print home

エピソード

262_03

無条件降伏(台湾沖航空戦、レイテ沖海戦)
 ここでは、1944年12月のレイテ沖海戦までを扱います。
 日米開戦前の日本軍の作戦は、リューシャン列島(アッツ島・キスカ島)とミッドウエー島とニューギニア(ポートモレスビー)島を国防の最前線としていました。
 その後、ミッドウエー海戦の敗北で、カムチャッカ半島〜マリアナ諸島(サイパン・グアム)〜トラック諸島〜西部ニューギニア(ラバウル)〜蘭印〜ビルマを絶対国防圏としました。
 その後、マリアナ海戦の敗北でサイパン島を失うと、北海道・千島・樺太〜本土〜沖縄・台湾〜フィリピンを背水の陣とする捷号作戦立てました。捷一号はフィリピン作戦、捷二号は台湾・沖縄作戦、捷三号は本土、捷四号は北海道・千島・樺太作戦です。
 このように日本軍の作戦を見ていくと、まったく節操のない、場当たり主義的な対応に気がつきます。このような指導者に日本の運命を委ねると、今後どうなるのでしょうか。 
 1944(昭和19)年6月、マリアナ沖海戦で敗北した日本軍は、フィリピンを失うことは、南方資源の日本本土への輸送が途絶えることを意味します。そこで、フィリピン方面の防衛作戦として、捷一号作戦を考えました。
 他方、アメリカのマッカーサーは、マリアナ諸島を基点に、「I shall return」と約束したフィリピン奪回作戦を考えました。これをマスケティーア作戦といいます。
 7月13日、内大臣の木戸幸一は、東条英機首相に大臣と参謀総長・軍令部総長の分離嶋田繁太郎海相の更迭、重臣の入閣を指示しました。
 7月14日、東条英機首相は、参謀総長を辞任し、後任に後宮淳参謀次長を内奏しました。
 7月17日、東条英機首相は、陸軍部内の反対により、内奏を変更しました。
 7月17日、嶋田繁太郎海相の後任に野村直邦が就任しました。
 7月17日、米内光政らの重臣は、東条内閣への入閣を拒否しました。
 7月18日、梅津美治郎が参謀総長に就任しました。
 7月18日、東条英機内閣が総辞職しました。
 7月20日、ドイツ陸軍によるヒトラー暗殺計画が失敗し、シュタウフェンベルク大佐は射殺され、元参謀総長のベックは自殺しました。これを7.20事件といいます。
 7月21日、アメリカ軍は、グアム島に上陸しました。
 7月22日、@41小磯国昭内閣(海軍大将)が誕生しました。外相には重光葵、陸相には杉山元、海相には米内光政、軍需相には藤原銀次郎らが就任しました。
 7月24日、アメリカ軍は、テニヤンに上陸しました。
 8月3日、テニヤンの日本守備隊8000人が玉砕しました。
 8月4日、米・中の連合軍は、ビルマのミートキーナを占領しました。この時、日本の守備隊長以下1000人が戦死しました。
 8月4日、小磯内閣は、閣議で、国民総武装を決定し、竹槍訓練が始まりました。
 8月4日、学童集団疎開第1陣が上野駅を出発しました。
 8月5日、大本営政府連絡会議は、最高戦争指導会議と改称しました。
 8月10日、枢密院議長に鈴木貫太郎を任命しました。
 8月10日、グアム島の日本守備隊1万8000人が玉砕しました。
 8月10日、軍需省は、「サイパン島失陥後の物的国力崩壊」を認定しました。
 8月19日、最高戦争指導会議は「世界情勢判断」・「今後執るべき戦争指導大綱」を決定しました。
 8月21日、ダンバートン=オークス会議が開かれ、国際連合案を討議しました。
 8月23日、女子挺身勤労令が勅令で公布されました。
 8月23日、学徒勤労令が勅令により公布され、中学生以上全学生の工場配置が強行されました。
 8月25日、連合軍は、パリに入城し、ド=ゴールが凱旋しました。
 9月1日、国民学校学童にパン食のみとなりました。
 9月4日、最高戦争指導会議は、対ソ特派使節派遣の件を決定しました。
