print home

エピソード

259_01

太平洋戦争V(ゾルゲ事件、ハル=ノート)
 戦時下では、007のような国際的スパイ活動が日本でもおこりました。その結果、運命の東条英機が主役として登場し、ハル=ノートを経て破滅的な太平洋戦争へと発展していきました。
 当時中国大陸には、80万人の兵隊が配置されており、対ソ戦に備えて75万人がソ万国境に集結しており、南方にも膨大な数の兵隊が派遣されていました。
 単純に考えると、無傷のアメリカ、世界一の経済大国アメリカと戦争できる状態ではありません。どうしてアメリカと戦争するようにになったのかなどを探って行きます。
 1930(昭和5)年1月、ソ連のスパイであるリヒアルト・ゾルゲ(父はドイツ人、母はロシア人)は、上海に渡航しました。ゾルゲは、中国共産党と親しいアメリカ人のジャーナリストであるアグネス・スメドレーの紹介で朝日新聞記者の尾崎秀実と懇意となりました。
 1933(昭和8)年9月、ナチス党員で「フランクフルターツアイトゥング」紙の特派員になりすましたゾルゲは、ソ連からの重大な任務を持って来日しました。駐日ドイツ大使のオットーは、ドイツ新聞の記者であるゾルゲを寵愛し、自由に大使館内を移動させるなど特権を与えていました。
 1935(昭和10)年8月、第7回コミンテルン大会は、毛沢東の中国共産党と蒋介石の国民党が合作して日本と戦うという方針が決定されました。朝日新聞の上海特派員だった尾崎秀実も、アグネス・スメドレーらから国共合作の情報を入手していました。
 1936(昭和11)年12月、西安事件がおこりました。尾崎秀実は、『中央公論』に「蒋介石は、国共合作を条件に釈放されるだろう」と予見記事を掲載し、その結果、尾崎は中国問題の専門化して重要視されるようになりました。
 1939(昭和13)年4月、近衛文麿首相は、尾崎秀実の中国問題での実力を評価して、を嘱託として採用し、秘書官室や書記官室に自由に出入りできるようにしました。
 9月、陸軍作戦の中枢である参謀本部の実務者は、陸軍省に対して、「黄河以北まで撤収して戦線を縮小すべきではないか」と打診しました。所が、陸軍省の「英霊に対する感謝や責任をどうするのか」という質問に沈黙してしまったといいます。一部には、華北を確保して戦線を縮小しようという現実的な意見もあったということです。
 1940(昭和15)年4月、参謀本部の実務者は、再び、陸軍省に対して、「黄河以北まで撤収して戦線を縮小すべきではないか」と打診しました。所が、陸軍省の「皇軍将兵の血を流した土地を手放せると思っているのか」という質問に沈黙してしまったといいます。華北を確保して戦線を縮小しようという現実的な意見が黙殺されました。この段階での英霊つまり日本兵の死者は18万4000人に達していました。
 1941(昭和16)年4月13日、日ソ中立条約が締結されました。
 4月16日、日米交渉が開始されました。
 5月27日、アメリカ大統領のルーズベルトは、国家非常事態を宣言しました。
 6月22日、独ソ戦が始まりました。
 6月25日、連絡会議は南方施策促進に関する件を決定しました。これを南部仏印進駐といいます。
 7月2日、御前会議は「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」を決定しました。その内容は以下です。
(1)ソ連がドイツに不利な場合の対ソ戦を準備して、関東軍特別演習を行う。これが北進論です。
(2)南方進出のため対英米戦をも辞せずというもので大東亜共栄圏の建設とか南進論といいます。
 7月12日、英・ソ相互援助協定が調印され、対独共同行動・単独不講和を約束しました。
 7月16日、第二次近衛内閣が総辞職しました。
 7月18日、対米強硬派の松岡洋右外相を罷免し、その後任に豊田貞次郎を任命して、@39第3次近衛文麿内閣が誕生しました。陸相は東条英機、海相は及川古志郎らが就任しました。近衛内閣は日米交渉の継続方針を決定しました。
