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エピソード

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ミュンヘン協定・独ソ不可侵条約と第二次世界大戦
 第二次世界大戦の原因はさまざまですが、ミュンヘン協定と独ソ不可侵条約がなければ、第二次世界大戦はおこったでしょうか。ドイツとイタリアは枢軸国として、強い団結を示しましたが、ファシズムが支配する独裁国家です。
 1924(大正13)年1月、フランス・チェコ相互援助同盟条約が調印されました。
 1935(昭和10)年3月、ヒトラーは、再軍備宣言を発表しました。
 5月、5年間有効のソ連・チェコ相互援助条約が調印されました。
 1936(昭和11)年3月、ヒトラーは、非武装地帯のラインラントに進駐しました。
 1937(昭和12)年6月、@34近衛文麿内閣が誕生しました。
 11月、イタリアは、イギリス・フランスに対する枢軸体制を強化するため、日独防共協定に参加し、日独伊防共協定が成立しました。
 11月、ヒトラーは、外相・国防相・陸海空軍総司令官と会談し、オーストリアとチェコスロヴァキアを武力で併合する決意を表明しました。
 12月、松井石根大将が率いる日本軍は、旧首都の南京を占領しました。この時、虐殺事件をおこしました。これを南京事件といいます。
 1938(昭和13)年1月16日、近衛内閣は、「帝国政府は爾後国民政府を対手とせす帝国と真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待し、是と両国国交を調整して更正新支那の建設に協力せんとす」との対華声明を発表しました。これを第一次近衛声明といいます。
 2月4日、ヒトラーは、国防相ブロンベルクと陸軍司令長官のフリッチュを解任しました。その結果、ヒトラーの統帥権が確立しました。
 2月12日、ヒトラーは、オーストリア首相シュシニクを、自分のベルヒテスガルテン山荘に呼びよせ、軍事占領で脅迫しながら、「内相はオーストリア=ナチス党員とすること」などを要求し、認めさせました。
 2月20日、イギリス外相のイーデンは、チェンバレン首相の対伊宥和に抗議して辞任しました。後任にハリファックスが就任しました。
 3月12日未明、内相でオーストリアの新首相になったアルトゥル・ザイス=インクヴァルト(オーストリア=ナチス党員)の要請により、ドイツ軍はオーストリアに進撃しました。
 3月13日、フランスのショータン内閣が総辞職し、社会党・急進社会党連立の第二次ブルム内閣が誕生しました。
 3月13日、オーストリアの新首相のインクヴァルトは、ドイツとの合邦を宣言し、ドイツは、オーストリアを併合しました。
 3月14日、ヒトラーは、ウィーンに入りました。
 4月1日、国家総動員法が公布されました。
 4月10日、フランスのブルム内閣が総辞職し、急進社会党のダラディエ(国防)内閣が誕生しました。
 4月16日、英伊協定が調印されました。その内容は、以下のとおりです。
(1)イギリスは、エチオピアでのイタリアの主権を承認する
(2)両国は、紅海の現状維持で協力を約束しました。
 4月24日、ズデーテン=ドイツ人党党首のヘンラインは、チェコ政府の8項目を要求しました。これをカールスバート綱領といいます。
 5月12日、独満修好条約が調印されて、ドイツが満州国を正式に承認しました。
 5月19日、日本軍が徐州を占領しました。
 6月24日、5相会議で、本年中に戦争目的を達成するという「今後の支那事変指導方針」を決定しました。
 7月19日、ドイツは、仮想敵国をソ連から米英にまで拡大するという防共協定を軍事同盟に強化したいと提案しました。それに対して、日本の外務省と海軍は英米との戦争につながると反対しました。
 8月11日、モスクワで、張鼓峰事件終結の張鼓峰停戦協定が成立しました。
 9月12日、ヒトラーは、「ズデーテン地方のドイツ系住民が迫害を受けており、ズデーテン地方のドイツ人の民族自決権を援助する」との演説を行いました。
 9月15日、平和的解決のために、イギリスの首相チェンバレンは、ミュンヘンでヒトラーと会談しました。ズデーテン地方はチェコとドイツの国境地帯あり、ヒトラーは「世界戦争も辞さない」と脅迫しながら、ドイツ系住民が多数住むズデーテン割譲を要求しました。チェンバレンはチェコスロヴァキアからズデーテン地方を分離することに同意しました。
 9月18日、イギリスとフランスは、ロンドンで会談し、戦争を避けるために、チェコスロヴァキアに「ズデーテン地方をドイツに割譲する」という英仏共同提案を受諾させることを話し合いました。
 9月19日、しかし、チェコスロヴァキア大統領のベネシュは、この共同提案を拒否しました。
 9月21日深夜、英・仏の行使はベネシュ大統領を訪ね、チェコにドイツの要求受諾を強要しました。その結果、チェコにはその条件を受諾しました。