 9月9日、第3艦隊司令官のハルゼー大将率いる空母機動部隊の空母17隻は、ミンダナオ島を空襲しました。
 9月10日、雲南の拉孟の日本軍守備隊1400人が玉砕しました。
 9月11日、ルーズベルトチャーチルは、第2回ケベック会談を開き、対日独戦略を協議しました。
 9月14日、謄越の日本軍守備隊1500人が玉砕しました。
 9月15日、アメリカ軍は、パラオ群島のペリリュー島およびニューギニア西方のモロタイ島に上陸しました。2ヶ月抗戦して、ペリリュー島の日本軍守備隊は玉砕しました。これがペリリューの戦いです。
 9月16日、駐ソ大使の佐藤尚武は、モロトフ外相に特派使節のモスクワ派遣を提議しましたが、拒否されました。
 9月17日、アメリカ軍は、アンガウルに上陸しましたた。これをアンガウルの戦いといいます。
 9月22日、ハルゼー大将率いる空母機動部隊の空母17隻は、フィリピン各地を空襲しました。
 9月23日、最高戦争指導会議は、ソ連の中立維持・利用という対ソ施策に関する件を決定しました。
 10月9日、モスクワで、チャーチル・スターリンは、南東欧の英ソ勢力範囲を画定しました。
 10月10日、アメリカの機動部隊は、沖縄を空襲しました。
 10月11日、ソ連軍は、東プロシアでドイツ国境を突破しました。
 10月12日、ハルゼー大将率いる空母機動部隊の空母17隻は、フィリピン奪回の陽動作戦として台湾を空襲しました。日本軍の基地航空部隊は、アメリカ軍と台湾沖で航空戦を展開しました。大本営は、戦果がないにもかかわらず、大戦果と発表しました。
 この大戦果を信じた連合艦隊司令部は、基地航空部隊に対して、アメリカ軍空母機動部隊の攻撃を命じ、小沢治三郎中将率いる空母航空隊を基地航空部隊の指揮下に移して、沖縄に移動させました。また、第5艦隊の第2遊撃部隊長である志摩清英中将に対して、「損傷したはず」の残存アメリカ軍空母機動部隊を掃討するよう命じました。
 南方軍総司令官の寺内寿一元帥も、台湾沖航空戦でアメリカ空母機動部隊は全滅したと信じ、レイテ沖のアメリカ軍上陸部隊は敗残兵と断定しました。そこで、第14面方面軍司令官の山下奉文大将にルソン島からレイテ島へ部隊を輸送して撃滅せよと命じました。しかし、アメリカ機動部隊の健在を信じていた山下大将は、この命令を拒否しましたが、寺内元帥の命令に逆らえず、捷一号作戦のレイテ地上決戦が強行されました。
 10月16日、陸軍特別志願兵令改正が勅令により公布されました。その結果、17歳未満の者の志願を許可しました。
 10月17日、アメリカ軍は、レイテ湾のスルアン島に上陸しました。
 10月18日、陸軍省は、兵役法施行規則改正を公布し、17歳以上を兵役に編入しました。
 10月18日、大本営は、捷1号作戦の発動を命令しました。その内容は、空母部隊はなくなっているので、戦艦や巡洋艦の艦隊がアメリカ大艦隊が終結しているレイテ湾に艦隊ごと突込み、アメリカ艦隊と上陸軍を壊滅するという捨て身の作戦でした。
 10月18日、捷一号作戦によって、栗田健男中将率いる第1遊撃部隊の戦艦7隻は、リンガ泊地を出撃しました。
 10月19日、小沢治三郎中将率いる第3艦隊の空母瑞鶴・空母千歳・空母千代田・空母瑞鳳、戦艦伊勢・戦艦日向、軽巡洋艦多摩・軽巡洋艦五十鈴・軽巡洋艦大淀、駆逐艦8隻は、瀬戸内海を出撃しました。
 10月20日、アメリカ軍は、フィリピン中部のレイテ島に上陸しました。
 10月21日、第5艦隊司令長官の志摩清英中将率いる第2遊撃部隊の重巡洋艦那智・足柄、軽巡洋艦阿武隈、駆逐艦7隻は馬公を出撃して、ルソン島マニラに向かいました。
 10月22日、栗田健男中将率いる第1遊撃部隊の第1部隊(戦艦大和・武蔵・長門、重巡洋艦愛宕・高雄・鳥海・摩耶・妙高・羽黒、軽巡洋艦能代、駆逐艦9隻)・第2部隊(戦艦金剛・榛名、重巡洋艦熊野・鈴谷・利根・筑摩、軽巡洋艦矢矧、駆逐艦6隻)は、ブルネイを出撃し、シブヤン海へ向かいました。
