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エピソード

262_04

無条件降伏(米軍のマニラ占領、ヤルタ協定、東京大空襲、沖縄戦)
 私が太平洋戦争の中で、特に気になることがあります。フィリピンのことです。1571年からスペインの植民地でした。1898年の米西戦争によってアメリカの植民地になります。
 しかし、アギナルドの独立戦争を経験したアメリカは、1907年にフィリピン議会を開設し、フィリピン人エリート層を支配機構に組み込むことに成功しました。
 さらに、英語による公教育制度を山岳地帯にまで整備し、生活や考え方までもアメリカナイズ化しました。宗教では全人口の93%がキリスト教徒です。
 経済の分野でも、モノカルチャー(単一栽培)化をすすめて、アメリカへの依存度を高めました。1940年頃の統計では、アメリカへの輸出依存度は78%、アメリカからの輸入依存度は67%です。日本などへの輸出依存度は9%、日本などからの輸入依存度は18%です。
 こうした政策を新植民地主義といいます。スペイン時代に比べて格段に「豊かな生活を享受させられていた」フィリピン人です。反日武装ゲリラのフクバラハップでさえ、アメリカとの協調路線です。
 政治・文化・経済面でドップリとアメリカに漬かったフィリピン人が、日本人の体質と会うのでしょうか。
 現在の日本人は、政治・文化・経済面でドップリとアメリカに漬かっています。そして、日常的に空気のように同化しています。どの国が来ても、植民地化は出来ないでしょう。
 1935(昭和10)年、フィリピンでは、「1946年に完全独立する」という前提で、アメリカの主権下にフィリピン自治政府が成立しました。フィリピンの中で、アメリカ的教育を受けた政治経済エリートは、地主層を構成し、植民地議会政治を営み、大統領ケソンのナショナリスタ党に結集していました。
 1941(昭和16)年6月、日本政府は対南方施策要綱を決定しました。その内容は以下の通りです。
(1)大東亜共栄圏の建設は、帝国の自存自衛にある
(2)日本自身が英米蘭経済圏に国防資源を依存している現状を打開するため排他的経済圏を軍事力によって確保する
(3)この目的に沿って、オランダ領・英領植民地で、石油・ゴム・錫をなど重要資源を獲得する
 11月20日、日本政府は南方占領地行政実施要領を決定しました。その内容は、以下の通りです。
(1)現地に残存する統治機構を極力利用する
(2)従来の組織や民族的慣行・宗教等を保護・尊重する
(3)国防資源取得と占領軍の現地自活のためには民生への圧迫をある程度やむなしとする
 12月22日、日本軍は、リンガエン湾に上陸しました。 
 1942(昭和17)年1月2日、アメリカ軍は、マニラ非武装都市宣言を出して、バターンに退却したので日本軍は、マニラに無血入城しました。フィリピン大統領のケソンは、米国側の説得を受け入れ、マッカーサーとともにコレヒドール要塞に逃れました。
 1月3日、軍政を布いた日本軍は、軍政宣布を発布しました。その内容は、以下の通りです。
(1)日本軍の進駐は、比島民衆を米国支配から解放し、大東亜共栄圏の一員として、比島人の比島を建設するためである
(2)従来の法律行政制度と司法制度は軍政に支障のない限り存続させる
(3)治安を乱す行動はすべて敵対行動と認め、最も峻烈に処断し、重いものは死刑に処する
 2月6日、フィリピン共産党は、日本帝国主義・ファシスト侵略者に対して、人民軍をもって闘うことを決定しました。
 3月11日、アメリカ極東軍総司令官のマッカーサーは「I shall return」と呼びかけて、コレヒドール島から脱出しました。フィリピン大統領のケソンは、オーストラリアに脱出し、その後、米国に亡命しました。
 3月29日、フィリピンに、反日人民軍フクバラハップが創設されました。創立宣言では、極東米軍との協調的活動を採用し、貧農で組織された農民軍は、ゲリラ戦で日本軍と戦いました。
