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1701年3月14日午後5時〜
元禄14年(1701)
3月14日
第一報(馬廻150石早水藤左衛門40歳・中小姓12両3人扶持萱野三平35歳)が刃傷事件と口頭命令(藩札回収)を持って赤穂へ向かう。

 浅野大学は大石内蔵助・大野九郎兵衛宛に早飛脚を走らせる。その内容は@藩札の回収A殿中での刃傷B老中土屋相模守が水野監物らに持たせた「騒動するな」という仰せ渡しである。

 午後5時、切腹検使の一行として大目付庄田下総守が介錯人磯田武太夫が徒目付4人・小人(こびと)目付6人を従えて、田村邸に着く。庄田は田村右京大夫に「切腹の場所については老中土屋の指示を受けている。『白砂に而』よいとのことである」と指示する。

 遅れて着いた副使の目付多門伝八郎・大久保権左衛門が田村に「切腹の座を前もって見たい」と言うと、庄田は「その必要はない。それがしが絵図面で承知している」と田村に代わって答える。多門は「目付部屋に控えていたので、絵図面は見ていない。検分もせず、後日事がおこった時には検使の責任になる」と食い下がる。庄田は「正使のそれがしが承知していることを副使がとやかく言うのは迷惑である」と言い放つ。それでも承知しないので、庄田は「勝手になされい」とあきらめる。

 切腹の場を庭先にしつらえてあるのを見た多門伝八郎は、後ろについてきている田村右京大夫に「城主の切腹には武士の情けが必要ではないか」と問うと、田村は「座敷を予定していたが、庄田下総守様が月番老中土屋相模守様の命令として、庭先に変更された」と申し開きをする。

 そこで、多門は庄田に「武士道の仕置に従って切腹を命ぜられた者を、庭先で切腹させることは、大検使の指図でも納得できない。座敷で切腹させるべきである」と主張すると、庄田は「あの場所でよい。正使はそれがしであり、老中もその場所で許可しているのだ」と譲らない。

 大目付庄田下総守は切腹の口上を申し渡す。「浅野内匠、吉良上野介え意趣これ有る由にて、折柄と申し殿中を憚らず理不尽に切り付けるの段重々不届至極に思し召さる。これに依り切腹仰せ付けらるもの也」。それに対して浅野内匠頭は「どの様な罰にも服す覚悟でいたが、切腹を命ぜられありがたく存ずる」と答える。次いで「吉良殿は如何でござる」と問うと、多門は「浅手ではあるが、老人のことなので命はおぼつかないかも知れない」と情のある返事をする。内匠頭をそれを聞き涙を浮かべという。

 浅野内匠頭は「家来に手紙を出したい」と言うと、田村右京大夫が「上役に聞かないと…」と渋る。そこで内匠頭は「片岡源五右衛門か磯貝十郎左衛門に口上で伝えてほしい。『此の段兼て知らせ申すべく候へ共、今日止む事を得ず候故知らせ申さず候、不審に存ずべく候』」」と話す。その口上を田村の家臣が書き留めて「覚」とする。

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