| 1701年5月12日〜5月21日 |
| 元禄14年(1701) 5月12日 |
| 大石内蔵助は、原惣右衛門(54歳)らを上洛させて、京都普門院(六波羅密寺)を動かして浅野家再興を計かる。その内容は「何とぞ手づるを求めて、幕府の役人に大学長広様の赦免を願って欲しい。かねてから心安いと聞いている江戸神田橋護持院の隆光様にもお願いしてもらいたい」である。 しかし下向は実現せず。 堀部安兵衛らは、江戸の到着する。 |
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| 5月16日 |
| 遠林寺の祐海が高野山より赤穂へ帰国する。 |
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| 5月17日 |
| 上洛していた原惣右衛門は大坂に行き、帰国のために大坂にいた広島藩主・三次藩主に対して浅野 家再興への力添え嘆願する。 |
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| 5月19日 |
| 堀部安兵衛は大石内蔵助宛の第一報を京都伏見の大塚屋小右衛門気付けで送る。 まだ内蔵助はまだ上洛していなかったので、しばらくしてその書状は赤穂に転送される。内容は、@吉 良の様子A4月11〜14日にかけて泉岳寺で法要B6月20日過ぎに100カ日の法要の予定C内蔵助の 下向を待つというものである。 |
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| 5月20日 |
| 大石内蔵助は遠林寺に扶助金50両を納める。 大石内蔵助は遠林寺の祐海を江戸に遣わし、護持院隆光・護国寺快意などに浅野家再興の運動を 依頼する。 |
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| 5月21日 |
| 大石内蔵助以下33人は藩政の残務(赤穂での居残り業務)を一段落させる。 |