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エピソード

260_02

戦勝から降伏へU(真珠湾攻撃)
 ドイツから激しい空爆を受けているイギリスの首相であるチャーチルは、アメリカが伝統的なモンロー主義(孤立主義)を国是としてヨーロッパ戦争に参加しないので、いらいらしていたといいます。チャーチルは、日本をアジアで暴れさせてアメリカを刺激し、それによってアメリカの国論を対ドイツ戦参戦の方向に向かわせたいと考えていて、実際にイギリスの船が太平洋で日本海軍を刺激する行動をしています。
 ドイツのヒトラーは、日米開戦を聞き、机を叩いて喜んだといいます。アメリカが日本に気をとられてヨーロッパ参戦に影響が出ると考えたのです。
 ソ連のスターリンは、日米開戦によって、日本からの攻撃の心配がなくなり、ヨーロッパ戦線に大動員出来ると大歓迎したといいます。
 中国の蒋介石や毛沢東も、日米開戦により、日本と戦っている中国とアメリカの同盟の絆が強くなると大歓迎したといいます。 
 本当に日米開戦に日本にとってどんな利点があったのでしょうか。
 11月5日、大本営は、連合艦隊に対英・米・蘭作戦準備を命令しました。山本五十六長官は、正式にハワイ作戦の実施について指示を受けました。
 11月6日、大本営は、南方軍に南方要域の攻略準備を命令しました。
 11月8日、「開戦概定日を12月8日」とし、各部隊は作戦開始前の待機地点に集結することが決められました。
 11月20日、野村・来栖大使は、ハル国務長官と会見し、乙案を提出しました。しかし、アメリカ側は暗号解読により、「11月25日までに日本の要求に応じない場合は戦争も辞さない」ということを知ってたというのです。
 11月26日、集結していたハワイ作戦機動部隊は、択捉島のヒトカップワンを出港しました。
 11月26日、ハル国務長官は、今までの交渉を無視した強硬なハル=ノートを提出しました。(1)三国同盟から脱退(2)全ての軍隊・警察を撤収(3)汪兆銘政権の否定(4)満州事変以前の状態
 11月27日、大本営連絡会議は、これを日本に対する最後通牒と結論付けました。
 12月1日、御前会議は、対米英蘭開戦を決定しました。
 12月1日、軍部は、艦船・部隊の無線呼出信号を変更したり、機動部隊には無線封鎖を命じました。艦隊からは偽の発信をさせ、艦隊所の在地を偽装しました。
 12月6日、ドイツ軍は、モスクワ40キロの地点で、ソ連軍の大攻勢に会い、零下50度という悪条件の中を、戦車を捨てて撤退を開始しました。この段階で、日本のドイツ頼みの作戦が崩壊しました。本当はこの段階で、日本は引き返すべきだったのです。
 12月7日4時(ワシントン時間6日14時00分)、日本大使館からの重要文書は、大使館員の歓送迎会のため提示できませんでした。
 12月8日0時(ワシントン時間7日10時00分)、日本大使館の野村吉三郎大使は、アメリカ大統領に、日本側の重要文書を提示しました。
 12月8日、ヒトラーは、モスクワ攻撃放棄を指令しました。
 12月8日2時、日本軍は、マレー半島に上陸しました。
 12月8日3時(ワシントン時間7日13時00分)、日本政府は、日本大使館に、この時間に宣戦布告書を手交するよう命じました。
 12月8日3時(ワシントン時間7日13時00分)、日本の大使館からアメリカのハル国務長官に宣戦布告書が手交される予定でしたが、戦線の通告出来ませんでした。その理由として(1)暗号の解読に時間がかかった(2)英文タイプライターに慣れていない大使館員が宣戦布告書のタイプ打ちに時間がかかった(3)覚書に宣戦布告の文字がなかったので、野村吉三郎大使・来栖三郎特派大使は、通常業務と考えて処理した、などが考えられます。重要文書なら手書き文書を手交し、口頭で説明すれば問題ないので、私は(3)の説を採用しています。
