home back next

1701年3月14日午後2時〜
元禄14年(1701)
3月14日
 午後2時、大目付仙石伯耆守の招状で吉良上野介を治療したのが幕府の御典医で外科医の栗崎道有(300俵)である。道有は大目付仙石に上野介の治療が終わったことを報告する。仙石は「これからに
ついて老中に指示を仰ぐ」と言って出ていく。

 梶川与惣兵衛は、老中4人(阿部豊後守正武・土屋相模守政直・小笠原佐渡守長重・稲葉丹後守正往)・若年寄人(加藤越中守明英・本多伯耆守正永・稲垣対馬守重富・井上大和守正岑)・大目付らから尋問をうける。老中土屋は「吉良の傷はどの程度か」と問われ、梶川は「2、3カ所で深手ではない」と答える。
 ついで「吉良は刀に手をかけたか」と問われ、「刀に手をかけなかった」と答える。

 蘇鉄の間で目付(旗本・御家人の監察役)の多門伝八郎重共と近藤平八郎重興が浅野内匠頭から事
情を聴取する。目付が「場所柄もわきまえずに吉良に切り付けたのはどうしてか」と問うと、内匠頭は「上様に対して恨みはなく、私の遺恨、一己の宿意をもって前後を忘れてしたことである」と答え、最後に「吉良殿はその後どうなったか」と逆に聞く。多門が「浅傷であるが、老齢なので、養生は心もとないと思われる」と言うと、内匠頭はことのほか喜ぶ。

 北隣の桧の間で、目付の久留十郎左衛門正清と大久保権左衛門忠鎮が吉良上野介の事情を聴取する。
 上野介は「何の恨みをうける覚えもなく、浅野の乱心とみえる」と答えるのみである。この上野介への尋問不足(浅野内匠頭の遺恨の根拠が不明のまま終わる)が、後にお手軽で片落ちの仕置(判決)となり、第二の事件(討ち入り)に発展してゆく要因となるである。

 事情聴取後、大目付仙石伯耆守久尚・安藤筑後守重玄から若年寄へ報告される。老中も目付4人から
直接報告を受ける。その報告は側用人柳沢出羽守保明(吉保)に伝えられる。

 幕府の処分が決定する。「浅野内匠儀、折柄と申し殿中を弾らず、理不尽に切り付けたるの段不届に思召さる。内匠儀は御仕置に仰せ付けらる。上野介儀御構いこれ無しの間手疵養生仕る様にと仰せ付けらる」

 この内容が、老中列座のうえ、老中土屋相模守の書付により、高家畠山基玄・大友義孝と大目付仙石久尚に伝えられる。目付4人には永倉珍阿弥を通して伝えられる。

 吉良上野介には大目付仙石伯耆守が直接出向いて申し伝える。戻ってきた仙石は「内匠頭は乱心ではない。これより上野介とは相談して治療せよ」と、急に態度を変える。幕府の慣例では相手が乱心の時はは幕府の責任で治療するが、乱心でない時は負傷した側が自分で手当をすることになっていたからである。
 最初老中は乱心説を採用していたが、尋問の結果、老中はこの事件を乱心によるものではないと判断するようになったのである。

 多門伝八郎ら4人の目付は、永倉珍阿弥を通して異議を申し立てる。「田村右京大夫預けは承知したが、内匠頭の切腹・上野介の処分については返事を保留したい。若年寄に面会したい」と。

 出てきた若年寄加藤越中守と稲垣対馬守に対して、多門は「浅野殿は城主であり、本家は42万石の大大名である。今日直ちに切腹というのはあまりにもお手軽である。浅野は身も城も捨て刃傷に及ぶほどの恨みを吉良に抱いている。乱心によるにしても、吉良に落ち度がないとはいえない。切腹のことは日数をかけても処断できる」と申し入れる。そこで若年寄は「重役と相談してくる」と言って、この旨を月番老中土屋相模守に報告する。老中土屋は側用人で飛ぶ鳥落とす勢いのある柳沢吉保に取り次ぐ。

 しばらくして老中土屋相模守は若年寄加藤越中守明英・稲垣対馬守重富に連絡をする。そこで若年寄の2人は帰ってきて、多門伝八郎らに「もはや柳沢殿に申上げ決着をみたことであるので、先の裁許の通り心がけるようとの返事である」と言う。

 それに対して多門が1人で「将軍様の思召とあれば是非もないが、柳沢殿の御一存による裁許であれば、私どもの意見を今1度将軍様に申し立てていただきたい」となおも反論する。若年寄が柳沢吉保に取り次ぐ。
 吉保はこれを聞いて怒り、「将軍様には言上していないが、執政の自分が聞き届けたことである。これに再度申し立てるとは心得がたい。多門は目付部屋に控えさせよ」と命令する。

home back next