| (1702年11月5日〜11月8日) |
| 元禄15年(1702) 11月5日 |
| 堀部弥兵衛は大石内蔵助批判の「了簡書付」を記す(「同志は窮迫しており、事の成否を考えずすぐ突 っ込め」と大石の慎重論を批判する)。 この書き付けを見て大石内蔵助は平間村から江戸に入り、大石主税が泊まっている日本橋石町3丁目公事宿・小山屋弥兵衛方裏店に左内(主税)の叔父と称して同居する。 |
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| 11月7日 |
| 大石内蔵助は吉田忠左衛門・原惣右衛門らと討ち入りの綱領・趣意書を作成する。内蔵助は入用費・借宅代として吉田忠左衛門に54両3歩銀9匁1分5厘を支給する。 |
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| 11月7日〜8日 |
| この両日、大石内蔵助・吉田忠左衛門・原惣右衛門は小山屋弥兵衛方裏店の大石主税宅にて(堀部弥兵衛宅という説もある)会談する。 内蔵助は、小山屋にて、原惣右衛門・吉田忠左衛門らと協議して、討ち入り綱領・条目を内容とした起請文の文案(前書と心得書き)と討ち入り趣意書(浅野内匠頭家来の口上)を作成する。 その後、討ち入り趣意書を同志に手渡す。 討ち入り道具は神崎与五郎・前原伊助・堀部安兵衛宅の三カ所に運ぶことにする。安兵衛が手に入れた吉良家図面は前住人の松平登之助のもので、それに前原・神崎が苦心して追加していく。毛利小平太は下男になって忍び込み、大体が判明する。 |