 12月8日1時30分(ワシントン時間7日11時30分)、第1次攻撃隊183機が発艦しました。
 12月8日2時45分(ワシントン時間7日12時45分)、第2次攻撃隊167機が発艦しました。
 12月8日3時19分(ワシントン時間7日13時19分)、総指揮官の赤城飛行隊長である淵田美津夫中佐は、略語「ト連送」(トトトトト=全軍突撃せよ)で全軍突撃を命じました。
 12月8日3時22分(ワシントン時間7日13時22分)、淵田中佐は、機動部隊の指揮官に略語「トラ連送」(トラ・トラ・トラ=ワレ奇襲ニ成功セリ)で奇襲成功を放送しました。
 12月8日3時25分(ワシントン時間7日13時25分)、日本の機動部隊はハワイの真珠湾を空襲し、アメリカ戦艦の主力を撃破しました。これを第1次攻撃といいます。
(1)主隊はフォード飛行場・ヒッカム両飛行場に向かいハワイ攻撃の第1弾を投じた。
(2)坂本大尉率いるもう1隊は、ホイラー飛行場を急襲、敵戦闘機に壊滅的な打撃を与えた。
(3)雷撃隊は敵戦艦群に攻撃を集中した。雷撃は順調に実施され、この日のために改良された浅沈度用魚雷は訓練時よりも良好で発射した魚雷はほとんど命中、敵艦に甚大な損害を与え、予期以上の戦果を挙げ得たと判断「各機攻撃成功、効果甚大」を報じた。
 12月8日4時20分(ワシントン時間7日14時20分)、野村吉三郎・来栖大使は、ハル国務長官に宣戦布告書を手交しました。この結果2億のアメリカ人は「リメンバーパールハーバー」を永久に記憶するとともに、自由と民主主義のために、日本と戦うことを決意したのです。山本長官は、「通告手交後」の攻撃を大前提にしていただけに、最悪のシナリオとなりました。
 12月8日、アメリカ・イギリスに宣戦の詔書が出されました。
 12月8日4時32分(ワシントン時間7日14時32分)、第二次攻撃隊の総指揮官である島崎重和少佐の命令で攻撃を開始しました。これを第2次攻撃といいます。
(1)制空隊は、オアフ島の制空権を第1次攻撃隊から引継ぎ、反撃してきた若干の敵戦闘機を撃墜して制空権を持続続いて地上の飛行機攻撃に移り大戦果をあげた。
(2)急降下爆撃隊は、0432から在泊艦船の攻撃を開始、終了後は付近の飛行場を銃撃した。
(3)米軍の反撃は始まり、第2次攻撃隊は第1次攻撃隊に比較して被害が大きかった。
ハワイの米軍の海軍機・陸軍機・兵隊数と損害
戦艦 空母 哨戒機 小型機 海兵隊 空母搭載 陸軍 陸上兵力 海兵隊
保有 17隻 10隻 81機 32機 61機 130機 180機 43000人 652人
損害 撃沈4、破損4 231機 戦死2402負傷1382
日本側の被害:未帰還機29機、戦死9人、捕虜1人
 12月8日9時22分(ワシントン時間7日19時22分)、機動部隊は母艦に帰艦しました。戦艦や飛行場と飛行機などは壊滅させたが、空母や重巡洋艦、それに石油貯蔵タンクやトラックなどは無傷でした。
 そこで、次席指揮官で第3戦隊司令官(戦艦比叡・霧島)の三川軍一中将は、第2次攻撃を加えるべきであると意見具申しました。
 しかし、第2航空戦隊司令官の山口多門少将は、空母飛龍から旗艦赤城に「第2撃準備完了」と信号を送り、出撃を要請しましたが、意見具申はしませんでした。
 赤城の搭乗員の間には「この好機に乗じて再度攻撃しべし」との意見がありましたが、強く司令部に意見具申しませんでした。
 第1航空艦隊参謀長の草鹿龍之介中将は、「攻撃は一太刀と定め周到なる計画のもとに手練の一撃を加えた」と進言したので、機動部隊指揮官の南雲忠一中将は、第2次攻撃を断念し、引き揚を命じました。引上げの理由として、以下の点を上げています。