 4月9日、日本軍はバターンを攻略し、アメリカ防衛軍司令官のキング少将が降伏しました。この時、捕虜のアメリカ兵1万2000人・フィリピン兵6万4000人の計7万6000人を、飢えとマラリアに犯された状態で、バターンからオドンネル基地まで88キロメも歩行移動させました。収容された捕虜は5万4000人といわれ、行進で死んだ数は2万2000人とも言われています。これがバターン死の行進です。
 5月7日、日本軍は、コレヒドール島を占領しました。
 1943(昭和18)年5月31日、日本政府は、大東亜政略指導要綱を決定し、フィリピンには日本軍占領下での独立させることになりました。フィリピンには非常に気を使っていることが分かります。「対米作戦ニ伴フ比島処理方策案」によると、「比島作戦ハ比島ニ於ケル米軍ノ根拠地覆滅ヲ主トシ、比島ノ物資獲得ヲ重視セス」とあります。つまり、フィリピンは物資獲得のためでなく、対米政策・戦略上で重視していることがわかります。
 10月、日本軍は、フィリピン共和国の成立を認め、日本総領事館の顧問弁護士だったラウレルが大統領に就任しました。アメリカ的教育を受けたエリートは、対日協力政府を構成していましたが、経済的には対米依存から脱却できず、同時にUSAFFE系抗日ゲリラ(米比軍ゲリラ)の指導者でもありました。例えば、パナイ島のUSAFFE系抗日ゲリラを率いていたのは、パナイ島イロイロ州の前知事であったトーマス=コンフェソールでした。
 そこで、日本軍は、積極的対日協力勢力であるラモス率いるガナップ党を利用することにしました。
 11月、東京で大東亜会議が開催され、大統領のラウレルが出席しました。
 1944(昭和19)年7月25日、大本営は、「国力の戦力の徹底的重点(7〜8割)を構成して、主敵米の進攻に対し決戦的努力を傾倒し、一部(2〜3割)をもって長期戦的努力を行なう」という戦争指導方針を決定して、捷一号〜捷四号という作戦計画が立てられました。
(1)捷一号作戦は、フィリピンを主目標として、陸上決戦場はルソン島に限定して、その他の島へのアメリカ軍の来攻に対しては、陸海航空兵力と海軍艦艇による決戦を行なうというものです。
(2)捷一号作戦に基いて、陸軍は第14方面軍・第35軍を編成しました。海軍は、第1遊撃部隊・第2遊撃部隊・機動部隊本隊・第1航空艦隊を編成しました。
 9月9日、アメリカ軍は、ミンダナオ島に上陸しました。
 9月12日、アメリカ軍は、レイテ島を空襲しました。日本軍参謀本部は、ルソン島決戦からレイテ島決戦に作戦を変更しました。海軍の主力戦艦である大和・武蔵をもつ第1遊撃部隊第2艦隊(栗田健男中将率いる艦隊)を中心とする連合艦隊はレイテ湾に進撃しました。機動部隊(小沢治三郎中将率いる部隊)は、おとりとなってアメリカ軍を引きつけ、栗田艦隊のレイテ湾突入を容易にするための陽動作戦としてルソン島北部に向かいました。
 10月10日、アメリカ軍は、沖縄を空襲しました。
 10月12日、台湾沖で、日米の航空戦がありました。これを台湾沖海戦といいます。
 10月20日、アメリカ軍は、レイテ島に上陸しました。神風特攻隊24人が組織されました。レイテ沖海戦では、アメリカ軍の被害は沈没6隻に対して、日本軍は戦艦武蔵など30隻を失いました。
 12月15日、アメリカ軍は、ミンドロ島に上陸しました。第14方面軍司令官の山下奉文大将は、レイテ決戦を諦め、ルソン島での決戦に変更しました。しかし、ルソン島から多くの兵力・軍需品をレイテ島に輸送した後では、膨大なアメリカ軍と決戦というのは口実に過ぎず、本土決戦のための時間稼ぎの作戦でした。時間稼ぎと言っても、任務はアメリカ軍との長期持久戦ということになります。
 ルソン部隊28万7000人を3つの集団に分けて配置しました。
(1)ルソン北部のバギオを中心にした拠点を尚武集団は、山下奉文大将が指揮して、兵力は15万2000人でした。
(2)マニラを含む中万部を守備する振武集団は、横山静雄中将が指揮して、兵力は10万5000人でした。
