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エピソード

256_02

近衛内閣の「基本国策要綱」と大東亜共栄圏と日独伊三国同盟
 第二次世界大戦の原因はさまざまですが、ミュンヘン協定と独ソ不可侵条約がなければ、第二次世界大戦はおこったでしょうか。ドイツとイタリアは枢軸国として、強い団結を示しましたが、ファシズムが支配する独裁国家です。そこで、日本がファシズム国家と手を結ぶようになったのかを調べることにしました。
 1933(昭和8)年3月、日本は、国際連盟からの脱退を通告しました。
 1934(昭和9)年12月、日本は、アメリカに、ワシントン条約単独廃棄を通告しました。
 1936(昭和11)年1月、日本は、ロンドン軍縮条約からの脱退を通告しました。
 12月、ワシントン海軍軍縮条約が失効しました。
 1938(昭和13)年1月、ドイツは、日独防共協定を軍事同盟への改定を提案しましたが、海軍の反対で、日本はこれを拒絶しました。 拒絶した理由は、以下の通りです。
(1)ドイツとの同盟は、英米との戦争になる可能性がある。
(2)日本の輸入総額の3分の1はアメリカであり、石油にいたっては75%、機械は53%、鉄は49%をアメリカ頼みである。
 1939(昭和14)年1月6日、ドイツ外相は、日独伊三国同盟案を正式に提案しました。
 1月19日、平沼内閣は、条件付で三国同盟案に賛成しました。
 5月12日、ノモンハン事件がおこりました。
 5月22日、ドイツは、先にイタリアと独伊軍事同盟を締結しました。その結果、ベルリン=ローマ枢軸が完成しました。
 7月、アメリカは日米通商航海条約の廃棄を通告しました。
 8月、独ソ不可侵条約が締結されました。
 9月1日、ドイツ軍は、ポーランドに進駐し、第二次世界大戦が始まりました。
 9月5日、アメリカは、@欧州戦争に中立を宣言しました。
 1940(昭和15)年1月16日、@37米内光政内閣(海軍大将)が誕生しました。欧州大戦には不介入という方針を確認しました。
 1月26日、日米通商航海条約が失効しました。
 3月12日、モスクワで、ソ連・フィンランド講和条約が調印されました。その結果、フィンランドは、カレリア・ヴィボルクを割譲しました。
 3月20日、フランスのダラディエ内閣が総辞職し、レノー内閣が誕生しました。
 4月9日、ドイツ軍は、ノルウェーを急襲しました。
 4月9日、ドイツ軍は、デンマークを無血占領しました。
 4月30日、ドイツ軍はノルウェーのドンバスを占領しました。国王のハーコン7世はロンドンに亡命し、亡命政権を樹立しました。
 5月1日、ヒトラーは、西部戦線攻撃開始を指令しました。これを黄色作戦といいます。
 5月10日、ドイツ軍は、中立国のベルギーを奇襲攻撃しました。
 5月10日、ドイツ軍は、中立国のルクセンブルクを奇襲攻撃しました。
 5月10日、イギリスのチェンバレン内閣が総辞職し、チャーチルの連合内閣(保守・労働・自由)が樹立しました。外相にイーデンが就任しました。
 5月10日、ドイツ軍は、電撃作戦により@オランダを制圧しました。石油の産地の蘭領東インド(インドネシア)の宗主国はオランダでした。
 5月13日、オランダ女王は、ロンドンに亡命して、オランダ亡命政権を樹立しました。
 5月14日、ドイツ軍は、セダン付近でマジノ線を突破しました。マジノ線とはフランスの陸相アンドレ=マジノがドイツ国境に築いた要塞です。
 5月17日、ドイツ軍はベルギーの首都ブリュッセルを占領しました。ロンドンにベルギー亡命政権が誕生しました。
