print home

エピソード

262_02

戦勝から降伏へ(絶対国防圏、サイパン玉砕)
 私は、戦争の指揮を体験したことがありません。しかし、運動部の監督をしたことがあります。タイムを取ったり、選手を交代したりする時期によって、戦局は大きく変わります。
 試合前、必ず敵情視察して、色々な情報をメモして、自チームの特徴と比較しながら、様々の対応策を考えます。一番しんどいのが、引き際です。
 引き際という視点で日本の戦争を見たとき、色々と考えることがあります。華北分離、ノモンハン事件、ミッドウエー海戦、ガダルカナル攻防戦があります。ノモンハン事件の時、日本の精神主義的白兵戦が近代的物量主義に勝てないと悟り、引き際を悟っておれば、日本の悲劇は、最少に抑えられたことでしょう。しかし、ついに、人間を爆弾と同じ扱いする特攻隊の時代にまで進んでしまいました。
 1942(昭和17)年2月、大本営連絡会議は、アリューシャン列島(アッツ島・キスカ島)とミッドウエー島とニューギニア(ポートモレスビー)島を国防の最前線として確保することを決定しました。
 1943(昭和18)年6月30日、アメリカ軍は、ソロモン諸島に上陸しました。
 9月22日、マッカーサーが、ニューギニアのフィンシュハーフエンに上陸しました。これを蛙飛び作戦といいます。
 9月30日、御前会議は、絶対国防圏を策定しました。その圏域とは「帝国戦争遂行上太平洋及印度洋方面に於いて絶対確保すべき要域をカムチャッカ半島〜マリアナ諸島(サイパン・グアム)〜トラック諸島〜西部ニューギニア(ラバウル)〜蘭印〜ビルマを含む」というものです。これは1942年2月の国防の最前線から大きく後退しています。
 11月初、アメリカの対日反攻戦略をめぐって、海軍のキング軍令部長とマッカーサー南西太平洋方面軍総司令官との間で対立が表面化しました。
(1)キングは、「日本本土と太平洋の島々を結ぶマリアナ諸島(サイパン・グアム)を攻略し、パラオ・トラック・ニューギニアに点在する日本軍を孤立させ、かつ、B29で日本本土を爆撃する。その上で、フィリピンのルソン島を攻略して、中国〜ルソン〜マリアナに前線を構築し、日本本土を干上がらせる」と主張しました。
(2)マッカーサーは、「ニューギニア→ミンダナオ島→ルソン島の順に攻略する」と主張しました。
(3)結局、キング案とマッカーサー案の両方を実行することを決定しました。
 11月1日、アメリカ軍は、ソロモン諸島のブーゲンビル島に上陸しました。
 11月5日、絶対国防圏に構想に沿って大東亜会議が開催されました。
 その結果、中国大陸・日本内地の部隊は、サイパンなどマリアナ諸島へ派遣されることになりました。  サイパン島に派遣された日本陸軍は、第43師団長の斎藤義次中将、独立混成第47旅団長の岡芳郎大佐らです。日本海軍は、中部太平洋艦隊司令長官の南雲忠一中将、第6艦隊司令長官の高木武中将、第1連合通信隊司令官の伊藤安之進少将、第3水雷戦隊司令官の中川浩少将、南東方面航空廠長の佐藤源蔵中将、第55警備隊司令の高島三治大佐らです。
 11月21日、アメリカ軍は、ギルバート諸島のマキン島・タラワ島に上陸しました。
 11月25日、ギルバート諸島のマキン島・タラワ島の日本守備隊5400人が玉砕しました。
 1944(昭和19)年2月1日、ニミッツ提督は、マーシャル諸島のクエゼリン島に上陸しました。
 2月15日、第29師団の第18連隊は、第1次輸送隊として、サイパン島に向けて宇品を出港しました。
 2月17日、アメリカの機動部隊は、絶対国防圏内のトラック島の連合艦隊基地を急襲しました。トラック島には陸海軍4万3000人、連合艦隊主力の第2艦隊がいました。急襲を察知した連合艦隊は、司令部と第2艦隊をパラオ島に移動させ、空爆の被害を免れました。しかし、戦艦43隻・航空機270機を失い、4万人の将兵が孤立しました。
 2月29日、アメリカの潜水艦は、サイパン島に向かう第18連隊の第1次輸送隊を撃沈しました。その結果、海没2300人、重傷600人、残りの1100人がなんとかサイパン島に上陸できました。
 2月末、マッカーサーは、アドミラルティ諸島に上陸しました。日本が考える絶対国防圏に米軍が迫りつつありました。しかし、日本軍は、ニミッツのサイパンのマーシャル諸島・中部太平洋路線と、マッカーサーの豪比・ニューギニア路線の2方面作戦に幻惑されていました。そこで、サイパンとフィリピンに二面作戦を採用することになりました。
