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1701年4月11日
元禄14年(1701)
4月11日
 大垣藩の使者村岡勘助・高屋利左衛門らが赤穂へ到着する。

 田中権右衛門および多川九左衛門・月岡次右衛門は戸田采女正氏定と浅野大学の開城諭告の書状を持って赤穂へ帰国する。

 原惣右衛門・矢島権右衛門も赤穂に到着する。

 赤穂城中で会議を開く(第4回大評定)。

 大石内蔵助は番頭・物頭らを城に呼び集め、「受城使が来られたら、一通りの恨みを述べて切腹する覚悟である。同心は判形、同心なき者は勝手たるべし」。大野九郎兵衛は「切腹すれば、大学様はさらに重い罪になる。開城すべきだ」と反論したので、紛糾する。

 そこで原惣右衛門は「大石殿と同じでない方は、この席から立ち退いていただきたい」と言う。大野ら10人が立つ。大石の意見に対し、片岡源五右衛門・磯貝十郎左衛門・田中貞四郎は「仇討ち後切腹したい」と言ったが、大半は内蔵助にしたがう。奥野将監・進藤源四郎・小山源五右衛門・原・河村伝兵衛・三木目之助らが血判する(29人)。

 休憩後、大石内蔵助は「切腹を覚悟した者は一心同体である。亡き主君の憤りをお休めすることこそ、ほんとうの忠義である」「城を渡して、どこかに集まり、相談しようと思う」と本心を告げる(開城後仇討ち)。

 江戸藩邸の1312両を中小姓以上に6両、歩行組に2両、小役人に1両ずつ再分配する。この配分ことで岡島八十右衛門と大野九郎兵衛が衝突する。

 現金を持ち逃げした札座役がいたので、大野は「岡野も同じ穴のむじなだろう」と近くの者に言ったので、それを聞いた銀札座の役人岡島八十右衛門(36歳。原惣右衛門の実子で岡島家の養子)は大野九郎兵衛宅へ切り込む。しかし、大野は戸を閉め切っていたので、会えず。

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