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(1702年11月13日〜11月末日)
元禄15年(1702)
11月13日
 大石三平(大石一族で、大石瀬左衛門の伯父無人の次男。中島五郎作とは学友)は商人中嶋五郎作とその借宅にいた羽倉斎(はぐらいつき。後の荷田春満のこと)から得た吉良情報を堀部弥兵衛に知らせる。「11月6日に五郎作はト市宅へ行く」という情報である。

11月19日
 大高源五は大石内蔵助の指示で大坂の呉服商人脇屋新兵衛と称し山田宗匠(上野介の茶道の宗匠で、上野介は宗匠をよく屋敷に呼んでいた)に入門する。

11月下旬
 大石大三郎(内蔵助の三男)は丹後熊野郡須田村の眼科医林文左衛門の養子となる。

11月28日
 原惣右衛門は、吉良上野介の情報を確認するため、大石三平に依頼状(「今日晩か明朝来てもらいたい」)を送る。

 斎藤利紀は、将軍・綱吉に謁見して、赤穂城地公布の件を伝える。

11月29日
 大石内蔵助は、浅野家の祭祀の公金決算や金銀の支払いなどをまとめた「預置候金銀請払帳」(城明け渡し後の6月4日に預かった公金の使途記録)を、落合与左衛門勝信(内匠頭未亡人瑶泉院の用人)を通じて瑶泉院に提出する。

11月末
 大高源五が山田宗匠より6日朝から茶会がある事を聞きだしたので、同志は12月6日早朝の討入りに向け、準備態勢に入る。

この月
 寺井玄渓は、京都から江戸に帰着する。

 羽倉斎は、内蔵助に討ち入り方法を教示する。

 小山田庄左衛門が酒色にふけり、同志の片岡源五右衛門から3両と小袖を盗んで脱盟する。

 内蔵助は、同志を4つのグループに分けて吉良家を偵察させ、討ち入り当日に備える。

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