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エピソード

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討幕運動の展開T(奇兵隊の結成)
 1857(安政4)年、高杉晋作(19歳)は、久坂玄瑞に誘われて、松下村塾に入門します。師の吉田松陰に高くその才を認められ、久坂玄瑞と共に松門の双璧と称されました。
 1859(安政6)年5月、安政の大獄で、吉田松陰は江戸送りとなりました。高杉晋作(21歳)は、獄中の吉田松陰より書簡10数通受け取っています。2人の師弟関係の深さが分かります。
 1861(文久元)年、高杉晋作(23歳)は、毛利敬親の継嗣毛利定広の小姓役に抜擢されました。
 1862(文久2)年5月、高杉晋作(24歳)は、藩主毛利敬親の命令で、幕府の使節随行して上海を視察しました。この時、欧米の植民地となっている清の現状を目撃した高杉晋作は、日本人にこのような屈辱を経験させないことを誓ったといいます。
 12月、上海から帰国しました高杉晋作は、攘夷運動に参加し、品川御殿山にあるイギリス公使館を襲撃し、全焼させています。
 1863(文久3)年1月、高杉晋作(25歳)は、師吉田松陰の遺骨を武蔵の若林村に改葬しました。これが現在に松蔭神社です。。
 3月、師吉田松陰の死に接した高杉晋作は、攘夷運動から離れ、剃髪して東行と号しました。この時の気持ちを「西へ行く 人を慕ふて 東行く 心の底ぞ 神や知るらん」と表現しています。
 5月、高杉晋作は、長州藩外国船砲撃事件の時、馬関総奉行に抜擢されて、下関の防衛を任されました。しかし、アメリカ軍艦ワイオミング号とフランス軍艦セミラミス号らの反撃によって、敗北を喫しました。その時、旧来の武士の戦意をなさを見て、外国軍に対抗できる軍隊の創設を決意しました。
 6月、高杉晋作は、藩主毛利敬親(45歳)に建議し、正規の藩兵(正兵)とは異なり、門閥・身分にかかわらない志願による軍隊を組織しました。この軍隊を奇兵隊といいます。
 8月、八・一八の政変で、長州藩が京都から一掃されました。
 1864(元治元)年1月、高杉晋作(26歳)は、来島又兵衛にののしられたのに怒り、脱藩して京都へ向かいました。
 6月、脱藩の罪で野山獄に投獄されていた高杉晋作は、桂小五郎らの尽力で許されて、自宅で謹慎します。
 7月、蛤門の変が原因で、第一次長州征伐が行われました。
 8月、高杉晋作は、四国艦隊下関砲撃事件の時、休戦条約の正使に任命され、講和条約を締結に成功しました。
 9月、第一次長征中、俗論派(幕府支持派のこと)が勢力を強め、正義派(尊攘派のこと)の周布政之助が自害しました。
 10月、高杉晋作は、俗論派から逃れるため、谷梅之助と変名して九州へ逃げ隠れしました。
 11月、高杉晋作は、野村望東尼平尾山荘に潜伏しました。
 11月12日、幕府の力を背に俗論派は、正義派(尊攘派のこと)の3家老を処刑しました。藩主の毛利敬親は、蟄居して謹慎の意を表しました。その結果、椋梨藤太ら俗論派が、藩政を牛耳りました。
 11月25日、正義派家老の処刑を聞いた高杉晋作は、死を覚悟して、馬関へ帰国しました。高杉晋作は、正義派の政権を樹立のため、奇兵隊など諸隊の幹部に決起を促しましたが、不利な状況に賛成する者はいませんでした。
 12月、その間、俗論派は、正義派を処刑した功により、第一回長州征伐をのがれるなどの実績を示しました。
 12月15日夜半、高杉晋作の必死の呼びかけに、遊撃隊石川小五郎力士隊伊藤俊輔(後の伊藤博文)、馬関の佐世八十郎前原一誠)らが同調しました。それでやっと84人になりました。
 雪の功山寺を訪れた高杉晋作は、三条実美ら五卿に挨拶を行い、「今から長州男子の肝っ玉をお目にかけます」と語りました。これが功山寺挙兵です。
 12月16日、高杉晋作は、馬関の萩本藩会所を占領します。海上制圧のため三田尻の軍艦3艇を奪います。このころになると、諸隊は2000人に達しました。
 1865(慶応元)年3月、高杉晋作(27歳)は藩権力を掌握し、藩論を恭順から討幕へと転回しました。
 この時の幹部を紹介します。
 伊藤俊輔博文(24歳)、高杉晋作(27歳)、山県狂介有朋(27歳)、井上聞多馨(31歳)、前原一誠(32歳)、大村益次郎(32歳)、桂小五郎(33歳)などです。          
 4月、幕府は、長州の反幕政策に対して、態度を硬化させます。 
 5月、西郷隆盛(39歳)は、第二次長州征伐を予想して、坂本竜馬(31歳)に長州との和解を依頼しました。     
 6月、幕府は、長州に対して領地削減を命令しました。討幕に転じた長州藩は、これを拒否しました。
 9月、幕府は、第二次長州征伐を発表しました。      
 1866(慶応2)年1月、薩長同盟が成立しました。
 6月6日、高杉晋作(28歳)は、海軍総督に就任しました。
 6月17日、長州軍は、連戦連勝し、田の浦・門司を占領しました。
 7月、将軍徳川家茂が急死し、徳川慶喜が15代将軍になりました。
 8月、小倉城が炎上するなど、長州軍は、四境戦争に圧勝しました。
 9月、幕府は、前将軍徳川家茂の急死理由に、第二次長州征伐を中止しました。
 10月、高杉晋作は、肺結核が重くない、役職を退きました。
 1867(慶応3)年4月14日午前2時、高杉晋作は、下関で亡くなりました。時に29歳でした。
 4月16日、高杉晋作は、遺言により奇兵隊ゆかりの地(東行庵)に葬られました。
 この項は、『合戦全集』『歴史群像』などを参考にしました。
高杉晋作とは、どんな人?
