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エピソード

262_01

戦勝から降伏へ(大東亜会議、カイロ宣言、インパール作戦)
 ミッドウエー海戦の敗北により、日本の制海権は非常に厳しい状況でした。日米開戦の時、ミッドウエーは死守すべき哨戒戦の要であったのです。
 ガダルカナル攻防戦の敗北により、日本の精神主義的白兵戦がアメリカの近代的物量主義に敗北しました。ガダルカナル島は、米豪遮断の重要な地点でした。
 この段階で、日本はどういう対応をしたのでしょうか。大東亜会議の開催でした。絶望的なインパール作戦でした。「貧すれば鈍する」という諺があります。
 1942(昭和17)年2月17日、第15軍の飯田祥二郎中将は、援蒋ビルマルートの破壊を口実に、ビルマ南部のシッタン河を渡りべグー山脈に進撃しました。
 3月8日、飯田祥二郎中将は、ビルマの首都ラングーンを占領しました。大本営は、シンガポールが陥落したので、第25軍・第3飛行集団をビルマ攻略に投入しました。
 5月18日、日本軍は、ビルマから英印軍をインドに退却させました。
 1943(昭和18)年1月24日、ルーズベルト大統領とチャーチル首相は、フランス領モロッコのカサブランカで会談し、「1943年11月からビルマへの本格的反攻を開始する」と決定しました。
 2月14日、イギリス軍のオード・ウインゲート准将率いるイギリス空挺部隊3200人は、空中補給を受けながら標高2000メートルのアラカン山脈・川幅600メートルのチンドウィン河を越えて、日本軍の後方に回り込み、鉄道や橋梁を爆破して、後方を攪乱しました。インドからビルマに侵攻したのです。
 3月1日、ニューギニア増援のための日本輸送船団8隻がダンビール海峡で全滅し、海没者は3600人に達しました。
 3月2日、兵役法改正が公布され、朝鮮で徴兵制が施行されました。
 3月24日、日本の第15軍は、激しく交戦して、ウインゲート部隊を撤退させました。
 3月27日、ビルマ方面軍が創設され、方面軍司今官に河辺正三中将、その指揮下の第15軍司令官に牟田口廉也中将が就任しました。その結果インパール作戦が現実化しました。ビルマ駐屯の日本軍は、ビルマを防衛するのが本務でした。@インパール作戦は、本来の任務を超えたインド侵攻作戦でした。これはウインゲート部隊がアラカン山脈・チンドウィン河を超えて来たことがヒントになっています。
 4月18日、連合艦隊司令長官の山本五十六ソロモン諸島上空で戦死しました。後任に古賀峯一が就任しました。
 4月20日、谷正之外相の後任に重光葵湯沢三千男内相の後任に安藤紀三郎が就任しました。
 5月12日、アメリカ軍がアッツ島に上陸しました。
 5月29日、アッツ島の日本軍守備隊2500人が玉砕しました。 
 5月31日、御前会議は、5月29日に連絡会議で決定した大東亜政略指導大綱を正式に採択しました。その内容は、マレー・蘭領インドの日本領土編入ビルマ・フィリピンの独立などでした。
 6月30日、米軍は、ソロモン諸島中部のレンドバ島・ニューギニア北岸のナッソウ湾に上陸しました。
 7月3日、アメリカ軍は、ニュージョージア島に上陸しました。
 7月24日、イタリアのファシスト大評議会はエマヌエレ3世にムソリーニの統帥権剥奪を要請しました。
 7月25日、ムソリーニは失脚し、逮捕されました。国王のエマヌエレ3世は、後任にバドリオ元帥を任命しました。
 7月29日、キスカ島の日本軍が撤退しました。
 8月1日、日本占領下のビルマで、バー=モー政府が独立を宣言し、米英に宣戦布告しました。
 8月1日、日本は、ビルマと同盟条約を調印しました。
 8月12日、大本営は、ビルマ方面軍から第15軍に対して、インパール作戦の準備要綱を示しました。これを「う」号作戦といいます。
 8月23日、英米軍は、ベルリンを重爆撃しました。