(3)クラーク飛行場群西方でアメリカ上陸軍のマニラ侵入を阻止する建武集団は、塚田理喜智中将が指揮して、兵力は3万人でした。
 12月18日、大本営陸軍部は、「決戦思想ヨリ持久思想ヘ転換ス」という指示を出しました。
 12月19日、第14方面司令官の山下奉文大将は、第35軍司令官の鈴木良作中将に対して、「第35軍司令官は、自今、中南部比島において永久に抗戦を継続し、国軍将来における反抗の支とうたるべし」というレイテ作戦終了ではあるが、交戦継続という文章を通告しました。
 12月、日本軍は、アメリカ軍のマニラ接近の対応策として、マカピリ(フィリピン愛国同志会)を創設し、彼らに義勇軍としての役割を負わせました。戦後、彼らは、同胞から売国奴という扱いを受けました。
 1945(昭和20)年1月9日、アメリカの第6軍19万人は、空母12などの大艦隊でルソン島のリンガエン湾に上陸しました。
 1月18日、最高戦争指導会議は、本土決戦即応態勢確立などの「今後採るべき戦争指導大綱」を決定しました。
 1月23日、アメリカ軍は、第23師団の西山福太郎中将率いる沿岸守備隊を分断しました。第58旅団の佐藤文蔵少将率いる部隊と戦車第2師団の重見伊三雄少将率いる中核旅団の九七式中戦車は、アメリカ軍のM4戦車と激突し、多数の戦車を失いました。
 1月下旬、アメリカ軍は、建武集団を突破しました。この頃「市民は双手を挙げてこれ(米軍)を歓迎し、我が(日本の)戦闘行動を阻害し、ゲリラ化せる一般市民にして、攻撃前に内通」という日本軍には不利な状態になっていました。
 1月末、山下奉文大将は、マッカーサーがしたように、マニラ非武装都市宣言を出したかったが、大本営は認めなかったので、マニラを戦場とせず市中から軍の退去を命じ、マニラ北方のプログ山に移動しました。
 しかし、岩淵三次海軍少将指揮下のマニラ海軍防衛隊1万人と野口勝三大佐率いる野口支隊4000人は、山下奉文大将の退去命令に従いませんでした。勇士相次イデ弊レ残ルハ軍属及弱者ノミニシテ今次大戦ニ再起奉公ノ望ミナキ者 尤モ有為ノ士相当アルモコレ無ケレバ戦ハ出来ズ此処ニ最後ノ御奉公然ルベキナリ
単ナル玉砕ハ小官モ持ラザル所ナルモ一ツデモ多ク敵ノ首ヲ取ラシテヤリ度ク 小官此処ニテ一同ノ最期ヲ見届ケ度御蔭ニテ得難キ数々ノ体験ヲ得感謝ニ堪エズ
 これに対し、上部機関からは「貴隊の壮烈勇敢なる戦闘は燦として青史に輝けり、崇高な御心事拝察して余りあり」とか「全将兵、貴隊の奮戦振りを範として敵必滅に邁進す」という電報が返ってくる。自分の上部機関である横山静雄中将の「指揮官たるものが最前線で指揮をとるべきでない」という命令で、郊外に出ました。市内の1万4000人の兵士もマニラ撤退の命令を期待しました。しかし、岩淵少将は、「単ナル玉砕ハ小官モ持タザル所ナルモ一ツデモ多ク敵ノ首ヲ取ラシテヤリ度ク小官此処ニテ一同ノ最期ヲ見届ケ度」(単なる玉砕を遂げようとは思わない。敵の首を1つでも多く取らして皆の最後を見届けたい)と考え、マニラ市内に戻ってきました。
 2月3日、アメリカ軍は、首都マニラに進入しました。
 2月4日、ルーズベルトチャーチルスターリンは、ヤルタ会談を開き、対独戦後処理を決定しました。秘密協定で、ドイツ降伏後3ヵ月後、ソ連の対日参戦が決定しました。対日参戦を条件に千島譲渡・南樺太返還が約束されました。これをヤルタ協定といいます。その内容は、以下の通りです。
(1)三大国の指揮者は「ドイツ」国か降伏し且「ヨーロッパ」に於ける戦争か終結したる後二月又は三月を経て「ソヴィエト」連邦が・・・連合国に与して日本に対する戦争に参加すへきことを協定せり
 *解説(ドイツが降伏して2ケ月または3ケ月してソ連邦は、連合軍に参加して対日戦争に参加する→日ソ中立条約を無視して、対日参戦が約束されました)
(2)1904年の日本国の背信的攻撃に依り侵害せられたる『ロシア』国の旧権利は回復せらるへし
 @樺太南部及之に隣接する一切の島嶼は『ソヴィエト』連邦に返還せら るへし
