エピソード

037_03

阿衡事件と菅原道真の大宰府流罪
 845(承和12)年、菅原道真菅原是善の三男として生まれました。菅原神社の東北約100mのところに、この池の水で産湯をつかったという産湯池の遺跡があります。
 わずか5歳で和歌を詠み、10歳で漢詩を創作して神童と称されました。18歳で文章生、23歳で文章得業生、26歳でついに方略式に合格しました。
 850(嘉祥3)年4月、仁明天皇が亡くなり、道康親王(父は仁明天皇、母は藤原良房の妹順子)が即位して、文徳天皇となりました。
 11月、惟仁親王(父は文徳天皇、母は藤原良房の娘明子)が皇太子になりました。時に11ヶ月の赤ちゃん皇太子です。
 858(天安2)年11月、文徳天皇(32歳)が亡くなりました。惟仁親王が即位して清和天皇となりました。時に9歳の子供天皇です。
 869(貞観11)年、貞明親王(父は清和天皇、母は藤原基経の妹高子)が皇太子になりました。時に2歳の赤ちゃん皇太子です。
 877(元慶元)年11月、清和天皇(28歳)が亡くなりました。貞明親王が即位して陽成天皇となりました。時に10歳の子供天皇です。
 菅原道真は、33歳で学者として最高の栄誉の文章博士となりました。しかし、政治的には不遇で、42歳の時、従五位上で讃岐守となり、讃岐国に赴任しました。
 884(元慶8)年、太政大臣藤原基経は、陽成天皇(17歳)を譲位させて、時康親王を即位させ光孝天皇となりました。光孝天皇はこの時55歳でした。感動した光孝天皇は基経に関白の地位を贈りました。これが関白設置の最初と言われています。
 887(仁和3)年8月、定省親王(父は光孝天皇、母は班子女王)が皇太子になりました。
 11月、光孝天皇が亡くなりました。定省親王が即位して宇多天皇となりました。藤原氏とは関係のない天皇で、親政に意欲を感じていました。
 宇多天皇は藤原基経を関白に任命する時、天皇は当時最高の学者と言われた橘広相(娘義子は宇多天皇の妃)に文書を書かせました。その文面には「政務は全て太政大臣に関り白せ」とありました。基経は当時の作法に従い、これを辞退します。広相はこれも例に倣い、二度同じ文書を書くのは学者の恥とされていたので「阿衡に作(タスケ)を以て卿の任とせよ」と書きました。
 基経の側近である藤原佐理が「阿衡とは前総理のこと、つまり一種の名誉職だから、今後出仕する必要はありません」と悪意の進言をしました。広相は反論しましたが、基経は以後半年に渡って出仕を見合わせ、朝廷の政治を混乱させてしまいました。基経の宇多天皇へのいやがらせです。
 慌てた宇多天皇は学者であった菅原道真(43歳)に意見を求めると、道真は「橘広相を処罰して藤原基経に再度関白を任命するのが妥当ではないでしょうか」と進言しました。宇多天皇はこの道真の進言に従ったので、事件はようやく収まりました。これを阿衡事件とか阿衡の紛議といいます。
 同時に道真は、阿衡の紛議に関する意見書を藤原基経に提出しました。それは「広相を擁護し、藤原氏の功績を称えつつも、今回の紛議は藤原氏のためにならない」という内容でした。
 宇多天皇はこの道真の行動を気に入り、すぐさま道真を讃岐から呼び寄せました。これ以後道真の政治的な出世街道が始まるのです。
 891(寛平3)年、菅原道真は、宇多天皇の側近である蔵人頭で、式部少輔となりました。
 893(寛平5)年4月、敦仁親王(父は宇多天皇、母は藤原胤子)が皇太子になりました。
 菅原道真(49歳)は、参議となり、地方自治の長である勘解由長官や皇太子の世話をする春宮亮(次官)を兼ねています。道真は斉世親王(宇多天皇の第2子)の妃に娘を嫁がせています。宇多天皇の寵愛を受け、それが権力者藤原氏から危険視される状況に自分を追いやっていったのです。
 894(寛平6)年、菅原道真(50歳)は、遣唐大使となります。これは藤原氏の陰謀でしたが、道真は遣唐使派遣を中止することで、自らのピンチを救いました。宇多天皇から侍従職を任命されます。侍従職とは御璽国璽をつかさどり、側近に関することや皇族に関することに従事する事になっています。これは天皇の側近中の側近という役割であることが分かります。
 895(寛平7)年、菅原道真(51歳)は、他の5人の参議を差し置いて従三位中納言に昇進し、東宮権大夫(長官)を兼ね、敦仁親王を補佐しました。
 897(寛平9)年、菅原道真(53歳)は、権大納言に任じられ、右近衛大将を兼ねます。     
 897(寛平9)年7月、宇多天皇が譲位しました。敦仁親王が即位して醍醐天皇となりました。時に13歳です。実権は父の宇多上皇が握っています。
 899(昌泰2)年、菅原道真(55歳)は、正三位右大臣となりました。吉備真備が学者で初めて大臣になって以来、2人目の学界出身の大臣です。同時に藤原時平左大臣となりましたが、時平は常に自分と平行して昇進してくる道真を「学者のくせに、不愉快な存在」と思っていました。道真の後ろ盾だった宇多上皇が出家しました。
