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(1702年閏8月1日〜閏8月10日)
元禄15年(1702)
閏8月1日
 大石内蔵助は山科を引き上げ、京都新京極四条上ル(四条河原町)の金蓮寺塔頭梅林庵に移る。

閏8月5日
 堀部安兵衛・倉橋伝助・杉野十平次・勝田新左衛門・横川勘平が吉田忠左衛門を招いて夜回りについて相談し、行動を開始する。
 吉田忠左衛門はその後冨森助右衛門・中村勘助とも協議して、新麹町の者たちも夜回りを開始する。

閏8月7日
 田中権左衛門が脱盟する。

 吉田忠左衛門が堀部安兵衛らに夜回り心待「覚」を書き送る。その内容は次のようである。@本所付近は場末で人通りが少なく注意が必要であるA吉良邸附近は辻番が見とがめるので無用である。

閏8月8日
 進藤源四郎(大石内蔵助の親類。潮田又之丞の妻の父)は「吉良邸討ち入るべきではなく、浅野大学長広様の再処分を願うべきで、大石とは異見である」と言って内蔵助に責任を押し付けて脱盟する。
 怒った又之丞は妻を離縁する。

閏8月9日
 糟屋勘左衛門・岡本次郎左衛門が脱盟する。

閏8月10日
 小山源五右衛門・弥六が脱盟する。理由は進藤源四郎と同じで、大石内蔵助に責任を押し付ける。

閏8月上旬
 貝賀弥左衛門・大高源五は、京都に帰着する。

閏8月〜10月
 このころ、同志が江戸に集結(東下り)を始める。大石内蔵助は路銀として1人3両計82両1歩2朱銀
5匁8分5厘を支給する。

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