 5月17日、戦車中心のドイツ軍機甲部隊の攻撃により、ベルギーのフランドル平原に布陣していたフランス軍30個師団は崩壊し、イギリス軍30万人はドーバー海峡近くのダンケルクに後退しました。
 5月27日、イギリス軍は、ダンケルクからの撤退を開始しました。
 6月10日、イタリアは、イギリス・フランスに宣戦を布告しました。
 6月14日、ドイツ軍は、Aパリに無血入城しました。援蒋ルートがある仏領インドシナ(ベトナム・ラオス・カンボジア)の宗主国はフランスでした。
 6月17日、レノーに代わりフランス政府主席に就任したフランスのペタン将軍は、ドイツ軍に休戦を提議しました。
 6月17日、ソ連軍は、エストニア・ラトビアに進駐しました。
 6月18日、フランスのド=ゴール将軍は、ロンドンからの放送で対独抗戦継続を呼びかけ、自由フランス委員会を設立しました。
 6月22日、コンピエーヌで、独仏休戦協定が調印されました。
 7月1日、ソ連軍は、ベッサラビア・北ブコビナ地方を占領しました。
 7月2日、フランス政府は、非占領地区のビシーに移転しました。これをビシー政府といいます。
 7月16日、欧州大戦不介入の米内内閣を打倒するため、陸相の畑俊六が単独辞職しました。
 7月19日、近衛文麿松岡洋右東条英機吉田善吾が国策を協議しました。これを荻窪会談といいます。
 7月22日、@38第2次近衛文麿内閣が誕生しました。外相は松岡洋右、陸相は東条英機、海相は吉田善吾らが就任しました。
 7月22日、外相の松岡洋右は、駐ソ大使の東郷茂徳を解任して後任に陸軍の建川美次を任命、駐独大使の来栖三郎を解任して陸軍の大島浩を任命しました、
 7月26日、近衛内閣は、大東亜新秩序の建設という「基本国策要綱」を決定しました。ここでは大東亜を日満支3国ととらえています。強力な軍事力、つまり国防国家体制で、蒋介石の国民政府の打倒を第一にあげています。
 7月26日、米大統領のルーズベルトは、石油・くず鉄を輸出許可制適用品目中に追加しました。
 7月27日、大本営政府連絡会議は、「世界情勢推移ニ伴フ時局処理要綱」を決定しました。
 7月31日、米大統領のルーズベルトは、西半球以外への航空用ガソリンの輸出を禁止しました。
 8月22日、外相の松岡洋右は、駐米大使の堀内謙介を解任して海軍の野村吉三郎を任命しました。
 8月30日、ルーマニアは、独伊の圧力でハンガリーへの一部領土割譲に同意しました。
 9月3日、米英防衛協定が調印され、米は駆逐艦50隻を供与し、英はイギリス領諸島の空軍基地を貸与することを約束しました。中立を表明していたAアメリカがイギリス支援を声明しました。
 9月5日、軍事同盟をめぐる調整で病に倒れた吉田善吾海相の後任に及川古志郎大将が就任しました。
 9月7日、ドイツ軍は、B65日間、ロンドンを猛爆撃しました。ゴムの産地であるマレーシア・シンガポールの宗主国はイギリスでした。
 イギリスの抵抗で、ヒトラーは短期決戦を断念しました。アメリカを牽制するために、日本と同盟を結ぶ必要が出てきました。ヒトラーは、スターマーを特使として日本に派遣しました。
 9月12日、首相・外相・陸相・海相の5相会談で、松岡洋右外相は、「日独伊ソの連携をつくることは、支那事変処理にも有効であり、かつ対英米戦をも回避できる」と主張し、スターマーの三国同盟案を了承しましたが、及川古志郎海相は留保しました。
 9月13日、イタリア軍は、リビアからエジプトに侵入しました。
 9月14日、孤立した海軍は、「やむを得ず賛成するが、軍事上の立場からはアメリカを相手に戦う自信はない。この上は三国同盟による軍事上の援助義務が発生しないよう、外交上の手段によって防止されたい」と条件付で、賛成しました。
