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元禄15(1702)年12月15日(第318号)

忠臣蔵新聞

臨時増刊号━引き上げルートを検証

吉右衛門さんが上野介さんの首を船で泉岳寺へ
間十次郎さんが捧げ持つの首は籠だった?

桂川籠花入(香雪美術館蔵)
12月15日(東京本社発)
吉良上野介さんの首に関する問い合わ
 最近、吉良上野介さんの首に関する問い合わせがありました。
 「上野介さんの首は偽物で、本当は生きていた」という問い合わせです。
 早速、その内容を紹介します(各ホームページからコピペしました。感謝、感謝です)。

「吉良上野介さんは生きていた」を検証
(1)元禄赤穂事件で、殺されたとされる「吉良上野介」について、実は事件では偽者が身代わりとなり、本人は生き延びて‥‥という説があるようです。
 その説自体が歴史的事実に合致しているのかしていないのかは別にして、「吉良は事件では死んでいない。生き延びて実は‥‥」という説が紹介されているページを教えてください。
 私が見たところ、「生き延びて仏門に入って‥‥」みたいなことが書いてあるページがあったのですが‥‥。

(2)忠臣蔵異聞 生きていた吉良上野介(1987年テレビ朝日)
 「浪士の誰も吉良の顔がわからないから、もしも影武者なんぞをつかまされたその時はたのむぞ」、と毛利小平太は直々に内蔵助から密命を受ける。

 討ち入りの日、炭小屋からひっぱりだした老人の背中にキズは無かったが、内蔵助は実より名をとり、その首を落とす。

 小平太は生き残ったメンバーの寺坂吉右衛門から「上野介は替え玉」だったと聞き、第二の刺客としてチャンスをうかがう。

(3)「生きている上野介」
 フィクションだとは思いますが、山田風太郎氏の小説「妖説忠臣蔵」に所収されている「生きている上野介」という短編がそういうテーマを扱っているそうです。私は未読ですみませんが、読まれた方の感想が載っているサイトを挙げておきます。
 かなり自信はないので、詳しい方おられたらフォローをお願いしたいくらいです。いい加減な回答失礼しました。

(4)吉良上野介は偽者だった
 四十七士の苦難を共感してきた者にとって、吉良の死はなくてはならない必然なのである。
 にもかかわらず、吉良上野介はあの日討たれなかったという説が、根強く語り継がれている。
 その背景はこうである。
 吉良と思われる者を討ち取ったのは事実であるけれど、それを確認できる者が一人も居なかったのである。
 白無垢を着ていて、守り袋、鼻紙袋など通常の人では持っていない物を所持していたこと、背中に僅かの傷跡が残っており、吉良ではないかと想定された。
 吉良の使用人である門番三人に確認を求め、「ご隠居様です」との証言得たことから、吉良上野介と確定した。
 門番の証言は直接証拠であるが、残るは状況証拠に過ぎず、門番の証言も真実かどうかの検証はされていない。

 吉良偽者説は要するに討ち取られたのは替え玉だったという背景はこうである。
 本物説と違って偽者説には直接証拠がなく、状況証拠の積み重ね以外にない。
 吉良は討入りを予想していたから、事前に身を隠すことは十分可能であった。
 討入り当日は浅野内匠頭の月命日であり、その日に茶会を開いは、替え玉を用意した上での誘い水ではなかったのか。
 吉良方の侍たちは十六人も死亡し、負傷者も二十数人と多かったのに、浪士の方は負傷者四人だけである。主人が居ないことで吉良邸の警戒が手薄だったことを示している。
 本多孫太郎は吉良邸、土屋邸を含む三町四方の取締役と火消役を兼ねていたから、吉良邸には上野介が引っ越してくる以前から抜け道があって、本多邸の火の見櫓の下へ通じていた。

 吉良上野介は死んだものとして世の中は動いていったし、吉良自身もそれを否定するような言動を起こすことはなかった。
 吉良上野介は結局、社会的に抹殺され、仮に生きていたとしても、生きていることを自ら明かにすることは事実上許されない状況に置かれてしまったのである。

 つまり、どちらにしても、大石内蔵助らはその目的を十分に果たしたということになるのである。

*解説1:上記4点の内容を検証してみました。
(1)「本人は生き延びて‥‥という説があるようです」としています。その上で、その「説が紹介されているページを教えてください」と書いています。このような手法で、伝聞が拡散する見本です。