 西村祥治中将率いる第1遊撃部隊の第3部隊(戦艦扶桑・山城、重巡洋艦最上、駆逐艦4隻)は、ブルネイを出撃し、スリガオ海峡へ向かいました。
 志摩清英中将率いる第2遊撃部隊は、補給のためパナイ島西岸コロン湾へ向かいました。
 10月23日1時16分、アメリカ海軍潜水艦ダーターは、レーダーで、パラワン水道を航行中の栗田艦隊を発見し、司令部に報告しました。
 10月23日6時32分、アメリカ海軍潜水艦ダーターは、重巡洋艦愛宕に魚雷6本、重巡洋艦高雄に魚雷4本を発射しました。愛宕は沈没し、高雄は大破しました。
 10月23日6時57分、米海軍潜水艦デースは重巡洋艦摩耶に魚雷4本を命中させ、沈没させました。栗田中将は、旗艦を戦艦大和に移して、レイテ湾に向かいました。
 10月24日未明、志摩艦隊は、コロン湾を出撃して、レイテ湾へ向かいました。
 10月24日8時、アメリカ軍第38任務部隊は、シブヤン海に差し掛かった栗田艦隊を発見しました。
 この頃の米軍の配置は次の通りです。
(1)ボーガン少将率いる第38任務部隊の第2群(空母イントレピッド・バンカーヒル・ハンコック・キャボット・インディペンデンス、戦艦2隻、軽巡洋艦4隻)はサンベルナルジノ海峡付近に配置されていました。
(2)シャーマン少将率いる第3群(空母エセックス・レキシントン・プリンストン・ラングレイ、戦艦4隻、軽巡洋艦4隻)はルソン島の東に配置されていました。
(3)デーヴィソン少将率いる第4群(空母フランクリン・エンタープライズ・ベローウッド・サンジャシント、重巡洋艦1隻、軽巡洋艦1隻)はレイテ島付近に配置されていました。
(4)マッケーン中将率いる第1群(空母ワスプ・ホーネット・モンテレイ・カウペンス、重巡洋艦3隻、軽巡洋艦1隻)はウルシー環礁で補給中でした。
 10月24日9時30分、基地航空隊の第2航空艦隊は、第38任務部隊の第3群の軽空母プリンストンに爆弾1発を命中させ、軽空母プリンストンは爆発炎上しました。
 10月24日10時26分、ハルゼー大将は、第2・3・4群を集結させて、栗田艦隊に対し攻撃を命令しました。第2群の空母イントレピッド・キャボットの第1次攻撃隊45機は、武蔵と妙高に魚雷1本を命中させました。妙高は戦線離脱しました。
 10月24日12時6分、空母イントレピッドの第2次攻撃隊31機は、武蔵に魚雷3本、爆弾2発を命中させました。
 10月24日13時30分、ミッチャー中将率いる第3群の空母レキシントン・エセックスの第3次攻撃隊44機は、武蔵に攻撃を集中し魚雷5本、爆弾4発を命中させました。また、大和にも爆弾1発を命中させました。
 10月24日14時30分、第4群の空母フランクリンの第4次攻撃隊32機は、大和に爆弾1発を命中させました。
 10月24日14時39分、栗田艦隊の被害報告を聞いた小沢中将は、松田千秋少将率いる第4航空戦隊の戦艦日向・伊勢を派遣して、アメリカの第38任務部隊と対峙させようとしました。
 10月24日14時59分、第2群・第4群の第5次攻撃隊67機は、武蔵に攻撃を集中し魚雷11本、爆弾10発を命中させました。また、長門に爆弾2発、利根に爆弾2発、駆逐艦清霜に爆弾1発を命中させました。
 10月24日夕、栗田艦隊はレイテ湾直前で反転して引き返しました。これを栗田艦隊の反転問題といいます。
 ハルゼー大将は、これを大被害の故の反転と判断して攻撃を中止し、新たに発見した小沢機動部隊を攻撃するため、第34任務部隊の3個群を北上させました。
 10月24日16時、ハルゼー大将は、自ら第34任務部隊の高速戦艦6隻を率いて先行しました。小沢中将は、アメリカ軍の偵察機に発見されたことに気がつきました。