 7月23日、日・仏印間に南部仏印進駐細目の話し合いが成立しました。
 7月25日、重慶で米英中の軍事合作協議が開かれ、ビルマルート防衛などの協定が成立しました。
 7月24日、野村吉三郎大使は、「南部仏領インドシナ進駐」を予告します。これに対しアメリカは、日米関係の悪化を警告し、日米交渉が中断しました。
 7月25日、アメリカは、(A)在米日本資産を凍結しました。
 7月26日、イギリスは、日英通商条約の廃棄を通告し、(B)在英日本資産を凍結しました。
 7月27日、蘭印も(D)在蘭印日本資産を凍結しました。
 7月28日、日本軍は石油・ゴム・アルミ資源など軍需物資の調達のために南部仏印に進駐しました。
 7月28日、蘭印は、日蘭石油民間協定を停止しました。
 8月1日、アメリカは、日本を目標に発動機燃料・航空機用潤滑油の輸出を禁止しました。その結果、アメリカの日本に対する石油輸出は全く停止しました。軍部は、ABCD包囲陣を宣伝しました。
 8月2日、アメリカは、対ソ経済援助を開始しました。
 8月7日、豊田外相は、近衛首相とルーズベルトとの直接会談を野村吉三郎大使に訓令しました。
 8月9日、ソ連軍の猛反撃でドイツ軍の対ソ進撃は停滞しました。そこで南進策に一極化しました。
 8月12日、ルーズベルト・チャーチルは、米英共同宣言を発表しました。これが大西洋憲章です。この席で、ルーズベルトは「3ヶ月間日本をあやすこと(to baby)ができる」、つまり、日本を相手に3ヶ月間時間稼ぎ出来るとチャーチル首相に語ったといいます。
 8月16日、陸軍からの要請を受けた海軍は、「帝国国策遂行方針」を提示しました。
 8月17日、アメリカは、日本の態度宣明が先決と回答しました。
 8月28日、野村大使は、近衛メッセージをルーズベルト大統領に手交しました。
 9月6日、御前会議は、「帝国国策遂行要領」を決定しました。その内容は、以下の通りです。
(1)帝国は自存自衛を全ふする為対米(英蘭)戦争を辞せざる決意の下に概ね十月下旬を目途とし戦争準備を完整す
 *解説(日本は、自存自衛のために、対米英蘭戦争は避けられないという覚悟の上、10月下旬を目途として戦争の準備を完全にする)
(2)外交交渉に依り十月上旬頃に至るも、尚我要求を貫徹し得る目途なき場合に於ては直ちに対米(英蘭)開戦を決意す
 *解説(外交交渉により10月上旬になっても、日本の要求が認められない場合は、直ちに対米英蘭と開戦する)
(3)対米(英)交渉に於て帝国の達成すべき最少限度の要求事項
 @米英は帝国の支那事変処理に容喙し又は之を妨害せざること
 A米英は極東に於て帝国の国防を脅威するが如き行動に出ざること。
 B米英は帝国の所要物資獲得に協力すること
 *解説(日本が米英に最少限度要求していることは、支那事変に介入しないこと、極東では日本の邪魔をしないこと、日本の必要な物資の獲得に協力することである)
 9月24日、スターリンのソ連とド=ゴールの自由フランスら15国は、大西洋憲章に参加しました。
 9月、満州に70万の兵力を集中して、関東軍特別演習(関特演)を行いました。
 9月、ドイツの新聞社である『フランクフルター・ツァイトゥンク』の記者で、ソ連のスパイであったリヒアルト・ゾルゲは、尾崎秀実から「日本の北進論断念・対米開戦」という情報を得ました。そして、ゾルゲからその連絡を受けたソ連は、極東配備のソ連軍をヨーロッパ戦線に投入しました。
 10月2日、アメリカは、4原則の確認と仏印・中国からの撤兵要求の覚書を手交しました。
 10月5日、大本営は、連合艦隊に作戦準備を命令しました。
 10月12日、近衛首相は、荻外荘に陸相・海相・外相および企画院総裁を招集して和戦を会議しました。東条英機陸相は、中国よりの撤兵に反対しました。