(2)「忠臣蔵異聞 生きていた吉良上野介」というタイトルで、TV放映されます。フィクションがTV放送されることで、素直にノンフィクションと理解され、拡大していきます。

(3)「生きている上野介」というタイトルで、小説化されます。「フィクションだとは思います」としてしていますが、フィクションが小説化されることで、素直にノンフィクションと理解され、自信がないままの回答例として、拡大していきます。


(4)そういう中で「吉良上野介は偽者だった」は優れています。
 主君の首をとられた47士にとって、上野介の首は至上命令です。
 上野介の顔を知らない47士にとって、持物や敵である吉良家の番人の確認では証拠不足は否めない。
 次に、吉良側としては、敵側に茶会をするという在宅情報を公開したのは、替え玉を用意していたためである。
 さらに、本所の吉良邸には上野介が引っ越してくる以前から、本多孫太郎邸の火の見櫓の下に抜け道があってた。
 以上の3点から、偽者説が誕生する背景があったと分析します。

 最もするどい指摘は、「偽者説が成立しても、上野介は社会的に抹殺されており、そういう点では、大石内蔵助らはその目的を果たしたといえる」ということです。非常に参考になりました。

 ただ、「吉良側に多数の死傷者がでたのは、替え玉で警戒が手薄だった」という指摘は、余りにも短絡な読解です。

*解説2:私の「偽者説」に対する考えは、証拠不足で、「吉良上野介は生きていた」説を完全に否定できません。その中で、上記(4)の「吉良上野介は社会的に抹殺された」という説は非常に説得力があります。
 英雄伝説には、墓や持ち物など物的証拠が多数存在します。敵前逃亡したとして悪評高い大野九郎兵衛さんは、その意図を越えて、たくさんの墓があります。庶民が伝説を支持し、物的証拠を作ってきました。討ち入りしたが、その後敵前逃亡し、47士から除外された寺坂吉右衛門さんも伝説はあり、多数の墓などの物的証拠もあります。
 上野介さん本人やその家族・親戚からは、大野九郎兵衛さんと同様に、その後の消息はありません。しかし、上野介さん本人や家族・親戚を越えて、庶民が支持する伝説がありません。

「引き揚げの時の上野介さん首は籠だった」を検証
その籠は千利休好みの「桂川籠花入」だった?
赤穂義士祭(中央後ろが上野介さんの首を捧げ持つ十次郎さん)
 次に本社に質問があったのが、「桂川籠花入」です。
 質問の内容を紹介します(最近のハームページを「コピペ」しました。感謝!!)。

(1)火坂雅志「桂籠」
 伏見稲荷の神官であった荷田春満は、稲荷に赤穂の塩の値が上がるようにと、真冬に素っ裸で願掛けをしている奇妙な男、浅野家の国家老であった大石内蔵助に出会います。次第に友好を深めていくこととなる。時が移り、春満は、江戸に下向。吉良上野介の歌道指南役となりました。
 「これはな、春満どの。かの利休居士がことのほか愛しておられた花入よ」と吉良上野介。
 「これだけの品格のある花入、利休居士がさぞや名のある細工師に命じて作らせたものでございましょうな」と春満。
 「あるとき利休居士が、京の桂川に遊山にまいられた。そのおり、鮎捕りの漁師が腰につけていた魚籠の美しさに目を止められ、いくばくかの金銭と引きかえに手に入れたのが、この名物桂籠の花入というわけだ」と上野介。
 それを吉良は、800両で、茶人・山田宗偏から懇望して手に入れたのだという。
 春満内蔵助の二人の思惑と友情に、利休縁(ゆかり)の名物「桂籠」が絡み、あの元禄十五年十二月十五日早暁の討ち入りを迎える。

(2)元禄赤穂動乱 著者: 宮岡皓
 円山会議の後を受け、大石内蔵助から四方庵・山田宗偏への接近を指令された大高源五は、綿谷善兵衛から託された”桂川籠花入”を抱えて、本所にある宗偏宅を訪問した。
 四方庵・山田宗偏は、”桂川籠花入”の桐の箱を開けで見ただで、脇へ片付けた。
 源五がその理由を問うと、宗偏は「これは偽物…。利休大宗匠秘蔵の”桂川”は、漁師の妻女が拵えた魚籠(びく)を花入れに用いた物で、同じように作られた魚籠はほかにもございます。ただ、網目の文様と微妙な色合いは、漁師が使い込んで自然に出来上がった風合いがあります」
「それでは善兵衛殿は御存知なかったのですか?」と源五。
 「善兵衛殿にからかわれましたな。本物の”桂州”は、以前から私の手元にございますぞ」と宗偏。
 「ですが…、善兵衛殿は大金を払ってまで手に入れたと…」と源五。
 「ある高貴なお方から”桂川”を是非にと所望され、断るに断り切れず、複製品で御勘弁顧おうかと思いまして、善兵衛殿に探して貰っておったのじゃが…」と宗偏。