 901(延喜1)年、菅原道真(57歳)は、従二位となりました 。突如、右大臣道真を太宰権帥に任ずる勅が発せられました。左遷の理由は「道真が、宇多上皇の信認を裏切って、醍醐天皇を廃し、彼の娘が嫁いでいた天皇の弟(斉世親王)を皇位につけようとした」と言うものでした。後ろ盾を失った道真は一言の弁明も許されませんでした。
 都の邸宅に妻と娘を残して太宰府に赴く道真は、「東風吹かば においおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」と詠みました。 
 配所で月を見ては清涼殿での月見の宴を思い起こして、「去年の今夜清涼に侍す 秋思の詩篇独り腸を断つ 恩賜の御衣今ここにあり 捧げ持ちて毎日余香を拝す」と詠みました。
 903(延喜3)年、菅原道真(59歳)は、失意のうちに亡くなりました。死後、都では道真のたたりとされる異変が相次いで起こりました。
 904(延喜4)年、崇象親王(父は醍醐天皇、母は藤原時平の娘穏子。改名して保明親王)が皇太子になりました。
 905(延喜5)年、道真生誕の地に菅原天満宮が建てられました。
 914(延喜14)年、藤原忠平(父は藤原基経)が右大臣になりました。
 919(延喜19)年、道真が亡くなった場所に、神託によって、太宰府天満宮が建てられました。
 923(延長元)年、皇太子保明親王(21歳)が急死しました。菅原道真の怨霊の祟りとの噂が流れ、菅原道真は、朝廷からは罪を取り消して本官に戻すという詔勅がでました。
 4月、慶頼王(父は醍醐天皇の皇子保明親王、母は藤原時平の娘仁善子)が皇太子になりました。
 924(延長2)年、藤原忠平が左大臣になりました。
 925(延長3)年、慶頼王が亡くなり、寛明親王(父は醍醐天皇、母は藤原基経の娘穏子)が皇太子になりました。時に3歳でした。
 930(延長8)年9月、醍醐天皇(46歳)が亡くなりました。寛明親王が即位して、朱雀天皇となりました。時に8歳でした。
 道真の怨霊(御霊)は雷神となって猛威をふるい、清涼殿に落雷して貴族を殺傷しました。
 また、日蔵(道賢)上人が地獄巡りをした時、道真を無実の罪で太宰府に左遷した醍醐天皇が、地獄で苦しむのを見たとされていいます。
 936(承平6)年、藤原忠平が太政大臣になりました。
 947(天暦元)年 比良宮の神官の子太郎丸に神託がおり、北野天満宮を建てられました。
 993(正暦4)年、道真に正一位太政大臣を贈られました。
 こうして、荒ぶる神として恐れられていた道真の霊は、慈悲深い神として親しまれ、国家を護る神、学問の神として、多くの庶民に親しまれるようになりました。
不敗神話の持ち主には、不可能と言う文字はないのか
 阿衡事件は藤原氏が天皇をも凌ぐ権力を握ったという象徴的な事件です。と同時に天皇のカリスマ性を利用するという関係でもあります。藤原基経こそ、不可能という文字を知らずに死んでいった権力者ではないでしょうか。
 私が住んでいる近くに汐見台という地名があります。菅原道真は大宰府に流される時、ここに立ち寄り海を見たという故事から付けられたということになっています。
 淡路島にもそうした伝説があります。対岸の明石にもあります。明石と相生の間の姫路にもあります。物見遊山でもあるまいに、海を挟んであちこちよることもないでしょう。
 本当のルートは平安京から河内を通り、明石により、四国の坂出・今治に寄り、中国の周防を通って九州に入り、権田から博多、そして大宰府に着いています。
 この話を探れば、日本人の民族的特性が分かるのではないでしょうか。
 学者の身で、右大臣という政治のトップに立ち、権力と闘い、最後には敗れると言う話は、判官びいきとして格好の材料です。
 でも、道真の真実は、負けしらずの出世街道をまっしぐらにすすみ、自分の娘を天皇の弟に差し出しています。この時までは、不可能と言う文字を知らなかったのではないでしょうか。
 最近、梅原猛氏の記事を読みました。「日本の神道は、自分たちが滅ぼした人々の怨霊を神としてまつり、鎮魂してきた。が、明治以後、日本は廃仏毀釈で神仏を排除し、国家を神とする新しい宗教を作ってしまった。それが靖国神社であり、そこには日本の侵略の犠牲となった中国や韓国の人はまつられていない。これは神道の伝統からはずれることであり、国際的には孤立せざるを得ない。首相が靖国に参拝するのはよくない」(2006年1月27日朝日新聞)
系図の説明(天皇、藤原氏、今回登場した藤原氏、事件の被害者)
藤原長良 ━━━━ ━━━ ━━━━ 藤原高子
  ‖━ 陽成天皇
 ‖ 藤原時平
 ‖ 藤原忠平
藤原良房 藤原基経 ━━━ ━━━━ ━━ 藤原穏子
━━━━ ━━━ 藤原明子  ‖
━━━━ 藤 原 順 子 ‖━ 清和天皇 寛明親王
 ‖━ 文徳天皇   ‖━ 成明親王
藤原良門 藤原高藤 ━━━ ━━━━ 藤原胤子
  ‖ 敦仁親王(醍醐天皇)
仁 明 天 皇   ‖━ 斉  世  親  王
 ‖━ 光孝天皇   ‖  ‖
沢子  ‖━ 定省親王(宇多天皇)  ‖
班子女王 菅原道真 ━━娘

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