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元禄15(1702)年12月15日(第241号)

忠臣蔵新聞

引き上げルートを検証する

吉良邸→回向院→お船蔵後通り→
永代橋→汐留橋→金杉橋→泉岳寺

永代橋 汐留橋 泉岳寺
12月15日(東京本社発)
永代橋を通って泉岳寺へ(討入報告書)
●吉良邸→無縁寺→お船蔵後通り→永代橋→鉄砲州→汐留橋筋→金杉橋→芝口→泉岳寺
永代橋を通って泉岳寺へ(松平家波賀清太夫覚書)
●吉良邸→無縁寺→両国橋際→お船蔵前通り→永代橋→八丁堀→稲荷橋通→内匠頭旧邸前→新道筋汐留松平陸臭守邸前→泉岳寺
両国橋を通って泉岳寺へ(赤城士話)
●吉良邸→無縁寺→両国橋脇町→富沢町→筥崎町→稲荷橋→築地鉄砲州→内匠頭邸前→西本願寺→芝新銭座→金杉橋肴店→泉岳寺
新大橋を通って泉岳寺へ(易水連快録)
●吉良邸→無縁寺→新大橋通→木挽町→内匠頭旧邸前→汐留橋→芝金杉橋→田町→泉岳寺
新大橋を通って泉岳寺へ(江赤見聞記)
●吉良邸→無縁寺→新大橋(渡)→木挽町→汐留橋→松平陸奥守邸前→鉄砲州浅野内匠邸前→築地みなと町→泉岳寺
新大橋を通って泉岳寺へ(忠誠後鑑録)
●吉良邸→無縁寺→酒屋十兵衛→御船蔵→新大橋(番人堀田伊豆守配下の者制止す)→鉄砲州→芝→泉岳寺
永代橋を通って泉岳寺へ(冨森助右衛門筆記)
 以上見るように、吉良邸から泉岳寺への引揚げルートは様々に言われています。どれが正しいのでしょうか。
 『冨森助右衛門筆記』によると、次の様になっています。
 予定していた両国橋は、大名の登城の日でもあり、差し控えました。そこで、本所のお船蔵の後ろを通り、永代橋より汐留橋・金杉橋を渡って芝の泉岳寺に参りました。その道中、咎めるところは一つもありませんでした。手傷を負った同志は、駕籠を雇って乗せました。
史料
「道筋之儀通り町筋は御礼日儀候故指扣、本所御船蔵之後通永代橋より鉄抱洲・汐留橋・金杉橋・芝泉岳寺へ参候、道ニてとかめ申候所一所も無之候ヘキ、手疵有之ものハ駕籠やとひ乗申候」(冨森助右衛門筆記)

参考資料
『忠臣蔵第一巻・第三巻』(赤穂市史編纂室)
『実証義士銘々伝』(大石神社)
『実録忠臣蔵』(神戸新聞総合出版センター)

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