1701年3月14日午前8時〜11時 |
元禄14年(1701) 3月14日 |
勅使・院使が登城する。 五つ時(午前8時)、浅野内匠頭は江戸城本丸御殿に登る。勅使を迎える場所を聞くために吉良上野介を探すが、柳の間にはいない。 式の30分前になって、吉良上野介が柳の間に入ってきたので、浅野内匠守は「お迎えは、式台の上か、式台の下か」と聞くと、上野介は「今になって聞くのは思慮が足りない」と怒る。 梶川与惣兵衛(桂昌院の御留守居番)は勅使登城の時間が早まったことを知らされたので、五つ時には登城して、詳細を聞くために吉良上野介を探すがいない。 梶川与惣兵衛は浅野内匠頭を呼んでもらい、「御台様よりの御使いをするのでよろしく」と挨拶をする。内匠頭は元の座敷に戻る。 午前11時ごろ、吉良上野介がやってきたので、白書院につづく松之廊下で、梶川与惣兵衛は一言二言話をする。その時、誰かが「この間の遺恨をおぼえたるか」と声をかけて上野介の背後から切りつけた者がいる。見れば、内匠頭である。上野介が驚いて振り向いた時眉間を切りつけられる。 梶川の方に逃げようとして、また背中を切りつけられ、うつ向きに倒れる。梶川はとっさに内匠頭を抱き留めると、内匠頭は「私は乱心していない」「お上に対しては何のお恨みもないので、手向かいいたさぬ。討ち損じたのは残念である」と言う。 柳之間の方へ行く間も浅野内匠守は「上野介にはこの間から意趣があるので、殿中、しかも大事な時に恐れ入る事だが、是非に及ばず刃傷に及んだ」と大声で叫ぶ。周囲から「すでに事は終わった。あだまりなされよ」と言われたので、おとなしくなる。高家衆・坊主・伊達左京亮もかけつけ、内匠頭を柳の間に連れて行く。 吉良上野介は高家の品川豊前守・畠山下総守両人に抱えられて桜之間の方へ血を流しながら連れていかれる。 この遺恨について様々な説がある。 @服装の件については、御馳走人は烏帽子大紋と決まっている。 A精進料理の件についても、式次第は決まっている。 B墨屏風の件についても、伝奏屋敷の引き取り状には「金屏風」の記述はあるが、墨屏風の記述はない。 C老中奉書を見せず浅野内匠頭を困らせたという件については、梶川与惣兵衛などの記録にもない。 D塩田の件についても、姫路の荒井・的形の浜人を招いて開拓したので、秘密にする必要はない。 E性格の違いの件についても、前回大役を果たしている。 噂で大手門が大騒ぎになったので、多門は「浅野内匠頭、吉良上野介へ刃傷に及び候に付き、両人共殿中に於いて御糾し中に付き、諸供方騒動致す間敷もの也」と書いた立て札を立てる。浅野・吉良家の当事者以外は立ち退く。 報告を受けた将軍徳川綱吉は「戸田忠真を代理とし、2人を糾明せよ」と命令したので、下総国佐倉藩の城主戸田能登守忠真(7万5000石)が浅野内匠頭の勅使饗応役の任を継ぐ。 |