| (1702年8月15日〜8月末日) |
| 元禄15年(1702) 8月15日 |
| 貝賀弥左衛門・大高源五は赤穂地方の盟書返戻に廻る。大石内蔵助はこの費用に3両2歩銀9匁7分を支給する。 酒寄作右衛門は大石内蔵助・原惣右衛門に「脱落の意向」の書状を送る。その内容は横川勘平が連状に判形せよと言ってきたが、自分は歩行付自由なので判形できないが、ここでは一応判形して別紙で事情を大石殿にのべたいというものである。 同志の矢頭長助教照が大坂において病死する。 |
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| 8月16日 |
| 浅野大学が大坂を発って海路広島に向かう。 |
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| 8月17日 |
| 吉田忠左衛門は、潮田又之丞に近松勘六を同行させて、船中会議の意向を大石内蔵助に伝えるために江戸を発たさせる。 |
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| 8月21日 |
| 浅野大学が広島へ到着する。 |
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| 8月23日 |
| 大石内蔵助は、貝賀弥左衛門・大高源五宛に書状(個人名を挙げて8月5日付けの書状を渡すように)を送る。 灰方藤兵衛は、脱盟口上(討ち入りを見合わせるという大石内蔵助殿とは異見なので、列を離れる)書く。内蔵助に責任を負わせるやりかたである。 |
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| 8月 |
| このころ、横川勘平が江戸の同志から血判の返戻にまわる。 このころ、貝賀弥左衛門・大高源五が京・大坂・播磨などの同志から血判の返戻にまわる。 このころ、組頭奥野将監(1000石)が脱盟する。 |
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| 8月末 |
| 潮田又之丞・近松勘助が山科の大石内蔵助邸に着く。内蔵助と潮田らは「仇討ちのために行動する」ことで意見が一致する。 |