 8月25日、ビルマ方面軍の河辺正三中将や牟田口廉也中将は、インド北東部のインパールを攻略して防衛線を前進させるという構想で図上演習を行いました。
 8月26日、第15軍新参謀長の久野村桃代少将とインド国民軍と関係のあった第15軍参謀の藤原岩一少佐は、チャンドラ=ボースを訪問しました。久野村少将は、ポースに対して、「インパール進攻作戦ではインド国民軍と緊密な連合作戦を行いたい」と申し入れました。ボースは、これを承諾しました。
 8月、カナダのケベックで行なわれた米英統合参謀長会議は、「1944年2月中旬に、中印ビルマルートを再開する」という北部ビルマ奪回作戦を決定し、インドのニューデリーに、東南アジア連合軍司令部が設置され、司令官としてイギリスのマウントバッテン将軍が任命されました。
 9月4日、米豪連合軍はニューギニアのラエ・サラモアに上陸しました。これを蛙跳び作戦といいます。
 9月8日、連合国は、バドリオ政府と休戦協定を結び、イタリアが無条件降伏しました。
 9月9日、イタリアの無条件降伏に関し、東条内閣は、イタリアの艦船抑留などの声明を発表しました。
 9月9日、ドイツ軍は、対伊枢軸作戦を実行し、北・中部イタリアを占領しました。
 9月10日、ドイツ軍は、ローマを占領しました。バドリオ元帥は、南イタリアに逃亡しました。
 9月10日、駐ソ大使の佐藤尚武は、ソ連外相のモロトフに、重要人物をモスクワ・西欧に派遣したい旨を申し入れました。
 9月12日、ムソリーニは、ドイツ軍に救助されました。
 9月13日、ソ連外相のモロトフは、独ソ和平の意思なしと拒否しました。
 9月15日、日独は共同声明を発表し、同盟を確認しました。
 9月22日、米豪連合軍は、フィンシハーフェンに上陸しました。これを蛙跳び作戦といいます。
 9月23日、東条内閣は、閣議で、台湾に1945年度より徴兵制実施を決定しました。
 9月30日、御前会議は、「今後執るべき戦争指導大綱」および「当面の緊急措置に関する件」を決定しました。その結果、絶対防衛線をマリアナ・カロリン・西ニューギニアの線に後退しました。
 10月2日、ソロモン諸島中部のコンバンガラ島の日本軍1万2000人の撤退が完了しました。
 10月13日、バドリオ政府は、対独宣戦を布告しました。
 10月14日、フィリピン共和国のラウレル大統領は、独立を宣言し、日比同盟条約に調印しました。
 10月21日、チャンドラ=ボースは、シンガポールで、自由インド仮政府を樹立しました。
 10月21日、徴兵延期停止により出陣する学徒壮行大会を、神宮外苑競技場で挙行しました。
 10月23日、東条内閣は、チャンドラ=ボースの自由インド仮政府を承認しました。
 10月30日、東条内閣は、日華基本条約を失効し、汪兆銘の南京政府日華同盟条約を締結しました。
 11月1日、企画院・商工省などを廃止して、軍需省などを設置しました。
 11月1日、兵役法改正を公布し、国民兵役を45歳まで延長しました。
 11月5日、東京で大東亜会議が開催されました。日本・満州・タイ・フィリピン・ビルマ・自由インド・中国汪兆銘政権の各代表が参加しました。
日本 満州 中国 タイ フィリピン ビルマ インド
東条英機 張景恵 汪兆銘 ワンワイタヤコーン ラウレル バー・モウ チャンドラ・ボース

 11月6日、大東亜会議は、大東亜共同宣言を発表しました。その内容は、以下の通りです。
(1)抑も世界各国が各其の所を得相倚り相扶けて万邦共栄の楽を偕にするは世界平和確立の根本要義なり
 *解説(共存共栄が世界平和確立の根本である→自存自衛を唱える日本と矛盾しないか)
(2)然るに米英は自国の繁栄の為には他国家他民族を抑圧し特に大東亜に対しては飽くなき侵略搾取を行ひ大東亜隷属化の野望を逞しうし遂には大東亜の安定を根底より覆さんとせり
 *解説(米英は自国の繁栄のために、大東亜で侵略し、隷属化して大東亜の安定を覆した)
(3)大東亜各国は提携して大東亜戦争を完遂し大東亜を米英の桎梏より解放して其の自存自衛を全うし左の綱領に基づき大東亜を建設し以て世界平和の確立に寄与せんことを期す。