(1)第1回空襲によってほぼ所期の目的を達成し、第2回攻撃を行っても大きな戦果は期待できない。
(2)我が艦隊の概位は米軍に推定されており、一方敵空母、潜水艦等の動静は不明である。
 12月9日0時29分(ワシントン時間8日12時29分)、アメリカ大統領のルーズベルトは、上下両院本会議場で、「昨日、1941年12月7日は、屈辱の日として長く記憶されるべきでしょう。アメリカ合衆国は、日本帝国より、計画的に襲撃されたのであります」と演説して、アメリカ人の敵愾心を煽り、それまでの厭戦気分を一夜にして参戦気分に大転換させました。山本五十六長官が狙った「緒戦で叩いて、戦意の喪失させる」作戦は、「リメンバーパールハーバー」(真珠湾を忘れるな)の一言で、吹っ飛んでしまったのです。
(1)余りの見事さに、「アメリカ国民の意思を参戦に転換させるために、ルーズベルト大統領がしかけた罠で、日本艦隊の情報をハワイに知らせなかった」という説があります。ただ、「だまし討ち」が成立するには、日本大使館の野村大使と来栖特派大使が、裏切り者の汚名を引き受ける必要があります。
(2)真珠湾奇襲攻撃の成功は、今後の海軍の戦略を根本的に見直す必要を示唆しています。しかし、日本海軍の巨艦主義は継続されました。他方、アメリカの海軍は、戦艦主義を脱皮して、空母を基本とする機動部隊により機動作戦に大転換します。リメンバーパールハーバーで人心・海軍は大転換したのです。
 12月10日、マレー沖海戦で、日本海軍は、イギリスの戦艦2隻を撃沈しました。
 12月10日、日本軍は、グアム島を占領しました。
 12月10日、日本軍は、フィリピン北部に上陸しました。
 12月12日、東条内閣は、閣議で、戦争の呼称を、支那事変を含めて大東亜戦争とすることに決定しました。
 1942(昭和17)年1月2日、日本軍は、マニラを占領しました。
 1月23日、日本軍は、ビスマルク諸島のラバウルに上陸しました。
 2月15日、シンガポールのイギリス軍が降伏しました。
 3月1日、日本軍は、ジャワ島に上陸しました。
 3月7日、大本営・政府連絡会議は、「今後執るべき戦争指導の大綱」を決定し、侵攻作戦一段落後の方針を決定しました。
 3月8日、日本軍は、ラングーンを占領しました。
 3月8日、日本軍は、ニューギニアのラエ・サラモアに上陸しました。
 3月9日、ジャワの蘭印軍が降伏しました。
 3月10日、東条内閣は閣議で、中小商工業者の整理統合および職業転換促進を決定しました。
 4月5日、海軍機動部隊はインド洋に進出し、コロンボを空襲し、イギリス巡洋艦2隻を撃沈しました。
 4月9日、海軍機動部隊は、ツリコマリを空襲し、イギリス空母を撃沈しました。
 4月18日、航空母艦発進のアメリカ陸軍機16機は、東京・名古屋・神戸などを初空襲し、華中の基地に着陸しました。
 5月1日、日本軍は、ビルマのマンダレーを占領し、南方侵攻作戦は一段落しました。
 5月5日、大本営は、ミッドウェー島・アリューシャン列島西部の攻略を命令しました。
 5月7日、マニラ湾のコレヒド−ル島のアメリカ軍が降伏しました。
 5月7日、珊瑚海海戦が行われ、日・米機動部隊の初の航空戦となりました。その結果、日米双方は空母1隻を損失しました。日本のポートモレスビー攻略作戦は一時延期となりました。
 5月18日、大本営は、南太平洋のニューカレドニア・フィジー・サモア諸島を攻略する米豪遮断作戦の準備を命令しました。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
真珠湾攻撃、ルーズベルトのわな?、自存自衛の戦争?
