其御地(京都)輿論いかが侯哉」という手紙を書いて、前代未聞の忠義であると報告しています。
 庶民や学者の世論を無視できず、将軍徳川綱吉は、徒党は獄門の掟を無視して、赤穂浪士46人に武士としての切腹を命じたのです。世論が独裁者を悩ませ、庶民の感覚にあった裁定を行わせたことが、今も忠臣蔵が人気を保っている理由です。
Wikipediaの発展に期待する
反権力・反権威は忠臣蔵の哲学
 最近のTVを見ていると、本当になさけなくなります。学者や評論家が、額に汗することなく、衣食住に不足していないのは、現場で働いている人がいるからです。ジャーナリズムは、権力に一線を画し、金持ちにおもねらいことで、存在意義を認められてきました。
 最近のコメンテーターは、どうでしょう。「強きをくじき、弱きをたすく」のは昔の話で、今は「強きの立場になり、弱きをいじめて、金儲け」の体たらくです。
 忠臣蔵が今でも人気があるのは、喧嘩両成敗という法律を破った独裁者に対して、大義を全うしたから、当時の庶民に人気があったのです。
 Wikipediaの方針は、一部の学者や評論家によって独占されていた情報発信を、庶民の感覚で、情報発信しようとすることです。これは、忠臣蔵の哲学と同じです。上記に見たように、情報の収集が不十分なこともありますが、多くの人が参加することで、発展して、第三の情報発進機関になってほしいと思います。
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Wikipedia:免責事項 - Wikipedia
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参考資料
『忠臣蔵第一巻・第三巻』(赤穂市史編纂室)
『実証義士銘々伝』(大石神社)
『実録忠臣蔵』(神戸新聞総合出版センター)

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