 10月14日、近衛首相は、東条英機陸相を官邸に招き、「前途に見通しのつかないアメリカとの戦争には同意し難い。撤兵の形式を米国に与え、日米戦争の危機を救うべきではないか」と10月2日付けのアメリカの覚書に同意を求めました。東条陸相は「支那全土よりの撤兵は、陸相としても日本陸軍としても、大陸に尊い生命を捧げた幾多の犠牲に対し、絶対に認めることはできない」と主張し、話し合いは平行線に終わりました。ここでも英霊が利用されています。
 10月15日、国際スパイの嫌疑で、尾崎秀実が検挙されました。
 10月16日、近衛文麿内閣は閣内不一致により総辞職しました。近衛文麿と東條英機は、後任に東久邇宮稔彦親王を推薦しました。しかし、昭和天皇は「皇族が政治の局に立つ事は、平和の時はともかく戦争になる虞の場合には慎重に考えるべきである」との意見を持っており、木戸幸一内大臣も宮様内閣に反対したので、この案はつぶれました。
 10月18日、国際スパイの嫌疑で、ゾルゲが検挙されました。これをゾルゲ事件といいます。
 10月18日、木戸幸一内大臣(53歳)は、好戦的な陸軍部内の統制を得られる人物として、「9月6日の御前会議決定の白紙還元」を条件に、東条英機陸相(57歳)を首相に推挙しました。
 10月18日、@40東条英機内閣が誕生しました。外相に東郷茂徳、内相に東条英機が兼務、蔵相に賀屋興宣、陸相に東条英機が兼務、海相に嶋田繁太郎、商工相に岸信介らが就任しました。
 10月18日、昭和天皇は、東条英機首相に対して「9月6日決定の帝国国策遂行要領を白紙撤回するように」との内意を伝えました。大本営は、「時間が切迫しているので検討を急がれたい」と申し入れました。東条内閣は「十分検討たい」と開戦には慎重でした。
 11月1日、東条首相は閣僚・陸軍省幹部・大本営に対し、次の3案を提示して意見を求めました。(1)戦争を極力避けて臥薪嘗胆する(2)開戦を決意して全てをこの方針に集中する(3)戦争は決意して作戦準備の完整はするが、同時に外交施策を続行し妥結に努める
 陸軍省・閣僚の多くは(3)案を支持し、大本営は(2)案を主張しました。
 11月1日21時、大本営政府連絡会議が開かれました。この席で、東郷外相は、外交交渉の条件とする(1)『甲案』と(2)『乙案』の2案を提議しました。
(1)甲案は、9月29日提出の日本側提案を修正緩和したものです。
 @ハル4原則の通商無差別問題は、全世界に適用されるという条件で承認する
 A三国同盟の解釈履行問題は、いわゆる独自解釈に基づく
 B支那撤兵問題は、華北・蒙彊の一定地域と海南島は25年駐屯、それ以外は2年以内に撤退、仏印からはただちに撤退
(2)乙案は、資産凍結前=南部仏印進駐前の状態に復帰しようというもので、甲案より緩やかです。
 @日米両国は、仏印以外のアジア・太平洋に武力進出を行わず
 A日米両国は、蘭印の物資獲得について協力する
 B日米両国は、通商関係を資産凍結前に戻す
 C米国は、日支和平の努力に支障を与えない
 D以上が成立すれば、日本は南部仏印から撤兵する
 11月1日深夜、大本営政府連絡会議は、激論の末に、「12月1日までに交渉が妥結しないと対米英開戦」を確認しました。
 11月5日、昭和天皇の希望で、御前会議が開かれ、開戦決定を再検討しました。対米交渉の甲案乙案と「帝国国策遂行要領」を決定し、12月初旬武力発動を決意しました。来栖三郎大使をアメリカに特派しました。
 11月5日、大本営は、連合艦隊に対英・米・蘭作戦準備を命令しました。
 11月6日、大本営は、南方軍に南方要域の攻略準備を命令しました。
 11月7日、野村大使は、ハル国務長官に甲案を提示しました。
 11月20日、野村・来栖大使は、ハル国務長官と会見し、乙案を提出しました。しかし、アメリカ側は暗号解読により、「11月25日までに日本の要求に応じない場合は戦争も辞さない」ということを知ってたというのです。