 10月24日17時45分、栗田艦隊は、アメリカ軍の空襲がやんだので、再度反転しました。しかし、ハルゼー大将は、それを軽視したので、栗田艦隊は、サンベルナルジノ海峡を通り、レイテ湾に向かってサマール島西岸を南下しました。
 10月24日19時35分、戦艦武蔵は、魚雷20発を被弾して沈没しました。日本軍、連合艦隊の主力を失いました。これをレイテ沖海戦といいます。
 10月25日未明、栗田艦隊と西村艦隊は、同時に、レイテ湾に突入する予定でしたが、栗田艦隊が一時反転したので、西村祥治中将は、単独でレイテ湾に突入することを決断し、スリガオ海峡に接近しました。
 アメリカ第7艦隊司令長官のキンケイド中将は、西村艦隊の接近を察知し、オルデンドルフ少将率いる戦艦部隊(戦艦メリーランド・ミシシッピ・テネシー・ペンシルヴァニア・ウエスト=ヴァージニア・カリフォルニア、重巡洋艦ルイスビル・ポートランド・ミネアポリス・オーストラリア、軽巡洋艦デンバー・コロンビア・フェニックス・ボイス、駆逐艦26隻、魚雷艇39隻)を投入しました。オルデンドルフ少将は、西村艦隊をレイテ湾南方のスリガオ海峡で待ち伏せしました。
 10月25日0時30分、反転後、再びレイテ湾を目指していた栗田艦隊の戦艦4隻・重巡洋艦6隻・軽巡洋艦2隻・駆逐艦11隻は、サンベルナルジノ海峡を通過して、サマール島沖に向かいました。
 10月25日2時53分、西村艦隊は、オルデンドルフ少将率いる魚雷艇に襲撃され、戦艦扶桑は魚雷4本を受けて沈没、駆逐艦山雲も撃沈し、駆逐艦満潮・朝雲も航行不能、後に沈没しました。戦艦山城も魚雷1本を被弾しました。西村艦隊は、駆逐艦時雨を残して壊滅しました。西村中将も戦死し、レイテ湾への突入は失敗しました。
 10月25日3時、志摩艦隊は、西村艦隊より2時間遅れてスリガオ海峡に到着しました。この時、軽巡洋艦阿武隈は、被雷しました。
10  10月25日3時25分、志摩艦隊の旗艦である那智は、炎上停止した敵艦と誤認して衝突し、あわてて海峡外に退避しました。
 10月25日3時51分、オルデンドルフ少将率いる巡洋艦・戦艦は、西村艦隊の旗艦山城・重巡洋艦の最上も被弾し、後に戦艦山城は沈没しました。
 10月25日4時10分、オルデンドルフ少将は、日本軍の同士討ちの報告を聞いて砲撃を中止し、日本軍の救助作業に入りました。しかし、米軍の救助を拒否して自決する日本兵が多かったといいます。戦艦扶桑では、艦長ら1637人が戦死し。生存者はゼロだったといいます。最上も駆逐艦曙の魚雷で処分されました。
 10月25日6時48分、戦艦大和は、35キロ先のサマール島沖で上陸部隊支援を行っていたクリフトン・スプレイグ少将率いる第77任務部隊第4群第3集団の護衛空母群(護衛空母ホワイトプレーンズ・ファンショウベイ・ガンビアベイ・カリニンベイ・セントロー・キトカンベイ、駆逐艦3隻、護衛駆逐艦4隻)を発見しました。
 10月25日6時59分、栗田艦隊は、アメリカ軍の主力である正規空母中心の機動部隊と誤認して、攻撃を開始しました。栗田部隊は、護衛空母ガンビアベイ、駆逐艦ジョンストン・ホエール、護衛駆逐艦サミュエル・B・ロバーツを撃沈しました。
 他方、栗田艦隊の重巡洋艦鈴谷は沈没、鳥海は爆弾が1発命中し航行不能となり、筑摩も魚雷が1本命中して舵を損傷、航行不能に陥った。熊野は駆逐艦ジョンストンの雷撃により落伍しました。
11  10月25日7時12分、小沢中将は、囮作戦のため北上しました。
 10月25日8時15分、第1次攻撃隊180機は、空母千歳と駆逐艦秋月を沈没させ、軽巡洋艦多摩に魚雷1本を命中させて大破させました。空母瑞鶴も被雷しました。
 10月25日9時20分、キンケイド中将は、ハルゼー大将に対して、「高速戦艦と機動部隊の派遣」と「栗田艦隊の兵力」とを打電しました。しかし、ハルゼー大将は、キンケイド中将に対して、「第1群をすでに派遣している」「第34任務部隊は北方の小沢機動部隊を追跡中である」と返電しました。