 刃傷事件の前年(元禄13年)の師走、宗偏が催した茶会に招かれた上野介は、飾り気のない茶室の”桂川籠花入”に活けられた一輪の寒椿に心が奪われた。見とれていた上野介は、どうしても手に入れたいと執着、何度も宗偏に申し入れていたものである。
 元禄14年12月の茶会も無事終わり、上野助は心地良い疲労感に満足そうであった。
 永年、華やかな式典の主役にいたが、思いもよらぬ事件に巻き込まれ、表舞台から引きずり降ろきれた。

(3)桂籠花入
 この花入は宗偏が宗旦から譲り受けた利休所持の花入で、利休は桂川の漁夫が腰に下げていたこの魚籠に目を留め、それを貰い受け、鐶を付けて花入として秘蔵した。
 宗偏はこの桂籠の花入を大変気に入った様で、箱書は無論のこと受筒にまで書付をしている。
またこの花入をさらに有名なものとしたのが忠臣蔵の逸話である。
 晩年に江戸に出た宗偏は、宗旦門下の同門であった吉良上野介義央の茶道師範的な立場で吉良家によく出入りをしていた。
 それを聞きつけた赤穂浪士大高源吾が宗偏に入門して、茶会の日取りを聞きつけ討ち入りを成功させたことは周知の如くである。
 その討ち入りの際に、上野介の首級の代わりをつとめたのがこの花入で、本物の首は舟で密かに泉岳寺に届けられたという。
 この話は宗偏の弟子の閑事庵坂本周斎が著した「千家中興名物記」に掲載されており、現在この花入は香雪美術館に所蔵されている。

(4)今日の花入れは、「桂籠(桂川籠とも)」。
 利休さんが、桂川で鮎を釣る人の魚籠から見立てたといわれている花入です。
 この籠にはちょっとした伝説があります。
 ご存じ、忠臣蔵での吉良邸討ち入りの前夜、茶会が行われていたことは知られていますが、この時、花入に使われていたのが「桂籠」だといわれています。
本懐を遂げたのち、この桂籠を吉良の首のダミーとして小袖に包み、槍の先に付けて泉岳寺に引き上げたというのです。

(5)『桂川の花籠』
“桂籠花入”は、千利休がある時、京都の西、桂川のほとりで漁夫の腰につけていた魚籠(びく)の形が気に入り、漁夫からその籠を譲ってもらい、持ち帰ると早速花を入れて使用したそうです。
 この花入は子の少庵、孫の宗旦、山田宗偏へと譲られていくのですが、後に吉良上野介のもとにいきます。
 吉良邸に討ち入りした日、大石は上野介の首を泉岳寺へ行くまでの道中、幕府の役人に召し上げられることをおそれて、船で先に送ることにし、赤穂浪士の一人が茶室にあったこの“桂籠”を白絹につつみ、槍の先に首のかわりにとつけたと言われます。
 討ち入りの日に行われていた茶会で、名品の『桂川』が使われていたことがわかります。
 この討ち入りで。“名品桂籠”の名を不動のものにしたといえます。

(6)カオルさんに教えてもらった。
 吉良上野介の首を亡き主君の墓にまちがいなく運んでささげるために、大事をとって、吉良のほんとうの首はこっそりと運び、茶室にあった花籠に血のついた布をかぶせて吉良の首とみせかけ、大高源吾が槍で突いてかかげもった。
 そのときの花入れがこれですと、カオルさんが本をみせてくれた。
 籠の底に修理のあとがあるそうである。

 桂籠花入は、利休所持のあと、少庵、宗旦、山田宗偏へと伝えられた。山田宗偏も吉良上野介も千宗旦の弟子だった。

(7)「桂籠花入」は見ていた!!
 千利休が、桂川の川漁師の腰に下げでいた魚籠(びく)を花入れにと譲り受けたものであります。利休の侘茶の精神を表すものとも言われます。利休愛用の花入れは、その子少庵、またその子宗旦、その高弟・山田宗偏と伝わりって行きます。現在は、香雪美術館の所蔵です。

