| 1701年3月14日午後6時〜10時 |
| 元禄14年(1701) 3月14日 |
| 六つ時(午後6時)、浅野内匠頭の切腹が終わる。辞世の句は「風さそふ 花よりも猶 我はまた春の名残を いかにとやせん」である。介錯人は磯田武太夫である。 五つ時(午後9時)、大検使・副使は老中・若年寄・大目付・目付が待っていた江戸城に帰る。老中秋元但馬守喬朝と若年寄加藤越中守が3人に会う。大目付庄田下総守は切腹が終了したことを報告する。この時、多門伝八郎・大久保権左衛門は切腹の場所について「粗略の取り計らいで…」と言おうとすると、「明日、申し上げるように」と制止される。 夜、老中土屋相模守の指示で水野監物忠之と戸田伊豆守政倚が浅野上屋敷から引き上げる。 老中土屋相模守は戸田采女正氏定と浅野美濃守長恒を呼び出し、「親類の責任で騒動がないように努めよ」と命令する。屋敷に戻った2人は浅野大学長広に「主人長矩が不届のため切腹を命ぜられた」と言って、老中土屋の仰せ渡しを読み聞かせる。 戸田采女正氏定と浅野美濃守長恒と浅野大学長広の3人は第二の早使(足軽頭300石原惣右衛門54歳・馬廻150石大石瀬左衛門25歳)を赤穂へ向けて発たせる。内容は@主君内匠頭の切腹とA老中土屋の仰せ渡し(親類の責任で騒動がにようにせよ)である。 老中土屋相模守は大検使庄田下総守に、遺体は浅野大学長広に引き渡すよう指示をしていたので、田村右京大夫は大学長広に「勝手次第早々に引き取るように」と書状を送る。 四つ時(午後10時)、長広の用人奥村忠右衛門・御留守居建部喜六、それに内匠頭の家臣片岡源五右衛門・磯貝十郎左衛門が引き取りに来て、遺体を高輪泉岳寺に送る。田村右京大夫の家来が死体を受け取りにきた片岡に浅野内匠頭の口上の「覚」を渡す。この口上の「覚」がわかりにくいので、内匠頭の口上を田村の家臣が改変したのではないかという推測の余地が生まれる。 巷説では、『此の段…』の覚書を田村の使者から受け取った片岡源五右衛門がやってくる。田村は「どうしましょうか」と尋ねたので、多門は「永の暇乞いをさせるのも、武士の情けである」と一存で許可したことになっている。これもフィクションと思われる。 片岡源五右衛門・田中貞四郎・磯貝十郎左衛門・中村清右衛門の4人は殉死の形式をとり、髷を切って泉岳寺の遺体の側に埋葬する。 浅野家の親類は謹慎を命ぜられる(5月6日まで)。 上杉家江戸家老の色部又四郎・須田図書は米沢上杉家の家老中条兵四郎・春日与左衛門に刃傷事件を報告する。 第二報(時刻不明)が足軽飛脚で江戸から送信されました。 第三報(深夜、時刻不明、長矩の切腹と遺体引取り)を持って原惣右衛門と大石瀬左衛門が江戸を出立しました。 |