真珠湾第一次攻撃183機
総指揮官 第1集団水平爆撃隊 淵田美津夫中佐 艦上攻撃機49機
淵田美津夫中佐 第1集団雷撃隊 村田重治少佐 艦上攻撃機40機
第2集団急降下爆撃隊 高橋赫一少佐 艦上爆撃機51機
第3集団制空隊 板谷茂 少佐 艦上戦闘機43機
第二次攻撃167機
総指揮官 第1集団水平爆撃隊 島崎重和少佐 艦上爆撃機54機
島崎重和少佐 第2集団急降下爆撃隊 江草隆繁少佐 艦上爆撃機78機
第3集団制空隊 進藤三郎大尉 艦上爆撃機35機
開戦時の海軍の主要ポスト
連合艦隊司令長官 第一艦隊高須四郎中将
山 本 五 十 六 大 将 第二艦隊近藤信竹中将
第三艦隊高橋伊望中将
参謀長 第四艦隊井上成美中将
宇垣纏少将 第五艦隊細萱戌子郎中将
軍令部総長 第六艦隊清水光美中将
永野修身大将 支那方面艦隊司令長官 南遣艦隊小沢治三郎中将
古賀峯一中将 第一航空艦隊南雲忠一中将
第十一航空艦隊塚原二四三中将
 真珠湾の奇襲攻撃を、ルーズベルトの罠とする説は、過去からたくさんありました。
(1)アメリカは、事前の宣戦布告なしに武力攻撃を行い戦争を開始したものとして、日本に対して激烈な非難を浴びせました。ルーズベルトは、これを「破廉恥」(infamy)と表現したのです。
 日本政府は、真珠湾奇襲の数時間前に、正式且つ公式に宣戦布告する予定であったのに、ワシントンの日本大使館のスタッフが、酔っ払っていたのか、寝坊しすぎたのか、タイプが下手だったのか、内部の連絡が間が抜けていたのか、何だかよく解りませんが、ともかく、宣戦布告の外交文書の作成が遅れに遅れて、間に合わなかったという説もあります。
 1907年のハーグ平和会議のとき、「開戦に関する条約」なるものが成立しました。この条約は当時、僅か28カ国が批准しただけで、わが国は、この条約を1911年に締約国となっていました
 軍事的意義は無いに等しいのです。ほんの直前の通告に、軍事的にどれほどの意義があるのでしょうか?それゆえ、問題の核心は、何故、わが国の真珠湾奇襲だけが、かくも執拗且つ激烈に非難されなければならないのか?ということです。それは、真珠湾攻撃の損害があまりにも膨大だったので、ルーズベルト大統領が責任逃れに仕組んだ離れ業だったとも言えるでしょう。
 *解説(アメリカの罠というために、どうして、笑い話のような説が出てくるのでしょうか。山本長官の「緒戦で叩いて、戦意の喪失させる」作戦が成功するには、奇襲の寸前でいいのです。相手に通知する必要が絶対あったのです。それを「何だかよく解りませんが」ではすまされません。「ハーグ条約も締約国になってしまった」とは『国体の本義』が泣きますよ。条約に違反して「軍事的意義は無い」とは泥棒が空き巣に入られる方が悪いといっているようなものです。日本人の恥ですよ)
(2)「リメンバー・パールハーバー(真珠湾攻撃を忘れるな)」は今でも日本を非難する時にアメリじようとうくカが使う常套句です。「敵対行為の開始に関するハーグ条約第三号」に違反している。よって「日本人は、宣戦布告なしに真珠湾を奇襲攻撃し、騙し討ちした単劣な民族」というわけです。
 宣戦布告が遅れたのは、単純な外交上の手続きの不手際でしかありません。外務省から打電された対米覚え書きは全部で十四部あり、うち八部が十二月六日午後八時頃までに解読が終わりました。同日、大使館ではひとりの職員の送別晩餐会が予定されており、終了後、電信員たちは職場に戻り、七日明け方までかかり、十三部までの解読を終えます。この時点では最後の十四部は、まだ届いていませんでした。解読した内容を七日朝からタイピングに取りかかったのは奥村書記官でした。
 普段、日本大使館でタイプを打っているタイピストを使うわけにはいかず、ただひとり高等官でタイプが打てる奥村書記官がこの任に当たったのです。この間、修正電報に加え、退職する職員への大臣・局長らの慰労電報が次々と舞い込みます。慰労電報にも「至急」の文字があり、電信員たちはこれらの電報を先に解読したために、十二月七日早朝に着いた最後の電報が暗号解読に回されたのは数時間後でした。
 奥村書記官は心理的にせかされたこともあってタイプミスが相次ぎ、アメリカ側の交渉の窓口であったハル国務長官に手渡すべき時間だった午後一時になっても、まだタイプを打っている有様でした。
 そして、午後二時五分になって、やっとハル長官の部屋を野村大使が訪れ、覚え書きを手渡します。しかし、時すでに遅し。五十五分前に真珠湾攻撃が開始されていました。