 9月16日、アメリカは、選抜徴兵法を公布しました。
 9月19日、ドイツ・イタリアの進撃を見た御前会議は、日独伊三国同盟締結を決定しました。この時、海軍軍令部総長の伏見宮博恭王元帥は、次のことを要望しました。
(1)三国本同盟を締結しても、日米開戦を回避する。
(2)南方問題は極力平和的に行い無用の摩擦を起こさない。
 9月23日、日本軍は、北部仏領インドシナ部(北部仏印)に進駐しました。
 9月27日、ベルリンで、日独伊三国同盟が調印されました。外相の松岡洋右は、駐日ドイツ大使のオットと秘密交換公文を取り交わしました。松岡外相は、日米関係の「此ノ上ノ悪化ヲ防グ手段トシテ毅然タル態度」で三国同盟を締結したと御前会議で説明しました。
 10月12日、ドイツ軍は、ブカレストに進駐し、ルーマニアはドイツの支配下に入りました。
 10月12日、ルーズヴェルト大統領は、「脅迫や威嚇には屈しない」と演説を行ないました。
 10月12日、ヒトラーは、イギリス本土上陸のあしか作戦を1941年春まで延期しました。
 11月12日、ソ連外相のモロトフは、ベルリンで、ヒトラーと会談し、ソ連の枢軸側参戦問題について協議しましたが、決裂しました。
 11月20日、ハンガリー・ルーマニア・スロバキアが日独伊三国同盟に加入しました。
 12月18日、ヒトラーは1941年5月までに対ソ戦を考慮したバルバロッサ作戦準備を命令しました。
 12月29日、アメリカ大統領のルーズベルトは、アメリカが民主主義国の兵器廠となる旨の炉辺談話を発表しました。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
荻窪会談、基本国策要綱、世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱、日独伊三国同盟
 1940年7月19日、次期大臣候補の近衛文麿・松岡洋右・東条英機・吉田善吾が会談しました。これを荻窪会談といいます。荻窪会談覚の内容は、以下のとおりです。
(1)支那事変の処理及世界新情勢に対応すへき我方施策を展開するため我戦時経済政策の強化確立を以て内外政策の根基とす
 *解説(支那事変の処理と世界の新情勢に対応するために、ドイツのような戦時経済政策を強化・確立する)
(2)世界情勢の急変に対応し且速に東亜新秩序を建設するため日独伊枢軸の強化を図り東西互に呼応して諸般の重要政策を遂行す
 *解説(ドイツの進撃に対応し、速やかに東亜新秩序を建設するため、日独伊軍事同盟を結んで、重要政策を実行する)
(3)英仏蘭葡殖民地を東亜新秩序の内容に包含せしむるため積極的の処理を行ふ
 *解説(日満支の範囲であった東亜の範囲に、ドイツの空襲を受けているイギリス、宗主国がドイツの占領さんれている仏・蘭の植民地を加える)
(4)米国に対しては無用の衝突を避くるも東亜新秩序の建設に関する限り彼の実力干渉をも排除するの固き決意を以て我方針の実現を期す
 *解説(アメリカとは極力衝突を避けるが、東亜新秩序の建設に関してはアメリカと交戦する覚悟で推進する)
(5)重慶側の和平気運促進の為南京政府側其の他の策動を支援す
 *解説(蒋介石の重慶政府が和平を呼びかけてくるよう、汪兆銘の南京政府などに策略をめぐらして行動させる)
 1940年7月26日、近衛内閣は閣議で基本国策要綱を決定しました。
 その内容は、以下のとおりです。
(1)根本方針
皇国ノ国是ハ八紘ヲ一宇トスル肇国ノ大精神ニ基キ世界平和ノ確立ヲ招来スルコトヲ以テ根本トシ先ツ皇国ヲ核心トシ日満支ノ強固ナル結合ヲ根幹トスル大東亜ノ新秩序ヲ建設スルニ在リ