 *解説(大東亜の各国は提携して大東亜戦争を完遂し、大東亜を米英の手かせ・足かせから解放して、自存自衛を成し遂げる。そして、次の綱領に基づき大東亜を建設し、世界平和に寄与する)
(4)一、大東亜各国は協同して大東亜の安定を確立し道義に基づく共存共栄の秩序を建設す
 一、大東亜各国は相互に自主独立を尊重し互助敦睦の実を挙げ大東亜の親和を確立す
 一、大東亜各国は相互に其の伝統を尊重し各民族の創造性を伸張し大東亜の文化を昂揚す
 一、大東亜各国は互恵の下緊密に提携し其の経済発展を図り大東亜の繁栄を増進す
 一、大東亜各国は万邦との交誼を篤うし人種差別を撤廃し普く文化を交流し進んで資源を開放し以て世界の進運に貢献す
 *解説(共存共栄の秩序を建設する、大東亜の親和を確立する、大東亜の文化を昂揚する、大東亜の繁栄を増進する、資源を開放して世界の進運に貢献する→色々空虚で美しい言葉で修飾されていますが、具体的には資源を開放し、日本の政策に協力するという本心が描かれています)
 11月6日、ソ連軍は、キエフを奪回しました。
 11月18日、イギリス軍は、ベルリン夜間空襲を行いました。
 11月21日、アメリカ軍は、ギルバート諸島のマキン島・タラワ島に上陸しました。
 11月25日、マキン島・タラワ島の守備隊5400人が玉砕しました。
 11月27日、ルーズベルトチャーチル蒋介石は、エジプトのカイロで会議を行いました。これをカイロ会談といい、カイロ宣言に署名しました。
 その内容は、以下の通りです。
(1)右同盟國ノ目的ハ日本國ヨリ千九百十四年ノ第一次世界戰爭ノ開始以後ニ於テ日本國カ奪取シ又ハ占領シタル太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼ヲ剥奪スルコト並ニ滿洲、臺灣及澎湖島ノ如キ日本國カ清國人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民國ニ返還スルコトニ在リ
 *口語訳(同盟国の目的は、日本国より1914年の第一次世界戦争の開始以後において日本国が奪取し、または、占領した太平洋における一切の島嶼を剥奪すること、並びに、満州・台湾及び澎湖島のような日本国が清国人から盗取した一切の地域を中華民国に返還することにある)
(2)日本國ハ又暴力及貪慾ニ依リ日本國ノ略取シタル他ノ一切ノ地域ヨリ驅逐セラルヘシ
 *口語訳(日本国は、また、暴力及び貪欲により日本国が略取した他の一切の地域から駆逐される)
(3)前記三大國ハ朝鮮ノ人民ノ奴隸状態ニ留意シ軈テ朝鮮ヲ自由且獨立ノモノタラシムルノ決意ヲ有ス
 *口語訳(米英中三国は、朝鮮の人民の奴隸状態に留意し、やがては朝鮮を自由・独立化する)
(4)右ノ目的ヲ以テ右三同盟國ハ同盟諸國中日本國ト交戰中ナル諸國ト協調シ日本國ノ無條件降伏ヲ齎スニ必要ナル重大且長期ノ行動ヲ續行スヘシ
 *口語訳(以上の目的で、米英中は、同盟諸国の中で日本国と交戦中の諸国と協調し、日本国の無条件降伏をもたらすことに必要な、重大かつ長期の行動を続行する)
10  11月28日、ルーズベルト・チャーチル・スターリンは、イランのテヘランで会議を開きました。これをテヘラン会談といい、テヘラン宣言に署名しました。その内容は、以下の通りです。
(1)1944年5月1日を期して北フランスへの上陸作戦を行い、ヨーロッパに第2戦線を結成するというものでした。
(2)秘密協定でドイツ降伏後、速やかにソ連の対日参戦が約束されました。
 12月1日、第1回学徒兵が入隊しました。これを学徒出陣といいます。
 12月8日、東条英機首相は、世界向けの放送で、カイロ宣言テヘラン宣言を反撃しました。
 12月10日、文部省は、学童の縁故疎開促進を発表しました。
 12月15日、アメリカ軍は、ニューブリテン島のマーカス岬に上陸しました。
11  1944(昭和19)年1月7日、大本営はインパール作戦を認可しました。その背景は以下の通りです。