 3月10日、アメリカ軍は、パラオ島に移動した日本の連合艦隊を空襲し、艦船は撃沈され、航空機はほぼ全滅しました。
 3月31日、アメリカ軍は、再度、パラオ島を空襲しました。
 3月31日夜、連合艦隊司令長官の古賀峯一大将と参謀長の福留繁中将ら幹部は、2機の飛行艇に分乗して、パラオ島からミンダナオ島のダバオへ移動する途中、暴風雨に巻き込まれて、古賀峯一大将は行方不明になり、福留繁中将はセブ島近くの海上に不時着しました。これを乙事件といいます。福留繁中将は、抗日ゲリラに救助されたので、Z作戦計画・司令部用暗号書・機密書類が入ったカバンを海に捨てました。セブ島のゲリラの手に渡り、米陸軍情報部が入手しました。
 ゲリラ側は討伐作戦を一時中止するという条件で、福留繁中将を釈放しました。東京に喚問された福留中将は「機密書類は海にしてた」ということを弁明し、海軍首脳もそれを信じました。
 そこで、連合艦隊司令長官を引き継いだ豊田副武大将は、機密文書は米軍に渡っていないという前提で、Z作戦計画を推進しました。
 5月19日、機密書類を手に入れたアメリカ軍は、日本の守備隊500人は抵抗しましたが、ワクデ島を占領しました。米軍の戦略は、ワクデにある飛行場を利用してビアク島を占領することにありました。マリアナ諸島の攻略を支援するために、ニューギニア西部のビアク島が必要でした。ビアク島は、パラオから1000キロ、ダバオから1500キロにあり、飛行場として利用できる平坦地がありました。
 5月27日、機密書類を手に入れたアメリカ軍は、ニューギニア西部のビアク島に上陸しました。日本の守備隊1万2000人が激しく抵抗しました。ここを失うと「あ号」作戦にひびくため、連合艦隊は、日本の守備隊と呼応して、海上機動第2旅団を造園することにしました。これを「渾」作戦といいます。
 左近允尚正少将率いる第16戦隊の戦艦1隻・重巡洋艦3隻が上陸部隊を輸送することになりました。しかし、B24に発見されて、第1次「渾」作戦を中止しました。
 5月、大本営は、湘桂作戦を開始しました。
 6月4日、米英軍は、ローマに入城しました。
 6月6日、連合軍は、北仏のノルマンジーに上陸しました。これをオーバーロード作戦とか史上最大の作戦とかいいます。
 6月10日、豊田副武大将は第2次「渾」作戦を発令して、第1戦隊司令官の宇垣纏中将を指揮官としました。第1次「渾」作戦の兵力に、「あ」号作戦用の戦艦「大和」「武蔵」らの兵力を加えて、強力な連合艦隊となりました。
 6月11日、機密書類を手に入れたアメリカ軍は、サイパン・テニアン・ロタ・グァムに対して一斉に空襲を開始し、マリアナ方面の海軍航空部隊150機の大半を破壊しました。
 6月13日、アメリカ軍は、マリアナ方面を空襲しました。その結果、第2次「渾」作戦を中止しました。
 6月15日、連合艦隊司令長官豊田副武大将は、1あ号作戦を発動しました。
 6月15日7時15分、アメリカ軍は、マリアナ群島のサイパン島に上陸を開始しました。アメリカ軍は7万人、日本軍は4万人です。この時、第31軍司令官の小畑英良中将は、パラオ視察中で不在でした。 6月15日9時、アメリカ軍海兵隊8000人は、上陸用舟艇に分乗して、サイパン島の西海岸に上陸しました。日本軍は、水際撃滅作戦を採用しましたが、航空機による空襲や戦艦による艦砲射撃を受け、多数の戦死者を出しました。
 6月15日夜、日本軍は、幅10キロ・奥行き1キロの橋頭堡を築いていたアメリカ軍を夜襲しましたが、多数の死者を出して、撃退されました。
 6月15日、ドイツは、報復兵器1号(V1)でロンドンを爆撃しました。
 6月16日2時、機密書類を手に入れたアメリカ軍は、上陸支援艦艇による照明弾によってサイパン島の日本軍を攻撃しました。その結果、海軍の横須賀第1陸戦隊の唐島辰男中佐率いる部隊の大部分が戦死しました。
 6月16日夜明、米軍は、砲爆撃を続行しながら輸送船35隻・LST40隻・上陸用舟艇多数で、サイパン島に上陸し、橋頭堡を強化しました。この結果、日本軍部隊4万人が死亡しました。また、サイパン島は日本の統治下であったので、民間人2万人のうち1万人が犠牲になりました。
 6月17日2時30分、米軍は、歩136連隊・歩40連隊第3大隊・戦車第9連隊をサイパン島に動員しました。