 11月26日、ハワイ作戦機動部隊は、南千島のヒトカップワンを出港しました。
10  11月26日、ハル国務長官は、野村・来栖大使に乙案を拒否し、今までの交渉を無視した強硬な新提案を提議しました。これをハル=ノートといいます。これで交渉は絶望的となりました。
(1)合衆国政府及び日本国政府は英帝国、支那、日本国、和蘭、蘇連邦、泰国、及び合衆国間多辺的不可侵条約の締結に努むべし
 *解説@(アジア・太平洋の平和に関して、合衆国政府と日本政府は、イギリス・中国・オランダ・ソ連邦・タイと多国間不可侵条約を結ぶ→三国同盟から脱退する)
(2)日本国政府は支那及び印度支那より一切の陸、海、空軍兵力及び警察力を撤収すべし
 *解説A(日本国は中国およびインドシナより全ての軍隊・警察を撤収する)
(3)合衆国政府及び日本国政府は臨時に首都を重慶に置ける中華民国国民政府以外の支那に於ける如何なる政府、若しくは政権をも軍事的、経済的に支持せざるべし
 *解説B(両国政府は重慶政府以外の政府を軍事的・経済的に支援しない→汪兆銘政権の否定
(4)両国政府は外国租界及び居留地内及び之に関連せる諸権益並びに1901年の団匪事件議定書に依る諸権利を含む支那に在る一切の治外法権を放棄すべし
 *解説C(租界・居留地内の権益と1900年の義和団事件議定書による権利を含む中国にある一切の治外法権を放棄する→日本の権益は満州事変以前の状態に戻す)
(5)両国政府は其の何れかの一方が第三国と締結しおる如何なる協定も同国に依り本協定の根本目的即ち太平洋地域全般の平和確立及び保持に矛盾するが如く解釈せらるべきことを同意すべし
 *解説D(両国政府は、一方が第三国と締結しているどの協定も同国によりこの協定の根本目的にすなわち太平洋地域の平和と保持に矛盾すると解釈する→本協定と矛盾する三国同盟からは脱退
11  11月27日、ハル=ノートを受け取った大本営連絡会議は、これを日本に対する最後通牒と結論付けました。東郷外相は「目がくらむばかりの失望」と感じ、木戸内大臣も「万事休す」と書いています。永野修軍令部総長は「戦わずしての亡国は魂を喪失する民族永遠の亡国であり、最後の一兵まで戦うことによってのみ死中に活を見出し得るであろう。戦ってよし勝たずとも、護国に徹した日本精神さえ残れば
われらの子孫は再起、三起するであろう」と記録しています。このような無責任な精神主義で戦争を始められては、たまったものではありません。
 11月29日、政府と重臣の会談が行われ、重臣たちは、政府の開戦決意を了承しました。
 12月1日、御前会議は、対米英蘭開戦を決定しました。
 12月8日2時、日本軍は、マレー半島に上陸しました。
 12月8日3時、日本の機動部隊はハワイの真珠湾を空襲し、アメリカ戦艦の主力を撃破しました。
 12月8日4時、野村・来栖大使は、ハル国務長官に最後通牒を手交しました。
 12月8日、アメリカ・イギリスに宣戦の詔書が出されました。
 12月10日、マレー沖海戦で、日本海軍は、イギリスの戦艦2隻を撃沈しました。
 12月10日、日本軍は、グアム島を占領しました。
 12月10日、日本軍は、フィリピン北部に上陸しました。
 12月12日、東条内閣は、閣議で、戦争の呼称を、支那事変を含めて大東亜戦争とすることに決定しました。
  この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
ゾルゲ事件、ハル=ノート
 1942年6月、「本諜報団は、リヒアルト・ゾルゲがコミンテルンより指令を受け策動中のブランコ・ド・ヴーケリッチらを糾合結成し順次宮城与徳・尾崎秀実・マックス・クラウゼンらをその中心分子に加入せしめ、その機構を強化確立したる、内外人共産主義者より成る秘密諜報団体にして、十数名の内外人を使用し、結成以来検挙に至るまで長年月に亘り、合法を擬装し巧妙なる手段により、我国情に関する秘密事項を含む多数の情報を入手し、通信連絡その他の方法によりこれを提報し…」という驚くべき国際スパイ団が暴露されました。