 高杉晋作が創設した奇兵隊の「奇」は、騎兵隊の「騎」ではなく、正規軍の「正」に対する「奇」という意味です。
 高杉晋作が、どうしてこの名を使ったのでしょうか。長州藩が外国船を砲撃したとき、米仏の軍艦に反撃されました。近代的に整備された外国軍に対して、封建的に訓練された武士は全く役に立ちませんでした。つまり、戦うという意味では、父が武士(軍人)だからといって子供に軍人としての資質があるわけではありません。
 そこで、高杉晋作は、藩主である毛利敬親に願い出て、戦う資質のある若者を、身分に関係なく組織することにしました。山の猟師、海の漁師、農村の百姓らに「飯より喧嘩の好きな奴は侍にしてやる」と募集したのです。
 正規軍の武士は、自分たちの身分を犯しかねない高杉晋作の提案を、固唾を呑んで見守っていました。
 いよいよ、集合の日時がきました。その時の服装や、だらしない集合を見た正規軍の武士は「なんや兵隊、兵隊いうても変な兵隊や」(長州弁では同表現するのでしょうか)と嘲笑したといいます。これを知った「飯より喧嘩の好きな」連中は、怒り狂ったといいます。しかし、高杉晋作は「その通りや。お前らは変な兵隊や。だから名前を奇兵隊とする」と言ったので、奇兵隊が誕生したといいます。実際、奇兵隊の割合は、武士43%・庶民33%・不明約24%でした。
 その時、高杉晋作は「名前が変でもいい。いずれ正規軍の武士と戦うときがある。それまで怒りのエネルギーは保存しておけ」と付け加えることも忘れませんでした。その後、正規軍の武士と戦って勝利し、この精神が明治の陸軍につながるのです。
 変な体や、変な顔やといわれてすぐ切れる若者がいます。人間である限り「変」は当たり前です。言われた怒りのエネルギーを保存して、自分の将来に注ぎ込むということを、高杉晋作は提案しているのです。
 普通、奇兵隊の記述は「攘夷の不可能をさとった高杉晋作・桂小五郎(木戸孝允)らの革新派が、保守的な藩の上層部に反発し、高杉はさきに組織した奇兵隊をひきいて下関で兵をあげ、藩の主導権をにぎった。この革新勢力は領内の豪農や村役人と結んで、藩論を恭順から討幕へと転回させていった」となっています。
 しかし、ここで考えたいのが、兵の維持費の問題です。兵隊の衣食住の生活費や銃などの武器・弾薬費にはどれくらいかかったのでしょうか。現在、自衛隊員1人にたいする維持費が1億円といいます。
 奇兵隊の維持費を誰が出したのか。そこで、調べてみました。白石正一郎ら豪農商でした。彼らはどんな人か。封建的な分裂国家や鎖国を否定するマニュファクチュアの経営者でした。
 何故、彼らが莫大な費用を出したのか。討幕・開国の立場をとる高杉晋作の考えと、白石正一郎らの考えが一致していたのです。
 奇兵隊の根拠地が白石正一郎邸から赤間神宮に移ります。討幕・開国は、一個人を超えて長州藩の考えとなっていたことを象徴しています。やはり、政治は、経済を通して見ることも大切ですね。
 私は、1996年に忠臣蔵のホームページをアップしました。その後、高杉晋作が、功山寺の挙兵を、12月14日にこだわったということを知りました。14日には準備が間に合わず、15日にずれこみました。高杉晋作は、時期尚早といわれながらも、84人だけで挙兵しました。大石内蔵助も、正確には15日の午前4時頃、吉良邸に討入りしています。
 私は、功山寺へ行きましたが、直接史料で、忠臣蔵との接点を見つけることが出来ませんでした。しかし、地元のガイドさんは、接点を熱心に説明していました。
 高杉晋作は、功山寺の挙兵の時、死を覚悟していました。そこで、墓も作り、墓碑銘も指示していました。それには以下のような文面が書かれていました。
(表)
 「故奇兵隊開闢総督高杉晋作則
  西海一狂生東行之墓      
  遊撃将軍谷梅之助也」
(裏)
 「毛利家恩古臣高杉某嫡子也」        
 高杉晋作の辞世の句は、「おもしろき こともなき世を おもしろく」でした。これに、晋作を看病していた野村望東尼が「すみなすものは 心なりけり」と下の句を読んだといいます。
 顕彰碑には、「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し、衆目駭然、敢て正視する者なし。これ我が東行高杉君に非ずや」とあります。これは伊藤博文の言葉といわれています。
 高杉晋作は、「三千世界のカラスを殺し、ぬしと朝寝をしてみたい サーサエササノサ、ササササエササノ、コラサノドッコイサノ、ヨイトサノサッサ」という都々逸を作ったともいわれています。

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