 この花入れは討入り前日から吉良邸にありました。前日の江戸での最後のお茶会を開くために、山田宗偏が利休ゆかりの名品を持ち込んでいたのです。
 上杉が大挙の兵を伴って討ち取った吉良の首を取り戻すのを阻止するために、デコ(身代わり)に使ったんです。
 一番槍の手柄を立てた間十次郎の槍先には、この花入れを風呂敷に包み、くくり付けたのです。本当の御首は舟で運ばれたようです。ですから、この花入れは底に疵が見えます。槍に当たって出来た疵です。

 見た感じは、思っていたより小さいと思った記憶があります。

*解説3:上記7点の内容を検証してみました。
(1)は火坂雅志さんの小説「桂籠」です。荷田春満と大石内蔵助の出会い、国学の先生に吉良上野介が桂籠」を800両で山田宗偏から手に入れたことを自慢します。「桂籠」と忠臣蔵の関係は「春満・内蔵助の二人、”桂籠”が絡み、あの討ち入りを迎える」とさっと表現して、読者の想像をたくましくするように描いています。フィクションはフィクションという立場です。

(2)は宮岡皓さんの電子書籍版「元禄赤穂動乱」です。大高源吾と四方庵・山田宗偏宗偏の出会い、吉良上野介が山田宗偏から”桂川”を入手したいきさつを描いています。赤穂事件との関係で言うと、「思いもよらぬ事件に巻き込まれ、表舞台から引きずり降ろきれた」と表現し、フィクションはフィクションという立場です

(3)「桂籠花入」というタイトルで、「桂川籠花入」のいわれ、上野介が入手した経過などを、描いています。初めて、伝聞とはいえ、「上野介の首級の代わりをつとめたのがこの花入で、本物の首は舟で密かに泉岳寺に届けられたという」と紹介しています。その根拠を、山田宗偏の弟子・閑事庵坂本周斎の「千家中興名物記」を挙げています。坂本周斉は1666年に生まれ、1749年に亡くなっていますから、生き証人ではあります。

(4)今日の花入れは、「桂籠(桂川籠とも)」というタイトルでアップした人は、茶道を嗜んでいます。赤穂事件に関しては「この桂籠を吉良の首のダミーとして小袖に包み、槍の先に付けて泉岳寺に引き上げたというのです」という伝聞を紹介しています。

(5)『桂川の花籠』というタイトルで、「茶室にあったこの“桂籠”を白絹につつみ、槍の先に首のかわりにとつけたと言われます」という伝聞を紹介しています。

(6)「カオルさんに教えてもらった」というタイトルで、「茶室にあった花籠に血のついた布をかぶせて吉良の首とみせかけ、大高源吾が槍で突いてかかげもった」と断定しています。さらに、「そのときの花入れがこれです」とここでも断定しながら、「籠の底に修理のあとがあるそうである」と伝聞調になっています。これは読む者を混乱させます。

(7)「”桂籠花入”は見ていた!!」というタイトルで、「お茶会を開くために、山田宗偏が利休ゆかりの名品を持ち込んでいたのです」と断定的に表現しています。さらに「討ち取った吉良の首を取り戻すのを阻止するために、デコ(身代わり)に使ったんです」と断定しながら、「本当の御首は舟で運ばれたようです」と伝聞調になっています。これは読む者を混乱させます。

*解説4:上記7点を検証すると、「桂川籠花入」は赤穂事件で有名になったことが分かります。
 (3)〜(7)は「偽の首は行列が持参し、本物の首は船で送った」という伝聞を紹介したり、断定的に紹介しています。しかし、史料の提示がありません。本当の首を泉岳寺に送ったのは誰かの比定もありません。伝聞のみが拡大しています。是非、史料の提示をお願いします。

 こうした伝聞に反論する史料を、この最後に提示します。

本物の吉良上野介の首はだれがどうやって泉岳寺へ?
その人は寺坂吉右衛門で、その方法は船です?
 寺坂吉右衛門さんが本物の吉良さんの首を船で泉岳寺まで運んだというホームページを記者が入手しました。紹介します。
 大石内蔵助にとって、討ち入りを成功させた後、次の重要な務めは、討ち取った吉良の首級を泉岳寺に眠る主君の墓前に供える事でした。
 しかしその途中で上杉軍等の邪魔が入る事を予期した大石は、寺坂に首を持たせ、両国橋から小舟で隅田川を下らせたというのです。

