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エピソード

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討幕運動の展開U(第一次長州征伐・第二次長州征伐)
第一次長州征伐
 1863(文久3)年8月18日、八・一八の政変で、長州の尊攘派が、薩摩藩・会津藩により京都から追放されました。
 1864(元治元)年6月5日、池田屋事件で、長州藩の尊攘派の多くが新撰組より殺害されました。
 7月19日、禁門の変で、長州藩の尊攘派の指導者が、薩摩藩・新撰組と戦って戦死し、長州藩は朝敵となりました。
 7月23日、長州藩追討の命を受けた幕府は、中国・四国・九州の21藩に出兵の準備を命じました。
 8月5日、将軍徳川家茂自ら出陣することを布告し、第一次征長総督に前尾張藩主徳川慶勝を任命しました。
 8月13日、幕府は、征長軍の部署を決め、陸路は安芸・石見から、海路は徳山・下関・萩から進軍することを決定しました。
 10月22日、幕府は、大坂城で軍議を開き、「11月18日を総攻撃の日」と定め、諸藩にこの日に間に合うよう命じました。
 11月14日、長州藩は、禁門の変の責任者である福原越後益田右衛門介国司信濃の3家老を自害させ、その首を持って、征長総督府に陳謝しました。征長総督の徳川慶勝は、(1)藩主父子自筆の伏罪書の提出(2)三条実美ら5卿の他藩転出(3)山口城の破却の3条件を求めました。
 11月16日、本隊は、広島に進軍しました。
 12月27日、3条件の実施を見た征長総督の徳川慶勝は、直ちに征長軍の撤兵を命じました。
第二次長州征伐
 1865(慶応元)年3月、高杉晋作(27歳)は、奇兵隊を挙兵させて、藩権力を掌握し、藩論を恭順から討幕へと転回しました。        
 4月、幕府は、長州の反幕政策に対して、態度を硬化させ、第二次長征総督に前和歌山藩主の徳川茂承を任命します。 
 5月、西郷隆盛(39歳)は、第二次長州征伐を予想して、坂本竜馬(31歳)に長州との和解を依頼しました。     
 6月、幕府は、長州に対して領地削減を命令しました。討幕に転じた長州藩は、これを拒否しました。 
 1866(慶応2)年1月、坂本竜馬の尽力で、薩摩の西郷隆盛と長州の桂小五郎が、長年の骨肉の争いを捨て、手を結びました。これを薩長同盟(薩長連合)といいます。
 4月5日夜、奇兵隊130人を率いた立石孫一郎は、制止する仲間を斬り捨て、山口の岩城山の陣地を脱走しました。
 4月10日未明、立石孫一郎らは、岡山の倉敷代官所を襲撃しました。これを倉敷騒動といいます。
 4月12日、立石孫一郎らは、禁門の変の功で、大名に取り立てられた岡山総社の蒔田藩(1万石)の陣屋を襲撃しました。
 4月26日、岡山藩が3500の兵を出したことを知り、立石孫一郎らは、山口の浅江に帰ってきたところを、脱藩の罪で捕らえられ、処刑されました。これを備中騒動といいます。
 6月7日朝、幕府の軍艦が、下関の陸地を砲撃しました。これが第二次長州征伐の始まりです。
 6月10日夜、海軍総督を命じられた高杉晋作は、第二奇兵隊と浩武隊を出動させました。
 6月12日夜、丙寅丸に搭乗した高杉晋作は、久賀沖に停泊中の幕府の軍艦4隻の間を縦横に航行して、砲撃を繰り返しました。幕府軍艦は、予期せぬ出来事に一発の砲弾も発射できませんでした。
 これで、幕府海軍の作戦である長州藩の布陣の背後を攻撃し、岩国藩の内応を待つという作戦が失敗に終わりました。
 6月16日、第二奇兵隊の攻撃に、安下庄の幕軍は久賀に退き、久賀も耐えられなくなると、幕軍は前島に遁走しました。これで、幕府陸軍の作戦である彦根・高田両藩兵が小瀬川に進撃するという作戦が失敗に終わりました。