 10月25日10時、第2次攻撃隊36機は、空母千代田を大破炎上させました。
 10月25日10時過ぎ、ハワイの太平洋艦隊長官ニミッツ大将は、「第34任務部隊はどこか。全世界は知らんと欲す」と打電し、これを知ったハルゼー大将は激怒したといいます。
 10月25日10時51分、小沢中将は、旗艦を軽巡洋艦大淀に移し、連合艦隊司令部と栗田中将宛てに、「大淀に移乗して作戦を続行中」と打電しました。
 10月25日11時15分、ハルゼー大将は、第34任務部隊と第38任務部隊の第2群を率いて、レイテ島沖に引き返しました。ミッチャー中将率いる第1・第3群に攻撃を続けさせました。その後、ハルゼー大将は、ニミッツ大将とキンケイド中将に対して、「レイテ沖に向けて急進中」と返電しました。
 10月25日11時20分、レイテ湾に向かっていた栗田中将率いる艦隊は、南西方面艦隊から、北100キロの地点にアメリカの機動部隊がいるという電文を受け取りました。
 10月25日12時26分、栗田艦隊は、反転して敵機動部隊を求めて北上しました。
12  10月25日13時、ミッチャー中将率いる第1・第3群の第3次攻撃隊200機は、空母瑞鶴・瑞鳳魚雷を命中させ、瑞鶴は沈没しました。
 10月25日15時27分、第4波の攻撃隊30機は、空母瑞鳳を沈没させました。
 10月25日16時、ハルゼー大将率いる第34任務部隊と第38任務部隊の第2群は、その後に反転し、撤退しつつある栗田艦隊を追ってサンベルナルジノ海峡へ急行しました。
 10月25日16時55分、デュボーズ少将率いる第38任務部隊の巡洋艦部隊は、航行不能になっていた千代田を撃沈しました。この結果、小沢機動部隊の空母4隻は、全て撃沈されました。
 10月25日17時、第5波と第6波の第4次攻撃隊150機は、伊勢を集中攻撃しました。
 10月25日19時15分、栗田艦隊の筑摩は自沈、鳥海は駆逐艦藤波の魚雷で処分されました。
 10月25日23時5分、米潜水艦ジャラオは、退避中の多摩に魚雷を発射し、多摩を沈没させました。
 10月25日、海軍神風特攻隊は、レイテ沖で初めてアメリカの軍艦に突入しました。
 10月25日、中国基地のB29の100機が北九州を空襲しました。
13  10月26日1時35分、野分は、第34任務部隊の砲撃を受けて沈没しました。
 10月26日夜明け、サンベルナルジノ海峡沖に集結したアメリカの第1群・第2群の偵察機は、栗田艦隊を発見しました。その結果、軽巡洋艦能代が沈没、藤波が撃沈、早霜が座礁しました。
 10月26日11時28分、阿武隈・不知火も撃沈しました。
 10月26日夕、五十鈴は、沖縄南東部の中城湾に帰港しました。
 10月26日深夜、日向・伊勢・大淀・霜月・若月・槇は、呉に帰港しました。
 10月28日21時30分、栗田艦隊は、ブルネイに帰港しました。
14  11月1日、サイパン島アスリート飛行場から飛び立ったB29は、東京上空を偵察しました。
 11月7日、アメリカ大統領選挙で、ルーズベルトは、デューイを破り、4選されました。
 11月10日、南京政府の汪兆銘主席が名古屋で亡くなりました。陳公博が主席代理に就任しました。
 11月24日、サイパン島アスリート飛行場から飛び立ったB29の70機が東京を初空襲しました。
 12月9日、大本営は、レイテ地上決戦方針を放棄しました。日本陸軍部隊は、輸送途中で輸送船が沈没させられたり、上陸してもアメリカ軍の近代的物量作戦により、戦死は9万人及びました。
 12月、1944年の航空機生産は2万8180機に達しました。1943年は1万6693機、1945年は1万1066機でした。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