 *解説(ここでも、事細かに手続き上のミスを紹介しています。この様な重大事に、当時の大使館員たちはのんびりしていたんですね。内容が重要だとわかった段階で、要点をアメリカに伝えればいいではありませんか。来栖特派大使は重大任務で派遣されたんでしょう。)
 私も「ルーズベルトは日本の奇襲攻撃は知っていた」と思っています。その理由は、以下の通りです。
(1)奇襲攻撃前には、真珠湾には空母がレキシントンやエンタープライズなど10隻がいました。しかし、空母は1隻も被害を受けていません。虎の子の空母を避難させていたのです。沈没したり破損した軍艦に代わり、空母の生産を議会に要請し、満額承認されました。
(2)ラジオで日本の真珠湾攻撃の放送を聞いたイギリスのチャーチル首相は、ルーズベルト大統領に電話しました。2〜3分後、電話に出たルーズベルトに「日本はどうしたというのですか」と聞くと、「日本は真珠湾を攻撃しました。いまや我々は同じ船に乗ったわけです」と即座に答えたといいます。ベッドに入ったチャーチルは「感激と興奮とに満たされ、救われた気持ちで感謝しながら眠りについた」と記録しています(チャーチル『第二次世界大戦』より)。ルーズベルトの対応の早さが、印象的です。
 正規の手続きを経た奇襲攻撃は、国際法上にも認められています。当てにならないドイツを頼り、国力を考えると戦争すべきでない相手を間違った指導者の責任こそ重いのです。
 最近、こういう記事を見つけました。
 「1951年(昭和26)5月3日、マッカーサーは、アメリカ合衆国上院議会・軍事外交合同委員会の聴聞会において、聖書に誓い、日本は自衛のための戦争をしたと証言した。
 日本は、絹産業以外には、国有の産物は殆ど何も無いのです。彼らは綿が無い、羊毛が無い。石油の産出が無い、錫が無い、ゴムが無い。その他実に多くの原料が欠如している。そして、それら一切のものがアジアの海域に存在していたのです。
 They feared that if those supplies cut off, there would be 10 to 12 million people unoccupied in Japan.There purpose, therefore, in going war was largely dictated by security.(もしこれら原料の供給が断ちきられたら、1000万から1200万の失業者が発生するであろう事を彼らは恐れていました。したがって、彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られての事だった)。
 これを、転訳し過ぎて、「これはマッカーサーが大東亜戦争は自存自衛ための戦争だと認めたことに他なりません」という結論に導いています。
 戦争は、自存自衛を口実に始まります。侵略することを口実にして、戦争を始める国家はありません。
 扶桑社の教科書では「日本は米英に宣戦布告し、この戦争は『自存自衛』のための戦争であると宣言した。日本政府は、この戦争を大東亜戦争と命名した」となっています。
 自由主義史観研究会の『教科書が教えない歴史2』(扶桑社)では、東京裁判で東条英機は「この戦争の直接の原因が・・・資源を持たない日本をいわゆるABCD(米、英、中、オランダ)ラインの武力包囲と経済封鎖、日本資産の凍結、物資の禁輸などによって排除しょうとしたために、窮地に追い込められた日本が、実力(武力)で資源獲得をしなければならなかった、と主張しました。東条にとって、この戦争は明確に自衛戦争であったのです」と書いています。
 しかし、東条英機首相は、占領地の大東亜圏内の各国家の外交について「外交の二元化は大東亜地域内には成立せず。我国を指導者とする所の外交あるのみ」と答弁しています(1942年9月)。
 自存自衛と大東亜共栄圏とか八絋一宇とは両立しません
 語源的に調べてみました。 
(1)自存自衛の自存とは、「他の何ものにも頼らず、自己の力で生存すること」であり、自衛とは「自力で自分を防衛すること」です。つまり、自存自衛とは「他からの攻撃などに対して、自分の力で自分を守る」という身勝手な論理です。
(2)共存共栄の共存とは、「ともに生存・存在すること」であり、共栄とは「ともに栄えること」です。つまり「互いに助けあって、ともに繁栄すること」です。本来、大東亜共栄圏とは共存共栄でなければならないのに、自存自衛のための戦争をしてしまったのです。
 大東亜戦争は正義の戦争であったと主張する人は、この矛盾に気がつていいない。

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