 イギリス軍のオード・ウインゲート准将率いる部隊がアラカン山脈を越える作戦を実施したことを知った第15軍司令官の牟田口廉也中将は、インパール方面への進攻を強硬に主張しました。3週間分の食糧を持参し、3個師団で急襲すれば短期間でインパールを占領し、インド独立工作も容易となるというものでした。Aウインゲート准将率いる部隊がインドからビルマに侵攻できたのは、飛行機からの空中投下による物資の補給があったからです。牟田口中将には、日本人の精神力なら、物資の補給は二の次という感覚でした。
 B南方総軍・ビルマ方面軍の司令官は、色々な見地からインパール作戦に反対しました。
 大本営は、悪化する戦局を「一発打開」する意味で、賛成しました。
 1月7日午後、チャンドラ=ボースは、ラングーンのビルマ方面軍司令部を訪問しました。司令官の河辺正三中将は、「日本軍とインド国民軍が手を携えてインドに進軍するときがきた」と伝えると、チャンドラ=ボースは「祖国のために私の血を流さしめたまえ」と応えたといいます。
 1月18日、東条英機内閣は、緊急国民勤労動員方策要綱を閣議で決定しました。その結果、中学校以上の生徒全員を軍需工場に動員出来るようになりました。
12  2月1日、アメリカ軍は、マーシャル群島のクエゼリン島・ルオット島に上陸しました。
 2月4日、インパール作戦を容易にするため、桜井徳太郎少将率いる部隊は、東方から英印軍の側背に進出し、陸軍第55師団の花谷正中将率いる部隊は、正面から進撃して、シンゼイワ盆地で英印第7師団主力を包囲しました。これを第2次アキャブ作戦または「ハ」号作戦といいます。
 2月6日、クエゼリン島・ルオット島の日本守備隊6800人が玉砕しました。
 2月17日、アメリカの機動部隊は、トラック島を空襲しました。その結果、日本軍の戦艦43隻が沈没し、航空機270機を損失しました。
 2月21日、陸相の東条英機が参謀総長、海相の嶋田繁太郎が軍令部総長を兼務しました。
 2月23日、毎日新聞は、「竹槍では間に合わぬ、飛行機だ」の記事に東条英機首相が激怒し、新聞が差し押さえられました。その後、執筆記者の懲罰招集をめぐり陸軍・海軍当局で衝突がおきました。
 2月25日、東条英機内閣は非常決戦措置要綱を閣議で決定しました。つまり一億総玉砕です。
 2月26日、シンゼイワ盆地の英印軍は、空挺部隊によって補給され、戦車100台で抵抗しました。軽装備で、食糧不足の日本軍には包囲しても攻略することが出来ず、結局、シンゼイワ盆地から撤退しました。C本作戦であるインパール作戦ための支作戦である第2次アキャブ作戦が失敗しました。
 2月29日、アメリカ軍は、アドミラルティー諸島のロスネグロス島に上陸しました。この結果、ラバウル地区はアメリカ軍の背後に孤立しました。この方面の損害は合計して、死者13万人・艦艇沈没70隻・船舶115隻沈没・飛行機8000機損失となりました。
 2月、イギリス軍のオード・ウインゲート准将率いるイギリス空挺部隊9000人は、グライダーを使用するなど最大の空挺部隊を動員して、インパール・フーコンに進軍しました。
13  3月5日、ウインゲート准将率いる2個旅団は輸送飛行機83機・グライダー80機を動員して、北部ビルマに進撃しました。その数は15万人に達していました。ビルマ方面軍の飛行機は100機で、大部分がウィンゲート部隊用だったので、インパール作戦の地上部隊用飛行機は殆どありませんでした。
 3月8日、日本軍は、支作戦のアキャブ作戦が失敗したにも拘わらず、本作戦のインパール作戦を修正することもなく開始しました。兵力4万8900人、輸送部隊3万6000人の大作戦です。
 日本軍の牟田口中将の作戦は次の通りでした。
(1)第31師団は、インパールの北100キロのコヒマに進撃する
(2)第15師団は、東北方面からインパールに進撃する
(3)第33師団の山本支隊は、パレルからインパールに進撃する
