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1701年3月15日
元禄14年(1701)
3月15日
 午前4時、阿久利(28歳。浅野内匠頭の室)は、実家の三次藩浅野土佐守長澄(長治の孫。阿久利の甥)の麻布今井町下屋敷に引き取られる。戸田采女正氏定は、阿久利を見送り、寅の下刻(午前4時半頃)、自屋敷に帰る。

 勅使・院使は上野と芝の将軍家霊廟に参詣する。

 江戸屋敷詰めの赤穂藩家臣はそこを引き払い町家へ移る。

 申の中刻(午後4時頃)、大目付・目付は浅野大学長広(内匠頭の弟で、内匠頭の養子)に閉門を命ずる。大学長広は評定所から木挽町の屋敷に帰り、門・窓を堅く閉ざす(昼夜も出入りせず)。
 
 赤穂城受城使に3万5000石役(100石に付き10人。つまり3500人の兵を出す役)として播磨国龍野藩脇坂淡路守安照(5万3000石。)・1万5000石役(1500人の兵を出す役)として備中国足守藩木下肥後守(2万3000石)、受城目付に御使番荒木十左衛門政羽・日下部三十郎博貞が任命される。

●城受取 播磨国龍野城主5万3000石 脇坂淡路守安照
●城受取まで 備中国足守城主2万3000石 木下肥後守利康
●収城大目付 御使番1500石 荒木十左衛門
  御書院番1300石 日下部三十郎
●代官   石原新左衛門
    岡田庄太夫


 浅野安芸守綱長(浅野本家。37万6500石)が伊達陸奥守綱村(田村家の本家。62万石)と田村右京大夫建顕に対して「浅野内匠守の切腹が庭先で行われたことはいったい誰の指図によるものか。5万石の城主の格、内匠頭の官名のままでの切腹なら、それ相応の扱いでしかるべきではないか」と抗議を申し入れる。

浅野安芸守綱長は老中にも同じ趣旨の申し入れをする。

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