| 1701年5月1日〜5月11日 |
| 元禄14年(1701) 5月1日 |
| 戸田権左衛門の使者・名波喜平太が江戸に到着し、赤穂城に保管してある浅野家人への内書を持参する。 井上団右衛門が江戸に帰着する。 大石内蔵助は高野山に浅野家4代の御位牌所料を納める。 |
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| 5月2日 |
| 浅野家内書・十二通を土屋相模守に出す。 井上団右衛門らは、浅野安芸守御前によって召され、褒美を受け取る。 目付の荒木十左衛門・榊原采女は「30日間と定めた家臣の退去」を見届ける。 |
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| 5月4日 |
| 大石内蔵助は赤穂城本丸御殿の絵図を作らせる。 |
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| 5月5日 |
| 遠林寺住職・祐海と早水藤左衛門満堯・近松勘六行重(32歳)らは大石内蔵助の命により華嶽院・久岳院・景永院・冷光院の浅野家永代供養料(長重・長直・長友・長矩)を持って高野山へ行き、奥の院に内匠頭供養墓を建てる。 |
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| 5月6日 |
| 以前(3月15日)に謹慎を命ぜられていた浅野内匠頭の近親諸侯(浅野一族)は謹慎が解除される。 浅野美濃守長恒(内匠頭の父の兄)は山田奉行を免職となり寄合となる。 |
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| 5月11日 |
| 受城目付荒木十左衛門・榊原采女は滞在20日余りで赤穂を発ち、江戸へ向かう。この時も、大石内蔵 助は浅野家の再興を嘆願する。 大石内蔵助は左腕に疔腫ができる。 |