| (1702年6月12日〜6月29日) |
| 元禄15年(1702) 6月12日 |
| 堀部安兵衛は、原惣右衛門・潮田又之丞・中村勘助・大高源五・武林唯七宛にそれぞれ書状を書く。 その内容は、「吉良上野介の隠居で処罰はなくなった。浅野大学長広様の浅野家再興は本望ではない。大石内蔵助ら重立つ者が目的を遂げれば、大学長広様に不利になる。群れを離れて決行する方が益が多い」というものである。この書状を13日に祐海にことづける。 堀部安兵衛は5月3日付けの書状を千馬三郎兵衛に託す。 |
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| 6月13日 |
| 祐海は江戸を発って赤穂へ向かう。この時堀部安兵衛は6月12日付けの書状を祐海にことづける。 |
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| 6月15日 |
| 堀部安兵衛・奥田孫左衛門とその両父は、5月21日付けの大石内蔵助の書状に対する返書を書く。その内容は「あなたに無断で討ち入りことはない」というが、水面下では討ち入りに動く。 |
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| 6月18日 |
| この頃、堀部安兵衛は『堀部武庸筆記』を細井広沢知慎(江戸の剣客堀内源左衛門で安兵衛と同門。側用人柳沢吉保の儒臣)に預ける。浅野大学長広の処分決定が遅れていたら、堀部らは少数でも討ち入りを行っていたかもしれない。 細井広沢は主人柳沢吉保に大石内蔵助と安兵衛とのやりとりのいきさつを報告したかも知れない。 堀部安兵衛は江戸を発って京都へ向かう。 |
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| 6月29日 |
| 堀部安兵衛は伏見で大高源五らと会い、ついで大坂で原惣右衛門と「大石内蔵助らと別れて仇討ちする」ことを相談する。堀部は江戸に帰る日を7月25日と決める。 |