| 1701年3月20〜22日 |
| 元禄14年(1701) 3月20日 |
| 内蔵助は、領地の人々との経済の安定を図るため、藩庫を開き、藩札を6分替えで交換することを決定する。 赤穂藩の札引替え(六分替え)が大混乱のうちに始まる(3月28日まで)。 脇坂淡路守に対して赤穂城受城使任命の知らせが龍野へ届く。 岡山藩は赤穂との境に奉行を派遣し、赤穂城下へは忍びの者を入れる。 龍野藩は家臣へ赤穂城受城・在番の心得を申し渡す。 |
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| 3月21日 |
| 赤穂藩家中の荒道具売立てが始まる。 内蔵助は石清水八幡宮の大西坊(大石家の一族)に、山科近辺の土地を探して欲しいと依頼する。 19日に主君の切腹を知り、3日後にはこの依頼をしている。内蔵助の本心はどこにあるのかと思わせる行動である。 浅野大学長広閉門の知らせが赤穂へ届く(第四報)。 脇坂淡路守安照の指示で、受城・在番にあたる心得を家臣に申し渡す。 |
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| 3月22日 |
| 幕府は、浅野安芸守と戸田o女正に対し、桜井庄之助に本所・浅野下屋敷を引き渡すことを命ずる。 本所の浅野下屋敷を引き渡す。引き渡しが遅れた理由は、上屋敷の道具を搬入していたからである。 3月19日赤穂を出発した外村源左衛門は広島に着く。広島藩年寄役沖権太夫は「江戸に伺いをたてた上で回答する」という。ていのよい断りである。結局借用に失敗する。 |