 7月15日、大村益次郎が指揮する奇兵隊は、山陰の浜田にある幕府軍の本営に接近しました。総督府は、岡山藩・鳥取藩に出動を命令しましたが、両藩は既に「征長の中止」を幕府に建議していたので、出兵を拒否しました。この結果、石見口は、長州藩に解放されました。
 7月16日、九州の最高司令官である老中小笠原長行は、小倉藩兵を先鋒として海から長州に攻め込む作戦をとりました。
 7月17日早朝、これを察知した長州藩は、軍艦3隻を田ノ浦に、軍艦2隻を門司浦に出撃させ、その援護の下に奇兵隊以下の藩兵が小倉の上陸しました。山県有朋は軍艦、高杉晋作は参謀というそうそうたるメンバーで戦いに望みました。三者一隊の攻撃に幕府軍は、反撃もできず、敗走しました。
 7月20日、将軍徳川家茂が急死しました。時に、21歳でした。
 7月20日、幕府軍は、宮内砲台串戸砲台を放棄して引き上げました。長州藩に休戦条約を申し込んでいた広島藩兵が引き上げたので、安芸口は、長州藩に解放されました。
 7月27日、徳川慶喜が将軍継嗣を承諾しました。
 7月29日、最高司令官の小笠原長行は、将軍徳川家茂の急死を知りました。小笠原長行は、諸口の征長軍の不振もあって、諸藩に小倉への総退却を命じました。
 7月29日夜、最高司令官の小笠原長行は、海路、長崎に引き上げました。
 8月1日、熊本・久留米などの諸藩は、相次いで、帰藩しました。小倉藩は、藩庁を香春に移し、小倉城に火を放って、敗走しました。
 8月28日、幕府の休戦申し出に対し、孝明天皇は、これを勅許しました。
 9月2日、幕府は海軍奉行勝海舟を広島に派遣し、長州藩との休戦を協議させました。勝海舟は、長州藩代表の奇兵隊幹部である井上馨広沢真臣らと交渉し、幕府軍の撤兵にあたり、長州軍が追撃しないということを内容として休戦協定を成立させました。
 12月5日、徳川慶喜が15代将軍となりました。
 12月25日、親幕征長派の孝明天皇が急死しました。
木でなく森を見る人物が、日本を救う
 第二次長州征伐を前に、西郷隆盛(40歳)は、長州との和解を、坂本竜馬(32歳)と中岡慎太郎(29歳)に依頼しました。
 坂本竜馬と中岡慎太郎は、薩摩の代表に西郷隆盛を指名し、長州の代表に桂小五郎(34歳)を指名しました。この人選は、重要です。
 1862年の島津久光の改革で、京都の舞台は尊攘派となり、たくさんの薩摩藩士が殺害されました。1863年の八・一八の政変では、公武合体派となり、たくさんの長州藩士が殺害されました。1864年の池田屋事件では、たくさんの長州藩士が殺害されました。同年の禁門の変では、たくさんの長州藩士が殺害されました。
 列強と対等に付き合うには、藩の勝手な行動を止め、封建的分割を廃止し、日本と統一することが必要だと考える人物が出てきました。それが、上記の人々です。
 桂小五郎は、坂本竜馬に「相手が気に入らなければ、交渉せずに帰る」という条件で、会談に応じました。それほど長州の雰囲気は、薩摩の過去に激しい怒りを持っていたのです。しかし、桂小五郎は、西郷隆盛の目をみて、この人なら自分を托せそうだと判断しました。西郷隆盛も、桂小五郎を見て、同じことを感じました。
 これは、「目は口ほどに物を言う」ということでしょうか。
 最近のTVでは、相手の話をほとんど聞かず、「だまっとれ!」とか「だから●●はダメなんだ」とか、罵声が飛び交っています。見る方が喜ぶから、益々エスカレートします。そのようなゲストが多くなりました。パフォーマンスでは、人を動かすことは出来ません。
 口だけで生活(金を稼ぐ)する人がもてはやされ、腹をくくって生活している人が目立たないので、目で物を言う人が出てこないのでしょう。
 h長同盟の結果、薩摩が手に入れたイギリス製の武器を長州は手にすることが出来たのです。奇兵隊の士気と武器を手に入れた長州の優勢は、戦う前から決まっていたといえます。

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