 他方、日本軍は、戦車の用兵に関し、戦車第9連隊長の五島正中佐と第34師団参謀長の鈴木卓爾中佐との間で、激論がありました。その結果、鈴木中佐の意見が通り、戦車は数名づつの歩兵を随伴して攻撃することとなり、オレアイ無線局方面へと進撃しました。
 6月18日、第43師団長の斎藤義次中将は、サイパン島のアスリート飛行場を放棄しました。その結果アメリカ軍は、アスリート飛行場を占領しました。
 第31軍参謀長の井桁敬二少将は、軍の戦線を整理しタポチョ山嶺まで後退させ、新たに防御線を敷くことを命令しました。米軍は、タポチョ山嶺一帯を砲爆撃しました。
 6月19日夜、五島中佐率いる夜襲部隊は米軍の師団砲兵陣地まで500メートルまで接近しましたが、
それを察知した米軍のバズーカ砲の攻撃を受けました。その結果、歩第136連隊は1個大隊に減少、歩18連隊第1大隊はほとんど全滅、戦車第9連隊は戦車の大部を喪失、五島正中佐ら大部分が戦死しました。
 6月19日、アメリカ軍と日本軍は、マリアナ沖で衝突しました。これをマリアナ沖海戦といいます。日本海軍は、空母・航空機の大半を失い、致命的は敗北となりました。これを「あ号」作戦といいます。
 6月24日、大本営は、マリアナ沖海戦の敗北により、マリアナ諸島の日本軍は救援の望みを絶たれ、サイパン放棄を決定しました。しかし、この決定はサイパン島の日本軍には知らされていませんでした。
 6月24日、斎藤義次中将は、死の谷といわれたタポチョ山北東側の峡谷に、防御線を敷いて、米軍の攻撃に激しく抵抗しました。その結果、アメリカ第27師団長のラルフ・スミス少将は解任されました。
 6月26日、米軍は、タポチョ山を占領し、さらに、島北部に前進しました。
 6月29日、歩第135連隊長の鈴木大佐が戦死しました。
 6月30日、東条内閣は、閣議で、国民学校初等科児童の集団疎開を決定しました。
 7月1日、ブレトンウッズで連合国44カ国は、経済会議を開き、国際通貨基金国際復興開発銀行の創設を議論しました。これが後のブレトンウッズ体制といいます。
 7月3日、米軍は、中心街ガラパンを占領しました。 
 7月4日、大本営は、インパール作戦の失敗を認め、作戦中止を命令しました。この作戦に参加した10万人中、死者は3万人・戦傷病者は4万5000人に達しました。
 7月6日、日本軍は、ガラパンへの最後の総攻撃を行い、失敗して、中部太平洋方面艦隊司令長官の南雲忠一中将・第43師団長斎藤義次中将・第31軍参謀長井桁少将の3将軍は、自決しました。この時出された南雲中将の訓令です。
 「サイパン全島の皇軍将兵に告ぐ、米鬼進攻を企画してより茲に二旬余、在島の皇軍陸海軍の将兵及び軍属は、克く協力一致善戦敢闘随所に皇軍の面目を発揮し、負託の任を完遂せしことを期せり、然るに天の時を得ず、地の利を占むる能はず、人の和を以って今日に及び、今や戦ふに資材なく、攻むるに砲熕悉く破壊し、戦友相次いで斃る、無念、七生報国を誓ふに、而も敵の暴虐なる進攻依然たり、サイパンの一角を占有すと雖も、徒に熾烈なる砲爆撃下に散華するに過ぎず、今や、止まるも死、進むも死、死生命あり、須く其の時を得て、帝国男児の真骨頂を発揮するを要す、余は残留諸子と共に、断乎進んで米鬼に一撃を加へ、太平洋の防波堤となりてサイパン島に骨を埋めんとす。戦陣訓に曰く『生きて虜囚の辱を受けず』勇躍全力を尽して従容として悠久の大義に生きるを悦びとすべし。・・・続け・・・」
 7月6日3時、斎藤義次中将に命じられた3000人の将校もバンザイ突撃をして玉砕しました。
 7月7日、絶対国防圏であるマリアナ群島のサイパン島の日本守備隊3万人が玉砕しました。住民1万人が死亡しました。米空軍が制空権を掌握しまし、日本を爆撃するための基地を建設しました。
 7月9日、米遠征軍司令官のターナー中将は、サイパン島の占領を宣言しました。この結果、B29は航続距離が長く、サイパン島を基地にすれば日本本土空襲が可能となりました。
 7月9日、北部のマッピ岬に避難した多数の民間人は、断崖から海中に身を投じました。今ここはバンザイクリフ(Banzai Cliff)とかスーサイドクリフ(Suicide Cliff)として、観光の名所になっています。Suicide(スーサイド)とは自殺、Cliff(クリフ)とは断崖とか絶壁の意です。