 討ち入り後、吉右衛門は、挟み箱の中から衣服を取り出して、着かえました。そして、上野介の首を箱に収め、吉良邸裏門で仇討ちの成否を見守っていた江戸在住の支援者の中の佐藤条右衛門(安兵衛の親戚で、列外の同志)、堀部九十郎(堀部弥兵衛の甥で、弥兵衛・安兵衛切腹後、堀部家を相続)らに守られて河を下っていったのです。泉岳寺門前で首を渡した寺坂はすぐに、瑤泉院宅へ向かったのです。

 一方、大石らは整然と隊伍を組んで泉岳寺への行進を始めたのであったが、不思議な事に、行列の中の槍先に上野介の夜着に包まれた首が一つ、高々と掲げられていたのである。・・・・偽の首であった。そして、なんとその偽首は先夜の吉良家の茶会の席に飾られていた利休の「桂川籠花入」、千家秘蔵の名物であった。こんな名物を偽首に仕立て、しかもその槍先にはご丁寧にも江戸っ子には馴染み深い吉良家を示す槍鞘がついていた。人々が一目で吉良の首と判る仕掛けを思いついたのは、恐らく茶道俳諧に詳しい大高源五と思われる。

*解説5:これによると、大石内蔵助さんが、上杉家の奪還を恐れて、寺坂吉右衛門さんに、吉良さんの首を持たせ、両国橋から小舟で隅田川を下らせたというのです。
 それを手助けしたのが、堀部安兵衛さんのの親戚・佐藤条右衛門さんや堀部弥兵衛さんの甥・堀部九十郎さんだというのです。
 吉右衛門さんは、泉岳寺門前で本物の吉良さんの首を渡し、瑤泉院さん宅へ向かったというのです。
 まず、犯人が主筋にあたる人物と接触すると、その人が共犯者か首謀者とみなされるので、直ぐに報告に行くということはありません。
 次に、寺坂吉右衛門さんの行動について、吉右衛門さんの証言があります。

*解説6:寺坂吉右衛門さんの行動を第一次史料の『寺坂吉右衛門筆記』を使って検証します。口語訳です。
 「その時、鉦を打って、味方の人数を集めました。吉良上野介さんの首を小袖に包んで、槍の柄に掛け、捧げ持ちました。味方には、怪我人はそれほどありませんでした。少し手傷を負った方々も、当分の間、喜びに紛れ、その傷も苦になる程のことではありませんでした。その後、新大橋へ掛り、八丁堀より築地通、泉岳寺へ参られました。…私は、引揚げの途中、理由があって一行から引き離れました」。
(1)内蔵助さんらの引き揚げの様子がリアルです。ケガ人についても、「喜びに紛れ、その傷も苦になる程のことではない」と見た者しか書けない表現です。
(2)汐留橋を渡ってから、吉田忠左衛門さんと冨森助右衛門さんは、一行から離れて大目付の仙石伯耆守宅へ自訴に及びました。吉右衛門さんがずーっと付き従って来た忠左衛門さんの記録がありません。八木氏は、吉右衛門さんはこの主人の行動について記していないと指摘します。
(3)「新大橋へ掛り、八丁堀より築地通」と断定的に書いています。他方、「泉岳寺へ参られました」を、『忠臣蔵』(赤穂市)の編集責任者・八木哲浩氏は、「主人の吉田忠左衛門さんが泉岳寺に入って行かれた」とすべきだと指摘しています。つまり、吉右衛門さんは(2)の内容を知らなかったのです。
(4)吉右衛門さんは、陸上の引き揚げコースの途中までは同行したが、汐留橋までに姿を消したことになります。一次史料からは、吉右衛門さんが船で吉良上野介さんの首を泉岳寺に運んだという事実はあり得ません。

 如何でしょうか。

史 料
 「其時鉦を打味方の人数を集申候、上野介殿首を彼相印の柚布に包み、鑓の柄に掛、捧げ申候、味方に手負さのみ無二御座一候、少々手痕有之候衆も当分悦に紛、苦に成候程の事にて無レ之候、夫より新大橋へ掛り、八町堀より築地通、泉岳寺へ被レ参候…引払の節、子細候て引別申候」

参考資料
『忠臣蔵第一巻・第三巻』(赤穂市史編纂室)
『実証義士銘々伝』(大石神社)
『実録忠臣蔵』(神戸新聞総合出版センター)

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