 A大連商港に於ける・・・優先的利益は之を擁護し・・・旅順口の租借権回復せらるへし
(3)千島列島は「ソヴィエト」連邦に引渡さるへし
 *解説(1904年の日露戦争で侵害されたソ連の権利は回復する。樺太南部・樺太に接する島嶼は返還、大連・旅順口は回復。千島列島は引き渡す→北方領土問題の原点は、ここにあります)
 2月16日、アメリカの機動部隊は、艦載機1200機をもって関東各地を攻撃しました。
 2月19日、アメリカ軍は、硫黄島に上陸しました。日本軍守備隊2万3000人が玉砕しました。
 2月26日、激しいマニラ市街戦により、マニラ海軍防衛隊や野口支隊の多数が戦死しました。岩淵少将は自決しました。マニラには日本の会社員もいました。多数のフィリピン人もいました。この市街戦で犠牲になったマニラ市民は9万人ともいわれています。マニラ市内の国会議事堂・市役所・中央郵便局なども破壊され、マニラは廃墟の町となりました。
 3月3日、マニラ市街戦は終わりました。
 3月6日、国民勤労動員令が勅令により公布されました。その結果、国民徴用令・国民勤労協力令・女子挺身勤労令・労務調整令・学校卒業者使用制限令の5勅令を廃止・統合しました。女子挺身隊も国民義勇隊に再編成されました。
 3月9日、300機のB29は、2時間半におよぶ夜間焼夷弾爆撃を行いました。これを東京大空襲といいます。江東地区23万戸焼失し、死傷者は12万人、東京の4割が炎上しました。
 3月10日、空襲により、明治座・浅草国際劇場などが焼失しました。
 3月13日、空襲により、中座・角座・文楽座が焼失しました。
 3月14日、B29は、大阪を空襲し、13万戸が焼失しました。
 3月16日、繆斌工作がありました。
 3月16日、首相の小磯国昭は、昭和天皇の特旨により大本営に参列しました。
 3月17日、硫黄島の日本守備隊2万3000人が全滅しました。
 3月28日、アメリカの機動部隊は、艦載機1200機をもって九州各地を攻撃しました。
 3月、連行朝鮮人労働者は、全国炭鉱労働者数の33%を占めました。1939年から1945年までの連行朝鮮人72万5000人、うち逃亡数は22万人でした。
 4月1日、アメリカ軍は、沖縄本島に上陸しました。
 4月4日、ソ連軍は、ハンガリー全土を解放しました。
 4月5日、繆斌工作が失敗に終わり、小磯国昭内閣が総辞職しました。
 4月5日、ソ連外相のモロトフは、駐ソ大使の佐藤尚武に、日ソ中立条約不延長を通告しました。
 4月7日、@42鈴木貫太郎内閣が誕生しました。外相は鈴木貫太郎が兼任、陸相は阿南惟幾、海相は米内光政、軍需相・運輸通信相は豊田貞次郎らが就任しました。
 4月12日、アメリカ大統領のルーズベルト(63歳)が亡くなり、副大統領のトルーマンが昇格しました。
 4月13日、ソ連軍は、ウィーンを占領しました。
 4月22日、ソ連の戦車隊は、ベルリン市街に突入しました。
 4月25日、米ソ両軍は、エルベ河畔のトルゴウで邂逅しました。これをエルベの誓いといいます。
 4月28日、コモ湖畔で民衆義勇軍に逮捕されたムソリーニ(61歳)が処刑されました。
 4月30日、ヒトラー(56歳)は、ベルリンの地下壕で自殺しました。
 5月2日、イギリス軍は、ラングーンを占領しました。
 5月7日、ドイツ軍は、連合国に無条件降伏をしました。
 5月8日、トルーマン大統領は、日本に無条件降伏を勧告しました。
 5月9日、鈴木内閣は、ドイツの降伏にかかわらず日本の戦争遂行決意は不変と声明しました。
 5月14日、最高戦争指導会議は、対ソ交渉方針を決定し、終戦工作を開始しました。
 5月24日、B29の空襲で、宮城が全焼したり、東京都区内の大半が焼失しました。
 5月25日、空襲で、歌舞伎座・新橋演舞場などが焼失し、映画館も合計513館炎上しました。
 6月1日、アメリカのスティムソン委員会は、トルーマン大統領に対して、全会一致で日本への原爆投下を勧告しました。