 9月22日、ポーランドはチェコのテッシェン地方に、ハンガリーはチェコの南部スロバキアとルテニア地方に自民族が多数いたので、ドイツと同様の割譲を要求しました。
 9月22日、チェコスロヴァキアのホッジャ内閣が総辞職しました。
 9月24日、チェコ政府は、総動員令を発布して、戦争を覚悟する態度を表明しました。
 9月24日、英仏は、ソ連と交渉を開始しましたが、ソ連は対独強硬策を主張しました。
 9月27日、イギリスは、軍の動員令を発布しました。
 9月29日12時45分、イタリアの仲介で、イギリスのネヴィル・チェンバレン首相・フランスのダラディエ首相・ドイツのアドルフ・ヒトラー総統・イタリアのベニト・ムッソリーニ首領は、ミュンヘン会談を開きました。
 9月30日1時30分、ミュンヘン会談が終了しました。ヒトラーの強硬策に対して、戦争回避を望む英仏が屈服して、「もうこれ以上の領土要求はしない」というヒトラーの約束とチェコスロバキアの国家主権・領土保全を条件に、ズデーテン地方のナチスドイツへの割譲を決定しました。これをミュンヘン協定といいます。英仏の宥和政策ともいいます。
 9月30日2時15分、チェンバレン首相は、隣室で待っていた当事国のチェコスロヴァキア代表に結果を報告しました。すると、その代表は涙を流したといいます。
 9月30日12時、チェンバレン首相は、ヒトラーの私邸を訪ね、「平和確保のためのドイツ・イギリス関係の維持」というとの不可侵宣言を共同で発表しました。
 10月1日、ドイツ軍は、ズデーテン地方に進軍しました。
 10月2日、ポーランドはチェコにテッシェン地方の割譲を要求して、テッシェン地方を占領しました。
 10月27日、日本軍は、武漢3鎮を占領しました。
 10月27日、フランスのダラディエ首相は、人民戦線離脱を宣言し、人民戦線が崩壊しました。
 11月3日、近衛文麿首相は、東亜新秩序建設を声明しました。これを第2次近衛声明といいます。
 11月26日、ソ連・ポーランド不可侵条約が更新されました。
 12月6日、フランスのボネ外相とドイツのリッベントロープ外相は、独仏善隣協定(不可侵共同宣言)に調印しました。
 12月22日、近衛首相は、近衛3原則を声明しました。これを第三次近衛声明といいます。
 12月30日、汪兆銘は、対日和平を声明しました。
 1939(昭和14)年1月5日、@35平沼騏一郎内閣(司法官僚)が誕生しました。
 1月6日、ドイツ外相のリッベントロップは、日独伊三国同盟案を正式に提案しました。
 1月19日、5相会議は、日独伊三国同盟案に関し、「相互武力援助はソ連のみを対象とし、第三国は状況により対象とする」との妥協方針を決定しました。
 2月24日、満州国とハンガリーは、日独伊防共協定に加入し、その後、フランコ政権も加入しました。
 2月27日、英仏は、フランコ政権を承認しました。
 3月15日、ドイツのヒトラーは、チェコスロヴァキア大統領のハーハをベルリンに呼びつけ、プラハを空襲すると脅迫しながら、ボヘミア・モラヴィア地方の割譲を強要しました。大統領ハーハが署名すると、ドイツ軍はボヘミア・モラビアに進駐しました。
 3月21日、ヒトラーは、ポーランドにダンチヒ返還を要求しましたが、ポーランドは拒否しました。
 3月28日、フランコ軍は、マドリッドに入り、スペイン内乱が終了しました。
 4月6日、英仏は、対ポーランド相互援助条約を声明しました。
 4月7日、イタリアは、アルバニアを占領・併合しました。
 4月28日、ヒトラーは、ドイツ・ポーランド不可侵条約・英独海軍協定の廃棄を声明し、フランスによるアルザス・ロレーヌ領有を否認しました。
 5月3日、ソ連外務人民委員のリトビノフが辞任し、後任にモロトフが就任しました。
 5月11日、ノモンハン事件が発生しました。
 5月22日、独伊軍事同盟が調印され、ベルリン=ローマ枢軸が完成しました。
 8月12日、モスクワで、英仏ソが3国軍事協定の交渉を開始しました。
 8月19日、ベルリンで、独ソ通商条約が調印されました。
 8月21日、英仏ソ3国軍事協定交渉が失敗に終わりました。
 8月23日、モスクワで、独ソ不可侵条約が調印されました。
 8月24日、英仏は、対ポーランド相互援助条約を調印しました。
 8月28日、平沼内閣は、「欧州情勢複雑怪奇」と声明して、総辞職しました。
 8月29日、ヒトラーは、ダンチヒ・ポーランド回答の割譲を要求しました。
 8月30日、@36阿部信行内閣(陸軍軍事参議官・予備役)が誕生しました。
 9月1日、ドイツは、ボヘミア・モラヴィア地方併合し、チェコスロヴァキアは地図から消滅しました。
 9月1日、ドイツ陸軍・空軍は、ポーランドに進撃しました。
 9月2日、イタリアは、中立を表明し、5国会議を提案しましたが、英仏は拒否しました。
 9月3日、イギリスとフランスは、ドイツに宣戦を布告しました。第二次世界大戦が始まりました。
 9月5日、アメリカは、欧州戦争に中立を宣言しました。