 *口語訳(天皇がおさめる国の基本方針は八絋一宇とする建国の大精神の基づき世界平和の確立させることが根本である。まず、日本を核として日本・満州・中国の強固な結合を根幹とする大東亜の新秩序を建設することである)
(2)国防及外交
皇国内外ノ新情勢ニ鑑ミ国家総力発揮ノ国防国家体制ヲ基底トシ国是遂行ニ遺憾ナキ軍備ヲ充実ス
・・外交ハ大東亜ノ新秩序建設ヲ根幹トシ先ツ其ノ重心ヲ支那事変ノ完遂ニ置キ国際的大変局ヲ達観シ建設的ニシテ且ツ弾力性ニ富ム施策ヲ講シ以テ皇国国運ノ進展ヲ期ス
 *口語訳(日本内外の新情勢を考え、国家の総力を発揮できる国防国家体制を基底として、国の基本方針を遂行するのに遺憾ないように軍備を充実する。外交は大東亜の新秩序建設を基幹とし、その重心を支那事変の完遂におく。世界的な大変局=ヒトラーの進撃を広く見通し、建設的・弾力的に施策を講ずる)
(3)国内態勢ノ刷新
我国内政ノ急務ハ国体ノ本義ニ基キ諸政ヲ一新シ国防国家体制ノ基礎ヲ確立スルニ在リ之カ為左記諸件ノ実現ヲ期ス
 *口語訳(国内の急務は、天皇が統治する国家体制の根本的な意義に基づき、諸政を一新して国防国家体制の基礎を確立することである。そのために次のことを実現する)
 1、自我功利ノ思想ヲ排シ国家奉仕ノ観念ヲ第一義トスル国民道徳ヲ確立ス
 3、皇国ヲ中心トスル日満支三国経済ノ自主的建設ヲ基調トシ国防経済ノ根基ヲ確立ス
 5、国民生活ヲ刷新シ真ニ忍苦十年時難克服ニ適応スル質実剛健ナル国民生活ノ水準ヲ確保ス
 *口語訳(自我功利の西洋思想は排除し、滅私奉公という道徳を確立する。日本を中心とする日満中の国防経済を確立する。艱難辛苦に適応する質実剛健の生活を確保する)
 1940年7月27日、政府連絡会議は「世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱」を決定しました。
その内容は、以下のとおりです。
(1)支那事変処理ニ関シテハ政戦両略ノ総合力ヲ之ニ集中シ特ニ第三国ノ援蒋行為ヲ絶滅スル等凡ユル手段ヲ尽シテ速カニ重慶政権ノ屈服ヲ策ス
 *解説(支那事変の処理に関しては、政治・軍事両面から集中する。特に日中以外の国の援蒋行為を絶滅するためにあらゆる手段を使って速やかに蒋介石の重慶政府を屈服させる)
(2)対南方施策ニ関シテハ情勢ノ変転ヲ利用シ好機ヲ捕捉シ之カ推進ニ努ム
 *解説(南方政策に関しては、宗主国がドイツと交戦したり、ドイツに占領されていることを利用して、推進する)
(3)先ツ対独伊ソ施策ヲ重点トシ特ニ速カニ独伊トノ政治的結束ヲ強化シ対ソ国交ノ飛躍的調整ヲ図ル
 *解説(独ソ不可侵条約と独伊軍事同盟を加味するが、特には日独伊軍事同盟を結び、ソ連を誘い込むことを考える)
(4)仏印ニ対シテハ援蒋行為遮断ノ徹底ヲ期スルト共ニ・・帝国ノ必要ナル資源ノ獲得ニ努ム情況ニヨリ武力ヲ行使スルコトアリ
 *解説(フランス領インドシナに対しては援蒋行為を徹底的に遮断するが、日本の必要な資源の獲得も行う。場合によっては武力も行使する)
(5)武力行使ニ当リテハ戦争対手ヲ極力英国ノミニ局限スルニ努ム但シ此ノ場合ニ於テモ対米開戦ハ之ヲ避ケ得サルコトアルへキヲ以テ之カ準備ニ遺憾ナキヲ期ス
 *解説(武力行使をする場合も、ドイツの空襲を受けているイギリスに限る。その場合でも、アメリカとの開戦が不可避な場合、その準備をする)
(6)国防国家ノ完成ヲ促進ス・・総動員法ノ広汎ナル発動・・国民精神ノ昂揚及国内輿論ノ統一
 *解説(ドイツの倣って国防国家を完成する。総動員法を広範に発動しり、国民精神を高揚させ、国内世論を一本化する)

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