(4)第33師団主力は、トンザンを経て南西からインパールに進撃する
(5)第44師団・第45師団は、アキャブ攻撃の陽動作戦にチッタゴンを目標とする
(6)ボースのインド国民軍は、第33師団主力の南にあるチン高地のハカ・ファラム地区の守備につき、その側面を援助する。第44師団・第45師団の陽動作戦に呼応してチッタゴン方面に進撃する
(7)山中の移動のため、重砲や野砲を持たず、山砲や重機関銃も規定の半数とし、3週間でインパールを攻略するため、食糧は20日分とする
 東部インド国境を守護する英印軍のスリム中将の作戦は次の通りでした。
(1)人的損害を避けるため、日本軍の補給線の延びきったインパール平地で迎え撃つ
(2)分断・包囲にあった時は、円筒形陣地を構築したり後方の拠点に後退する(第55師団長の花谷正中将は、この作戦を「むこうの師団長は犬をつれて円形陣地の中を散歩してござる」と嘲笑しました)
 *解説(円筒形陣地とは、円筒形に構築した陣地の外周を戦車・火砲で防備し、日本軍が包囲した場合、補給物資を輸送飛行機から投下させるというものです。日本軍が得意な夜襲・白兵戦にも有効でした)
 3月8日、第33師団は、チンドウイン河を越えました。D食糧の代用として牟田口司令官が補考案した牛・山羊・羊を行軍させる「ジンギスカン作戦」は、川幅600メートルのチンドウィン川を渡河する時に、最初に破棄されました。
14  3月15日、第15師団・第31師団は、インパールに向け進撃しました。「ジンギスカン作戦」は、2000メートルのアラカン山脈のジャングルを行進する時に、最終的に破棄されました。
 3月18日、東条英機内閣は、女子挺身隊制度強化方策要綱を閣議で決定しました。その結果、女子挺身隊を職域・地域ごとに結成し、それへの強制加入が義務づけられました。 
 3月22日、北からコヒマに向った第31師団は、ウクルルを占領しましたが、サンジャック北側の高地を攻撃には失敗しました。
 3月23日、国境を突破した第15師団は、インパール東北のサンジャック前面に進撃しました。
 3月29日、第15師団は、コヒマヘの街道を遮断しましたが、英印軍の猛反撃に阻止されました。そこで、牟田口軍司令官から「前進が遅い」と叱責されました。
 3月末、第33師団は、第17インド師団を包囲しました。しかし、戦車連隊などの増援を得た第17インド師団の反撃にあい、退路を開放してしまいました。
 3月31日、アメリカの機動部隊は、パラオに来襲し、連合艦隊司令長官の古賀峯一大将は、これを避けるためダバオに向かう途中で行方不明となりました。後、殉職と発表されました。
15  4月1日、国民学校学童に1食7勺の給食となりました。
 4月1日、アメリカ型楽器編成の楽団が禁止されました。スチールギター・バンジョー・ウクレレ・ジャズ用打楽器の使用が禁止されました。
 4月5日、第31師団の宮崎繁三郎少将率いる支隊は、コヒマの一角に突入しましたが、円筒形陣地を築いた英印軍は増援軍を得て反撃しました。
 4月6日、激しい雨季に入り、戦線は膠着状態でした。チャンドラ=ボースは、インパール占領に備え自由インド仮政府の行政機関の幹部を同行して、司令部をメイミョウに前進させるため、ラングーンを出発しました。ボースは、第15軍司令部からの勇ましい報告と現状との違いに気がつきました。
 4月10日、ドイツ軍は、オデッサを撤退し、ドニエプル川まで退却しました。
 4月22日、米・豪の機動部隊は、ニューギニア北部のアイタベおよびホーランジアに上陸しました。
 4月、大本営は、京漢作戦を開始しました。
 4月、海軍軍令部は、頽勢挽回の決定的兵器として、9種類の特攻兵器を海軍艦政本部に提案しました。その結果、人間魚雷回天(炸薬1.5トン、1〜2人乗り)・合板製滑走艇震洋(炸薬250kg、1人乗り)を製作しました。
16  5月9日、E第33師団長の柳田元三中将師団長は、インパール作戦の中止を進言し、牟田口軍司令官から解任されました。
