| (1702年12月16日午前0時〜午後8時) |
| 元禄15年(1702) 12月16日 |
| 九つ時(午前0時)、細川越中守・松平隠岐守・毛利甲斐守・水野監物の順に代表者を大目付仙石伯耆守が呼び出し、預かるべき義士の名前を読み上げる。目付鈴木源五右衛門・水野小左衛門が列座している。次々と義士は駕籠の人となる。 四大名家は義士の待遇について老中へ伺書を提出する。 丑の刻(午前2時)、熊本藩受取人875人に付き添われて義士17人が到着し、下屋敷へ預けられる(他藩もその前後に到着する)。 細川越中守は下屋敷へ出向き預かり人17人に面接し、「今日の仕形は神妙である」と激賞する。堀内伝右衛門ら5人をご馳走役に任命する。この厚遇の噂が他家にも伝わる。 松山藩(受取人286人)の上屋敷へ義士10人、長府藩(受取人229人余)の三田中屋敷へ義士10人、岡崎藩(受取人120人余)の上屋敷へ義士9人が預けられる。 伊予松山城主・松平(久松)隠岐守定直は、愛宕の上屋敷の長屋に収容していた10人を三田の中屋敷に移した。空いた10戸の長屋にさらに10人を収容する(意味不明)。 五つ時(午後8時)、泉岳寺住職の酬山長恩は寺社奉行の指図に従い、泉岳寺使僧一呑と石獅の2人を派遣して吉良上野介の首を吉良家へ返す。 その時の首受取状が残っている。「首 一つ 紙包 一つ 右の通り慥に請け取り申し候、念のためこのごとく御座候、以上 吉良左兵衛内 左右田孫兵衛…」。 |