| (1702年12月19日〜12月23日) |
| 元禄15年(1702) 12月19日 |
| 吉良左兵衛は栗崎道有に父上野介の首と胴を縫い合わさせて、牛込万昌院に埋葬する。三河岡山の 華蔵寺に分骨する。 |
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| 12月20日 |
| 岡崎城主・水野監物は、上屋敷の9人を三田四国町の中屋敷へ移す。 |
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| 12月21日 |
| 水野監物が間十次郎ら9人の預かり人に面接する。 |
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| 12月23日 |
| 老中から諮問を受けた評定所は、学者の意見や世論を考慮に入れて、次のような建議をする。 評定所のメンバーは大目付仙石伯耆守以下4人、寺社奉行永井伊賀守以下3人、町奉行松前伊豆守以下3人、勘定奉行荻原近江守重秀以下4人で構成されている。 学者の意見で代表的なのは、次の3人である。室鳩巣は「彼らの忠義の行動は武士道の典型である」と いう。林信篤は「君臣父子の讐は、倶に天を戴かず。このたびの復讐は士の道である」という。 荻生徂徠(柳沢吉保の儒臣)は「義は己を潔くする道、法は天下の規則である。仇を討ち、己を潔くした が、無法(公儀の無許可)である。処分として切腹がよい。武士としての面目も立つし、上杉家の願いも叶 う。幕府も忠義の行動を軽視していないことになる」と2人に反論する。 幕府評定所は連署して「評定所一座存寄書」を上奏する。 その内容は次のようである。@吉良左兵衛義周は親を守らなかったので切腹にあたるA上杉綱憲父子 は四十六士が泉岳寺にいるのに放置したので領地没収にあたるB四十六士は亡主のため一命を捨てて討ち入りした。これは天和の武家諸法度(『文武忠孝に励み、礼儀を正すべし』)に的中しており、真実の忠義であるCもう少し時を経てから処分を決める。 荻生徂徠の意見書は柳沢吉保を通して将軍徳川綱吉へ伝えられる。 |