 5月10日、ボースは、インド本国でとらわれていたガンジーの釈放を知り、イギリス軍の勝利を予感しました。そこで、ボースは、ビルマ方面軍司令官の河辺正三中将に対して、「インパール攻略の強行とインド国民軍の増強」を強調しました。
 5月15日、F重病の第15師団長の山内正文中将は、胸部疾患と作戦不徹底から解任されました。
 5月15日、ドイツのアイヒマンは、ハンガリーのユダヤ人をアウシュビッツ強制収容所に移送しました。
 5月16日、チン高地を制圧したシャ・ヌワーズ・カーン中佐率いるスバス連隊の第一大隊は、第31師団支援のためコヒマヘの転進命令を受けました。インド国民軍は、コヒマへはナガ山地を越える500キロでしたが、「4月6日以来食糧の補給もないまま」出発しました。
 5月25日、G第31師団長の佐藤幸徳中将は、1ケ月もの間弾丸・食糧の補給がないことを激怒し、牟田口司令官に対して、「6月1日までにはコヒマを撤退し、補給を受けられる地点に向い移動する」と打電しました。牟田口軍司令官は、命令違反と脅しましたが、佐藤幸徳中将は、「善戦敢闘60日におよび人間に許されたる最大の忍耐を経てしかも刀折れ矢尽きたり。いずれの日にか再び来たって英霊に託びん。これを見て泣かざるものは人にあらず」と返電し、師団に撤退を命じました。これを日本陸軍初の抗命事件といいます。佐藤中将は、無断撤退を理由に解任されました。
17  6月4日、米英軍は、ローマに入城しました。
 7月12日、ビルマ方面軍は、第15軍のインパール作戦を中止し、チンドウィン河の線まで撤退するよう命令しました。
 インパール作戦に参加したインド国民軍6000人のうち、チンドウィン河に辿り着いたのは2600人でした。その内2000人が病気で入院しました。戦死は400人、飢餓と病死は1500人、捕虜は800人、行方不明は700人でした。
 インパール作戦に参加した日本軍8万6000人のうち、戦死者は3万人、飢餓と病死は4万人でした。日本兵は、退却路の死者の多さに、白骨街道と呼んだといいます。
18  @Gは、インパール作戦の失敗の原因です。しかし、一番の原因は、このような無謀な作戦を提案した牟田口中将や、それを承認した大本営参謀が、責任を取っていないことです。
 たくさん給与を与えられ、地位や名誉も得ているのは、その責任に対してです。責任を取って自害することではありません。同じ過ちを起こさないためにも、原因を見極め、過ちを防止する制度を講じる責任です。責任ととらないのなら、最初から、責任ある地位に着くなといいたい。インパール作戦を調べるうち、無責任な指導者のために死んでいった人のことを思うと、涙を禁じえませんでした。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
大東亜会議とは、インパール作戦とは
 私は、日本軍がアメリカと戦争するようになったのは、南方の石油資源を獲得する政策を打ち出した結果だと思っています。日独伊三国同盟を結んだドイツがイギリスに勝利し、日ソ中立条約で北進策を考慮することなく、石油を獲得するために南進策を推し進める。場合によっては、日本の巧妙な外交政策により、アメリカは日本との戦争を回避するのではないかと考えました。
 しかし、南部仏印進駐の結果、アメリカは、石油の輸出を前面的に禁止しました。そこで、日本は緒戦に勝って、有利な状況で、アメリカとの外交交渉を図る作戦を立てました。
 しかし、真珠湾で勝利を得たものの、ミッドウエー海戦で破れ、ガダルカナル攻防戦で破れ、日本の戦局は大きく崩れました。そういう状況下でも大東亜会議です。
 最近、「戦前日本外交の絶頂、大東亜会議」という記事を見て、唖然としました。その作者の主張を紹介します。
(1)日本が汪精衛(汪兆銘)を中国における傀儡政権としたように、アメリカは蒋介石を傀儡政権として中国の資源、市場からもたらされる権益を一手におさめようとしていたのだった。こうして日本の対米英開戦は必然のものとなった。