 9月17日、ドイツ軍はブレスト=リトウスクを占領し、ソ連軍は東部ポーランドに進出しました。
 9月27日、ドイツ軍の空爆により、ワルシャワが陥落しました。
 9月28日、モスクワで、独ソ友好条約が調印され、ポーランドの分割占領が決められました。
 11月3日、アメリカ大統領フランクリン・ルーズヴェルトは、中立法修正案に署名しました。その内容は、次のとおりです。(1)武器禁輸を撤廃する。(2)交戦国への輸出を現金・自国船主義に変える。
 11月30日、フィンランドが相互援助条約締結を拒絶したので、ソ連は、フィンランド攻撃を開始しました。これを冬期戦争といいます。
 12月14日、冬期戦争を理由に、ソ連は国際連盟を除名されました。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
ミュンヘン協定、独ソ不可侵条約
 私は、第二次世界大戦の直接の原因をミュンヘン協定だと思っています。それまでにも、ヒトラーは軍事を使って脅迫的な要求をして来ました。
 第一次世界大戦で多大の犠牲を払ったイギリスとフランスは、戦争を避けたいという気持ちが強いのは当然です。ナチス・ヒトラーは、反共主義を標榜し、戦術を撹乱させていました。そこで、イギリス・フランスの首脳は、ヒトラーの侵略相手国は社会主義国のソ連だと思い込んでいました。そこで、ヒトラーの要求を次々と受け入れる宥和政策をとりました。まったく、紳士の国イギリスやマナーの国フランスと聞いてあきれるくらい自国のご都合主義政策だったのです。
 歴史は、周囲を攻めて、本丸に接近するということを教えてします。第一ボタンを掛け間違うなとも・・。
 ここでは、英仏の宥和政策を取り上げます。第一ボタンの掛け間違いという教訓です。
 1935年にイタリアがエチオピアに進入しました。1936年にスペイン内乱がおきました。イギリス・フランスがとった態度が不干渉という宥和政策でした。ソ連は、スペイン内乱の時にはフランコ軍と戦っている人民戦線政府を支援しました。
 1938年9月のミュンヘン協定も英仏の宥和政策でした。ソ連はチェコと相互援助条約を結んでいました。当事国のソ連を抜いて、ミュンヘン協定が締結されたことで、ソ連は、「英仏の狙いは、チェコを犠牲にしてドイツの目をソ連に向けさせることにある」と解釈しました。11月にソ連は、ポーランドと相互援助条約を締結しました。
 1939年3月、ヒトラーは、ミュンヘン協定を破って、チェコの西半分のボヘミアとモラヴィア、東半分のスロヴァキアを占領しました(9月にはチェコスロヴァキアが消滅)。同じ3月にヒトラーは、ポーランドに対して、自由都市ダンチヒの返還を要求しました。
 5月、ドイツとイタリアが軍事同盟を結びました。
 8月12日、ヒトラーの真意を知った英仏は、あわててソ連と軍事協定の交渉を始めましたが、英仏とソ連の不信感は払拭されませんでした。
 8月21日、ソ連のスターリンは、ノモンハン事件の最中だけに、ドイツとの提携を得策と考え、突如、英仏ソの交渉を打ち切りました。
 8月23日、ヒトラーも、ソ連と提携して背後に憂いを残さないことが得策と考え、社会主義のスターリン独裁国家とファシズムのヒトラー独裁国家が独ソ不可侵条約を締結しました。
 8月24日、英仏は、ポーランドと相互援助条約を締結しました。
 9月1日、独ソ不可侵条約を結んだヒトラーには、弱腰のイギリスやフランスは敵ではありません。ポーランドに進入しました。イギリスやフランスも、ドイツに宣戦布告しました。これが第二次世界大戦の始まりです。穏便に穏便に、臭い物には蓋式では、基本的には解決できないという教訓です。
 ここでは、平沼首相をして「複雑怪奇」と言わせた独ソ不可侵条約を取り上げます。その内容は、以下のとおりです。
(1)いずれの締約国も相手側を攻撃しない。
(2)もしも締約国の一方が第三国の「戦争行為の対象」になる場合には、他の締約国は、この第三国をいかなるかたちにおいても支持しない。
(3)締約国のいずれも、他方を直接・間接の対象とするようないかなる国際集団にも参加しない。
 秘密付属議定書も調印されました。その内容は、「ポーランドに属する地域の領土的・政治的変更がおこなわれる場合には、ドイツとソヴェートの利益範囲は、ほぼナレフ、ヴィスワ、サン川の線によって境界づけられる」というものでした。
 「独ソ不可侵条約によりドイツは他国を侵略した」と非難されたソ連のスターリンは「イギリス・フランスの対ドイツ宥和政策にこそ最大責任がある」と反論しています。
 社会主義を無謬と考えてした人々には、ソ連がファシズムの国ドイツと同盟を結んだことが衝撃だったようですが、そもそも人間のすることに失敗は当然です。その失敗をチェックする機能がソ連にはなかったのです。他国を侵略するということは、当時のソ連は、社会主義帝国だったということです。

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