| (1702年12月2日) |
| 元禄15年(1702) 12月2日 |
| 内蔵助は、同志を深川八幡に集め、討ち入り成功を祈る。 また、頼母子講の集まりと称して、門前の茶屋にて会合し、討ち入りの時期・それぞれの部署・心構えなどについての13か条を出す。 「人々心覚」(16カ条。討ち入りの時期と部署の最終打ち合わせ)を決める。 その内容は次のようである。@日が決まったら3カ所(安兵衛宅・杉野十平次宅・前原伊助宅)に集合 するA最後には安兵衛宅に集合する(後に前原宅に変更される)B定刻(12月6日の午前4時)を守っ て出発するC吉良上野介の首を挙げた者は、上着を剥ぎそれに包んで持参するD上野介の首は泉岳 寺の墓に備える。途中役人に会ったらその役人の指示に従う E吉良左兵衛義周の首は打ち捨てるF味方の重傷者は首を切るG上野介の首をとったら小笛を吹く H鉦は全員が引き上げる時に使用するI引き上げる場所は回向院とする。ここが駄目なときは両国橋 東詰め広場とするJ引き上げの途中、押しとどめる者がいたら事実を告げ、泉岳寺までついてきてもら うK吉良邸からの追っ手には踏みとどまって勝負する L上野介の首を取る前に検使が来たら、くぐり戸から1人だけ外へ出て挨拶をするMその時、「ただ今 敵を討ちとめた。生き残った者を呼び集め、命令に従うので、しばらく待った頂きたい」と言って、門は開 けないN引き上げ出口は裏門とするO生きて帰れぬ覚悟で討ち入る。 この頃、堀部弥兵衛が起草した「浅野家内匠頭家来口上書」を細井広沢(柳沢吉保の儒臣)から指摘 を受け(『』の部分と言われる)、弥兵衛がが加筆したといわれる。口上書の全文を次に掲げる。 「去年3月、内匠儀、伝奏屋敷御馳走の儀に付き、吉良上野介殿へ意趣を含み罷りあり候ところ、御殿 中において、当座遁れがたき儀御座候か、刃傷に及び候。時節場所を弁えざるの働き、無調法至極に 付き切腹仰せ付けられ、領地・赤穂城召し上げられ候儀家来どもまで畏れ入り存じ奉り、上使御下知を 請け、城地指し上げ、家中さっそく離散仕り候、右喧嘩の節御同席御抑留の御方これ在り、上野介殿討 ち留め申さず、内匠末期残念の心底、家来ども忍び難き仕合いに御座候、 『高家おん歴々に対し、家来ども鬱憤をさしはさみ候段、憚りに存じ奉り候えども、君父の讐ともに天を 載くべからざるの儀黙しがたく』、 今日上野介殿おん宅へ推参仕り候。ひとえに亡主の意趣を継ぐ志までに御座候。私ども死後、もし御 見分のお方御座候わば、御披見願い奉りたく、かくの如くに御座候」 |