(2)当時の東南アジアはタイ以外はすべて西洋列強の植民地であり、日本軍がそれらの地域へ侵攻していったのも、現地人と戦うためではなくて、あくまで植民地を経営しているアメリカ、イギリス、オランダ軍を駆逐して、東南アジア一帯を日本の経済圏に組み込むのが目的であった。ただそれを前面に出すのは露骨なので、大義名分としてはアジア各国の植民地からの解放を謳った。
(3)日本が西洋列強に敗れて敗者となったため、日本軍のアジア侵攻を正当化する声はほとんど消えてしまった。日本が再び大東亜の盟主として自前の経済圏を持つ事がないよう、二度と有色人種の国家が白人国家の権益を侵す事のないよう、徹底的に叩いておく必要が勝者の側にはあった。
 *解説(この作者は、汪兆銘政権も蒋介石政権も傀儡と認めている所が面白い。有色人種・白色人種史観で、歴史を解釈しようとする所が面白い。しかし、歴史・事実は、そんな単純なものではありません)
 私たちは、ノーベル平和賞を受賞したアウン=サン=スー=チー女子をよく知っています。イギリスのオックスフォード大学や日本の京都大学にも留学しています。彼女の平和運動が国家防御法に触れるとして自宅軟禁を強要されています。
 彼女の父がアウン=サン将軍です。アウン=サン(25歳)は独立運動をして、祖国ビルマを追われ、日本にやって来ました。
 1943年3月に、アウン=サン(28歳)は、日本に招かれ、旭日章を与えられました。8月には、大東亜会議に参加したバー・モウ内閣の国防相に就任しました。しかし、11月には、アウン=サンは、日本の本質を見抜き、イギリス軍に「寝返りを考えている」と伝えました。
 1944年8月には、アウン=サン将軍は、「ビルマの独立はまやかしだ」だと演説しています。8月下旬に、ビルマ国軍への扱いやビルマの独立国としての地位について、日本への不信を深め、ついには、反ファシスト組織という抗日戦線を結成します。
 1945年3月、ビルマ国軍の一部は、ビルマ北部で、日本軍に対して武装蜂起しました。3月下旬、アウン=サン将軍は、反乱軍に対抗すると称して、ビルマ国軍をラングーンに糾合しました。5月、アウン=サンの率いる反ファシスト組織やビルマ国軍は、ラングーンを日本より奪回しました。6月15日、アウン=サン将軍は、対日勝利を宣言しました。
 現在、ビルマ国軍のパレードは、日本の軍艦マーチで始まります。ビルマの真の独立は、日本の圧制のお陰だと皮肉っているのでしょうか。
 インドとビルマの国境地帯は、年間8000ミリも雨が降り、「虎も出歩かない」と言われるそうです。机上で作られたエリートは、現場で将兵と行動を共にする指揮官の言うことが信じられない。
 日本の精神主義的白兵戦がソ連の近代的物量主義に敗れたノモンハン事件の時も、大本営の机上のエリートは、「作戦は正しかったが、現場の指揮官が間違っていた」と指摘して、多数の指揮官を自害させています。
 インパールでは、3人の師団長を「弱音を吐いた」という理由で解任しています。状況を判断せず、いけいけドンドンの戦争指導者が、日本軍・日本を破滅させたのです。
 今の日本社会に、同じ体質が残っていると感じるのは、私だけでしょうか。
 第31師団長の佐藤幸徳中将は、軍法会議の中で、事実を説明して、処分を受ける覚悟をしていました。しかし、陸軍は、「作戦当時、心身喪失であった」と診断を下し、軍法会議を開きませんでした。
 軍法会議の場で、インパール作戦の無謀さ・失敗の原因が明らかにされ、その責任が軍の中枢に及ぶことを回避したのです。
 「くさい物には蓋」で、部下には厳しく、上司である自分には甘い体質です。今もこの体質は同じです。
 東條英機首相は、インパール作戦には当初、反対していました。しかし、大東亜会議に参加したチャンドラ・ボースを感謝しており、「あの愛国者に報いるのも日本の使命だろう」と言って、この作戦に賛成したと言われています。

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