 日本人関係者として、内閣嘱託の西園寺公一、元総理大臣秘書官の犬養健の名があり、近衛内閣の中国問題の専門家尾崎秀実は検挙されました。
 三国同盟の1つであるドイツの駐日大使オットーの大使館付情報官ゾルゲも検挙されました。
 1941年9月28日、北林ともが検挙されました。
 10月10日、宮城与徳が検挙されました。
 10月15日、尾崎秀実が検挙されました。
 10月18日、ゾルゲと螢光複写義士のマックス・クラウゼンが検挙されました。
 1942年4月、この時までに35人(うち外国人4人、女性6人)が検挙されました。
 1944年11月、尾崎秀実らが処刑されました。「し残したことなない」がゾルゲの最後の言葉でした。
 裁判では、ゾルゲラの主要な任務は、「日本の対ソ攻撃からのソ連の防衛や日本の対ソ攻撃の阻止に役立つ情報の収集であった」と言われています。具体的には、(1)ヒトラーのポーランド侵入(2)ヒトラーの独ソ戦の準備(侵略開始の日時を提供したが、スターリンはこれを無視したといわれています)(3)日本が北進策を断念し、南進策をとり太平洋開戦に戦力を一本化した、などがあります。精度の高い情報だったといえます。そのため、ゾルゲは、1967年にソ連邦英雄の称号が贈られ、名誉を回復しました。
 このような正確な情報を得るため、ゾルゲは、来日してからは毎日、古事記・源氏物語などを読んで日本勉強をしたといいます。ゾルゲは、新聞記者としての立場を利用して日本各地を取材し、それをドイツの『フランクフルター・ツアイトング』などに投稿し、日本通としての名声も得ていました。その結果が、駐日ドイツ大使館付情報官という地位を与えられたのです。駐日大使のオットーは、解任されました。
 検察側は、この諜報活動を「コミンテルン本部の指令にもとづく諜略組織」として治安維持法違反で起訴しました。ゾルゲが属していたのはソ連の赤軍第四軍と言われています。ソ連や赤軍第四軍では起訴できなかったからです。
 最近、ゾルゲ事件を見直す風潮があります。
(1)映画監督の篠田正浩氏の『スパイ・ゾルゲ』という映画がありました。ゾルゲには「トゥームレイダー」・「ダークネス」に出演のイアン・グレン、尾崎秀実には「双生児−GEMINI−」に出演の本木雅弘でした。
 篠田監督は「ゾルゲは、スパイと言うよりは、日本が好きで研究をしていた部分が大きい。ゾルゲの目を通せば、ひょっとしたら正確な日本を描けるのではないでしょうか。ゾルゲ、そして尾崎という2人のジャーナリストを描くことで、その時代を体験していない現代の人に新しい感情を持ってほしい。今まで作ってきたものに対して”すべての人間、国に対して公平な視線で作ろう”と考えてきました。私はゾルゲと尾崎にもその心があると思いました。」と語っています。
(2)検事の訊問に対し、ゾルゲは「私をはじめ私のグループは決して日本の敵として日本に渡来したのではありませぬ。また私たちは一般のいわゆるスパイとは全くその趣を異にしているのであります。私たちはソ連と日本との間の戦争が回避される様に力を尽してもらいたいという指令を与えられたのであります」と答えています。実際、ゾルゲは、日本が北進策を断念し、南進策を決定すると、日本を引上げる準備をしている時に検挙されています。ソ連では名誉が回復しました。
(3)尾崎秀実については、ゾルゲと接近して日本の機密を提供したのも、尾崎の『東亜協同体』論によるという説です。将来予想される社会主義国のソ連や社会主義国の新中国と提携する場合、階級闘争を否定し、既成政治勢力内部の工作によって可能だというのです。しかし、スパイに対する日本人の感覚はヨーロッパ諸国と違い、売国奴としての評価が強いようです。