 6月6日、天皇臨席の最高戦争指導会議は、「今後採るべき戦争指導の基本大綱」「本土決戦方針」を決定しました。
 6月13日、大政翼賛会および傘下諸団体は解散し、国民義勇戦闘隊を結成しました。
 6月18日、沖縄島南端の前線で負傷兵看護に従事の師範女子部・第一高女の生徒49人が集団戦死しました。これをひめゆり部隊といいます。
 6月23日、沖縄の日本守備軍9万人が戦死し、一般国民の死者は10万人に達しました。
 6月23日、師範女子部・第一高女の生徒多数が自害しました。これをひめゆり部隊といいます。
 6月23日、義勇兵役法を公布し、15〜60歳以下の男子・17〜40歳以下の女子を国民義勇戦闘隊に編成しました。
 6月30日、秋田県花岡鉱山で、強制労働中の連行中国人850人が蜂起し、収容所を脱走ました。そして、出動した軍隊と数日間戦闘し、中国人420人が虐殺されました。これが花岡鉱山事件です。
 戦時中に連行された中国人は3万8939人で、うち死亡が6872人と記録されています。
 6月下旬、マリアナ基地のB29・沖縄基地のB24・硫黄島のP51は、中小都市の焼夷弾攻撃・交通破壊攻撃を激化させました。
 8月15日、日本政府は無条件降伏し、山下奉文大将らは、降伏してプログ山から下山しました。
戦後、山下奉文大将は、東京裁判でマニラ大虐殺の責任を問われ、死刑判決を受けました。
 ルソン島の決戦による日本軍のルソン部隊28万7000人のうち、戦死者は21万8200人で、損耗率は76%でした。フィリピン全土の日本軍戦死者は49万人に達しました。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
フィリピン支配の失敗
 マニラ市街戦の時、マニラ市内の指揮官である岩淵三次少将は、「部下に手柄を立てさせて最後を見届けたい」という功名心で、市内に引き返し、日本軍の将兵や日本の民間人多数を道連れに玉砕しました。同時にフィリピン9万人も殺害しました。
 この事実を知ると、普通の人は、「一将功なって万骨枯る」という諺を思い出すでしょう。
 しかし、岩淵少将の話を聞いた大本営幹部は、「貴隊の壮烈勇敢なる戦闘は燦として青史に輝けり、崇高な御心事拝察して余りあり」・「全将兵、貴隊の奮戦振りを範として敵必滅に邁進す」という感想が寄せられたといいます。
 当時の日本軍の指導層と、現在の日本人の間には、人権感覚に相当の差があるようです。
 フィリピン人歴史学者のコンスタンティーノは、「フィリピン人がほぼこぞって日本人に示した敵意と、アメリカ人に示した深い忠誠心とは、他の被侵略諸国でおこった反応とはまったく一致しない。なぜなら、自分を西欧植民地主義者と一体化してみようとはしなかった他のアジア諸民族とはちがって、フィリピン人はアメリカの巧妙な支配技術にすでに屈服していたからである」。これらの指摘は、日本の「大東亜共栄圏」や「八紘一宇」というスローガンがフィリピンに与える影響力が弱かったことを意味する。さらに、日本軍や日本人移民が根強い敵対心にさらされたことを示唆している。
 実際、日本軍政下のフィリピンでは、多くの抗日ゲリラが組織された。その数は一三〇〇団体という説(アメリカ軍情報)や、一〇〇団体、
二七万人という説がある。これらのうちの多くが、マッカーサー率いるアメリカ軍と統合されていたフィリピン軍の将校たちが地下に潜伏した後に組織されたものであり、彼らの重要な役割は、オーストラリアに撤退したアメリカ軍に情報を提供することであった。例えば、マッカーサーはゲリラ組織のリーダー、ペラルタ宛てに次のような電信指令を送っている。
 ここに『踏みにじられた南の島』という本があります。以下(3〜6)その本の内容を紹介します。
 日本は、大東亜共栄圏と八絋一宇という価値観(日本が家長であり、アジアは家長に従属する兄弟)をフィリピン人に宣伝しました。