10
サイパン島における日米軍の比較
  総兵力 10cm以上砲 速射砲 迫撃砲 戦車 戦死者 戦傷者
日本陸軍 28518    26    24    84    39 29244  
日本海軍 15164    25         10 15000  
米陸上部隊  71034    180    210    297    10   3441  11465
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
サイパン島玉砕と映画『大脱走』、捕虜の取り扱い
 1963年に制作されたアメリカ映画『大脱走』(THE GREAT ESCAPE)を見ました。監督はジョン=スタージェス、音楽はエルマー=バーンスタイン、出演はスティーブ=マックィーン(独房王・ヒルツ)・チャールズ=ブロンソン(トンネルキング・ダニー)・ジェームズ=コバーン(製造屋・セジウィック)など『荒野の七人』と同じキャストです。
 原作は、イギリス空軍パイロットで、ドイツ軍の捕虜となったポール=ブリックヒルの『大脱走』です。
 物語は、何度も脱走を試みた連合軍の将校が、絶対脱出が不可能といわれたドイツのサガン近郊にあった独軍第3捕虜収容所に一括管理されます。しかし、1944年、イギリス空軍のロジャー=ブッシェル少佐率いる250人が脱走するというものです。
 色々な人の話を聞いても、スティーブ=マックィーンの単車で逃げるシーンが格好いいとか、トンネルを掘る場面がハラハラドキドキするという感想です。
 私が一番興味を引いたのは、捕虜に対する考え方です。捕虜は、映画の中で「何度も脱出して、ドイツ軍を攪乱するという重要な任務がある」と語っています。実際に、ポール=ブリックヒルが脱出した時、ドイツ軍は7万人もの兵士を動員しています。まさにドイツ軍を攪乱したのです。
 しかし、この物語が成立するには、脱出する側の論理とした捕虜は恥ずかしくない、立派な任務を持っているということです。捕虜収容所の所員も、捕虜を人間として扱っているということです。
 他方、日本人はどうでしょうか。東条英機の『戦陣訓』には、「生きて虜囚の辱を受けず」という内容があります。つまり、捕虜になることを恥辱として、「捕虜になるくらいなら死ね」と教えているのです。太平洋戦争で捕虜になった日本人を調べたアメリカ人の記録では、「喋ってはいけない機密まで喋る日本人捕虜に驚いた」とあります。捕虜としての教育を受けていなかったのです。
 何故、捕虜としての教育が日本では不必要だったのでしょうか。日露戦争以来、日本軍の戦法は、精神主義的白兵主義とか銃剣突撃主義というのがあります。ここには、生きて帰るというという思想は邪悪です。「国と天皇のために殉じて靖国で会おう」という滅私奉公という敢闘精神が誕生したのです。
 この精神を貫徹するには、米英が自由で民主主義国家ではいけません。当然、鬼畜米英という教育・宣伝も必要です。
 この滅私奉公・人権無視という精神と、鬼畜米英という教育がサイパン島の玉砕とバンザイクリフを生んだのです。ニュース・フィルムで、日本婦人が次々と断崖絶壁から海に身を投じる場面がありました。強烈な印象が残っています。
 しかし、言論統制された日本の新聞は、サイパン島の悲劇を「愛国の精華、偉大な民族の血潮」と紹介し、このバンザイクリフの悲劇を「百、千倍の勇気湧く、光芒燦たり、史上に絶無」と書いたのです。
 清沢洌は1944年8月20日の日記に、この新聞社の記事を見て、「封建主義〜浪花節の影響〜飛行機時代に、ハラキリの絶賛」と書いています(『暗黒日記』)。冷静に状況を判断できる人がいたことにほっとします。
 1944年6月24日、東条英機は、サイパン島の放棄を天皇に上奏しました。東条英機は、ラジオを通じて国民に次のように訴えました。「昨今の中部太平洋の戦況は天の我々日本人に与へられた警示である。まだ本気にはならぬか、真剣にならぬか、未だか未だかという天の警示だと思ふ。今後日本人が更に真剣に頑張らない時はパチリパチリと更に天の警示があるだろう。日本人が最後の場面に押しつめられた場合に、何くそと驚異的な頑張りを出すことは私は信じて疑わない。然しそんな場面にならずに、今こそ日本人の真髄を発揮しなければならない」。
 これだけたくさんの人が玉砕しても足りないというのであろうか。

index