 1941年11月26日にアメリカの国務長官(日本では外務大臣)であるハルが提出し、11月27日に日本が受け取った文書、いわゆるハル=ノートの全文を紹介します。
「合衆国及び日本国間協定の基礎概略
第1項 政策に関する相互宣言案
合衆国政府及び日本政府は共に太平洋の平和を欲し其の国策は太平洋地域全般に亙る永続的且つ広汎なる平和を目的とし、両国は右地域に於いて何等領土的企図を有せず、他国を脅威し又は隣接国に対し侵略的に武力を行使するの意図なく又その国策に於いては相互間及び一切の他国政府との間の関係の基礎たる左記根本諸原則を積極的に支持し且つ之を実際的に適用すべき旨宣明す。
 一切の国家の領土保全及び主権の不可侵原則
 他の諸国の国内問題に対する不干与の原則
 通商上の機会及び待遇の平等を含む平等原則
 紛争の防止及び平和的解決並びに平和的方法および手続に依る国際情勢改善の為国際協力及び国際調停遵拠の原則
日本国政府及び合衆国政府は慢性的政治不安定の根絶、頻繁なる経済的崩壊の防止及び平和の基礎設定の為め、相互間並びに他国家及び他国民との間の経済関係に於いて左記諸原則を積極的に支持し、且つ実際的に適用すべきことを合意せり
 国際通商関係に於ける無差別待遇の原則
 国際的経済協力及び過度の通商制限に現れたる極端なる国家主義撤廃の原則
 一切の国家に依る無差別的なる原料物資獲得の原則
 国際的商品協定の運用に関し消費国家及び民衆の利益の十分なる保護の原則
 一切の国家の主要企業及び連続的発展に資し、且つ一切の国家の福祉に合致する貿易手続きによる支払いを許容せしむるが如き国際金融機構及び取極め樹立の原則
第2項 合衆国政府及び日本国政府の採るべき措置
合衆国政府及び日本国政府は左記の如き措置を採ることを提案す
 合衆国政府及び日本国政府は英帝国支那、日本国、和蘭(オランダ)、蘇連邦、泰国、及び合衆国間多辺的不可侵条約の締結に努むべし
 当国政府は米、英、支、日、蘭、及び泰政府間に各国政府が仏領印度支那の領土主権を尊重し、且つ印度支那の領土保全に対する脅威に対処するに必要且つ適当なりと看做(みな)さるべき措置を講ずるの目的を以って即時協議する旨誓約すべき協定の締結に努むべし
 斯かる協定は又協定締約国たる各国政府が印度支那との貿易若しくは経済関係に於いて特恵的待遇を求め、又は受けざるべく且つ各締約国の為仏領印度支那との貿易及び通商に於ける平等待遇を確保するが為尽力すべき旨規定すべきものとす
 日本国政府は支那及び印度支那より一切の陸、海、空軍兵力及び警察力を撤収すべし
 合衆国政府及び日本国政府は臨時に首都を重慶に置ける中華民国国民政府以外の支那に於ける如何なる政府、若しくは政権をも軍事的、経済的に支持せざるべし
 両国政府は外国租界及び居留地内及び之に関連せる諸権益並びに1901年の団匪事件議定書に依る諸権利を含む支那に在る一切の治外法権を放棄すべし
 両国政府は外国租界及び居留地に於ける諸権利並びに1901年の団匪事件議定書による諸権利を含む支那に於ける治外法権廃棄方に付き英国政府及其の外の政府の同意を取り付くべく努力すべし
 合衆国政府及び日本政府は互恵的最恵国待遇及び通障壁の低減並びに生糸を自由品目として据え置かんとする米側企図に基き合衆国及び日本国間に通商協定締結の為協議を開始すべし
 合衆国政府及び日本国政府はそれぞれ合衆国に在る日本資金および日本国に在る米国資金に対する凍結措置を撤廃すべし
 両国政府は円払い為替の安定に関する案に付き協定し右目的の為適当なる資金の割り当ては半額を日本国より半額を合衆国より給与せらるべきことを合意すべし
 両国政府は其の何れかの一方が第三国と締結しおる如何なる協定も同国に依り本協定の根本目的即ち太平洋地域全般の平和確立及び保持に矛盾するが如く解釈せらるべきことを同意すべし
 両国政府は他国政府をして本協定に規定せる基本的なる政治的経済的原則を遵守し、且つ之を実際的に適用せしむる為其の勢力を行使すべし」

index