マッカーサーとフィリピン、台湾沖航空戦の大戦果、栗田艦隊の反転問題
 日本軍からフィリピンのコレヒドール島から追放されたマッカーサーが「I Shall Return」と言って、マスケティーア作戦、つまりフィリピン奪回作戦に異常な執念を燃やした理由として、軍人のプライドを挙げる人がいます。確かにそれも理由ですが、他にも理由がありました。
 マッカーサーの父もフィリピンの利権を深く関与しており、マッカーサー自信も、フィリピンの財閥と強い縁故を持っておりました。
 フィリピンの庶民は、それを知っていて、尚且つ、日本の支配より、マッカーサーの支配を選択したということになります。私たちは、マッカーサーの手法、アメリカ資本の方法を学ぶ必要があります。
 1944年10月10日、マッカーサーは、レイテ上陸作戦に先立って、台湾・沖縄からの日本軍の反撃を封ずるために、台湾沖のアメリカ空母機動部隊延べ1300機は、沖縄県那覇市を空襲し、1万戸が被災しました。台湾沖には、ハルゼー大将率いる第38任務部隊は、正規空母9隻、軽空母8隻、戦艦6隻、巡洋艦14隻、駆逐艦58隻、護衛空母11隻、給油艦3隻という陣容を誇っていました。
 そのため、各部隊より優秀な搭乗員を選出して、台湾沖のアメリカ空母機動部隊を復讐攻撃しました。
 10月12日、鹿児島・沖縄から99機が出撃しました。54機を失いました。
 10月13日、鹿児島・から28機が出撃しました。18機を失いました。
 10月14日、鹿児島・沖縄から340機が出撃しました。
 10月15日、フィリピンのルソン島から177機が出撃しました。
 10月16日、鹿児島・台湾・ルソン島から165機が出撃しました。
 10月19日、大本営は、搭乗員の報告をそのまま事実として、次のような発表を行い、昭和天皇も「おほめの勅語」を出しました。小磯国昭首相は、祝賀会場で「勝利は今やわが頭上にあり」と絶叫したといいます。
 「大本営発表
 我が部隊は10月12日以降、連日、台湾及びルソン東方海面の新機動部隊を猛攻し、その過半の兵力を壊滅して、これを遁走せしめたり
 我が方の収めたる戦果綜合次の如し
 轟撃沈 航空母艦11隻、戦艦2隻、巡洋艦3隻、巡洋艦もしくは駆逐艦1隻
 撃破 航空母艦8隻、戦艦2隻、巡洋艦4隻、巡洋艦もしくは駆逐艦1隻、艦種不詳13隻
 撃墜 112機
 我が方の損害
 飛行機未帰還312機」
 しかし、よく調べてみると、アメリカ軍の空母は全体で17隻しかありません。大本営発表では、19隻になります。戦艦6隻は無傷だし、重巡洋艦ヒューストン1隻のみが航行不能の損害だということが判明しました。逆に日本の飛行機は312機が帰還せず、300機が飛行不能で、残り197機が空襲部隊の虎の子となりました。
 連合艦隊は、日露戦争の日本海海戦以来の大勝利と浮かれて、残敵の追撃戦を指示しました。無傷のアメリカ空母によって返り討ちに会いました。
 この事実を知った日本海軍は、「大戦果の誤り」を国民に隠し、日本陸軍にも知らせませんでした。海軍の情報参謀の実松譲中佐は、「戦果は誇大であった」と報告すると、別の参謀は、軍刀を突きつけられて、「この非国民め、ぶった切る」と脅されたということです。
 この大戦果の誤報による残敵の追撃が、さらなるレイテ沖海戦の悲劇に発展します。
 レイテ沖海戦で、不可思議なことが起こりました。空母を持たない日本連合艦隊は、艦隊ごとレイテ湾に突っ込み、アメリカ大艦隊と心中しようという作戦です。
 レイテ湾直前で、戦艦大和・武蔵・長門を率いていた栗田艦隊が反転して、遁走したのです。太平洋戦争後、これを「栗田の誤判断」とか「勝負度胸の欠如」・「病気」など様々に論議されましたが、栗田健男中将自身は一切の弁明もしていません。
 もし、栗田艦隊がレイテ湾に突入しておれば、史上最大の艦隊決戦となったことでしょう。

index