 比島派遣軍遷都制作の映画『東洋の凱歌』のナレーションでは「フィリピンを手に入れたアメリカは、その国が持つ資源の豊かさをもって、美しい道路を与え、自動車を与え、ジャズを与え、映画を与え、贅沢な享楽主義を与えて、東洋への愛情を忘れさせ、フィリピン人の魂を奪ってしまった。・・・フィリピン人の腑甲斐なさなさを見る時、我々の胸には悲しみと怒りが湧き上がってくるのを覚える。アメリカの侵略を一日も早く追い払い、東洋民族の誇りと喜びを呼び返すことこそ、現在の日本に与えられた大きな使命のひとつである」と語りかけます。
 しかし、現実に宣伝は困難を極め、「未ダ大東亜共栄圏ノ理念ヲ理解セザル一般民衆ヲシテ、多年米国民主主義ノ支配下ニ培ワレタル風俗習慣ヨリ脱穀セシメテ、東亜民族本然ノ姿ニ帰ラシムルハ容易ナラザルモノアリ」と本音を吐露しています。続いて、フィリピン人の「通俗的習性」として、「怠惰ニシテ労働ヲ蔑視ス」「個人主義的ニシテ愛国心ナシ」などと書いています。
 アメリカ的価値観を日本的価値観に変更することの困難さを、フィリピン人の性にしてる様が伺え、とても面白い史料です。
 アメリカは、世界を家族に見立てて、「フィリピンのためのフィリピン」をフィリピン人に宣伝しました。
 アメリカの映画『フィリピン-運命は自由世界への道を指し示す−』(1942年)では、日本の映画と対比する形で、展開させています。
 学校を映し出し、ナレーションは「アメリカは船で何千人もの教師をフィリピンに送り込んだ。学校が建てられた。東洋人の子供たちは西洋的世界観を教えられ、古い世界と新しい世界の懸け橋となった」と語りかけます。
 フィリピン議会を映し出し、「過去5年間、独立のための訓練がほどこされてきた。自由な政府と公正な選挙の原則、脅迫や収賄のない平等な裁判のための訓練である」と続けます。
 最後に、リンカーン大統領やルーズベルト大統領が映し出し、「フィリピンのためのフィリピン」・「自由
世界」という字幕を協調し、ナレーションは「日本占領下の暗黒の時代にも、やがて、フィリピンの自由は回復され、独立国となるだろう。アメリカは全力をあげてこの約束を守る。我々がフィリピンに約束した新秩序ほ、収奪ではなく、協力を基調とするものである」と締めくくります。 
 フィリピンの歴史家であるコンスタンティーノ氏は「アメリカ式の公立学校制度を導入することによって、フィリピンは良き植民地住民として育てられました。つまり、アメリカ的な価値観をもつ『小さい茶色いアメリカ人』になつていったのです。西洋の植民地と化したアジアの国フィリピンは、皮肉なことに、白人支配からの解放を掲げた同じアジアの国日本の植民地支配には抵抗したのです」と指摘します。
 アジア人や欧米人を蔑視する日本人には、フィリピン人の考えは理解でしませんでした。そこで、独立を与えつつ、他方では厳罰による武断政治を実行したのです。
 1942年1月3日に「もし諸君が日本軍の意図を理解せず、日本の敵を助けた場合には、日本軍に対する敵対行為として諸君を厳重に処罰するものである」というポスターを貼りました。同じ日に、「治安維持ニ関スル件」という警告を出しましした。その内容は、以下の通りです。
(1)日本軍人若クハ日本人ニ対シ危害ヲ加エ、若クハ加エント企テタル者ハ、射殺スべシ
 *解説(日本軍人または日本人に危害を加えたり、加えようとした者は射殺する→射殺で脅さなければならないほどの治安状態の悪さを証明しています)
(2)加害者若クハ加害ヲ企テタル者ガ発見サレ得ザル場合ハ、事件発生ノ街道或ハ村及ビソノ近隈ニ住ム有力者十名ヲ人質トシテ保留スべシ
 *解説(加害者または加害を企てた者が発見できない場合は、事件が発生した街道または村および近隣に住む有力を10人を人質として留置する→日本の5人組制度を適用するなど封建的圧制を行っています。これでは、フィリピンの民衆は面従腹背でしょう)
 『踏みにじられた南の島』は、NHK取材班のシリーズド「キュメント太平洋戦争」に入っています。

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