| (1702年7月5日〜7月24日) |
| 元禄15年(1702) 7月5日 |
| 大石内蔵助の三男大三郎が但馬豊岡において生まれる。 |
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| 7月15日 |
| 橋本平左衛門公之は、大坂・新地にて自決する(18歳)。 |
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| 7月18日 |
| 若年寄加藤越中守明英から「浅野左兵衛長武と共に来るように」との書状が浅野本家に届く。 そこで加藤越中守邸に赴くと、加藤は「浅野大学長広は浅野内匠頭の養子として閉門にしていたがそれを解除する。今後は浅野安芸守方へお預けとする」という処分を伝える。 浅野大学は浅野本家広島藩の桜田屋敷へ移る。これにより赤穂浅野家の再興は絶望となる。 その結果赤穂で結んだ大学処分までは自重するという盟約にしばられなくなる。残る道は討ち入りしかない。しかし幕府に対して弓を引くことは重罪になると考えた人もいる。主家再興を目的として盟約に加わっていた者は動揺する。 |
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| 7月22日 |
| 吉田忠左衛門は蔵奉行貝賀弥左衛門(53歳。忠左衛門の弟)に浅野大学の左遷を伝える。 弥左衛門は大学の広島左遷を山科の大石内蔵助に報告する。 浅野大学は木挽町の屋敷を没収される。 堀部安兵衛は、内蔵助に京畿付近の同志を集めるよう要請する。 |
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| 7月24日 |
| 堀部安兵衛が江戸に帰る1日前に、浅野大学が広島に左遷されるという報が吉田忠左衛門から山科の大石内蔵助に届く。 意を決した大石内蔵助は横川勘平を吉田忠左衛門との連絡のため江戸へ発たせる。内蔵助は路銀として6両3分を支給する。 大石りくから、7月19日付けの手紙(7月5日三男大三郎出生の報)が届く。 |