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エピソード

262_05

硫黄島の戦い
 最近、クリント=イーストウッド監督の映画『硫黄島からの手紙』と『父親たちの星条旗』が話題になっています。私もそういう点では、ミーハー的で、改めて硫黄島の戦いに注視しました。
 私は、日本が死守すべき絶対国防圏の基点をサイパン島ととらえていました。
 サイパン島が陥落すると、空の要塞と言われるB29は、サイパン島から出撃して、日本を空襲して、再びサイパン島に帰着できるのです。この段階で、日本の敗北は決定し、指導者は降伏を決意するというものでした。
 その結果、硫黄島の戦いの歴史的意義を見落としていました。改めて、検証してみたいと思います。
 どうして、B29が出帰する基地であるサイパン島が陥落すると、日本は敗北するのでしょうか。
 日本の主力戦闘機に零戦があります。零戦は、当時世界水準と言われた「九六式艦上戦闘機」を色々な面で上回る世界最高の水準戦闘機として作られました。
  高度4000
bの時速
航続距離 出 力 7.7ミ
リ機銃
爆弾最大 200ミ
リ機銃
全備重量 5000bまで
の上昇時間
世界一の優秀性
を追求した結果、
重量が重くなり、
その分上昇時間
に問題が発生
九六式 426キロ 1200キロ 610馬力 2挺 なし なし 1608s 6分50秒
零戦 509キロ 3400キロ 780馬力 2挺 120キロ 2挺 2343s 7分15秒
 アメリカは零戦を上回り戦闘機の開発に懸命でした。その結果、グラマン社はF6Fヘルキャット、ボーイング社はB29スーパーフォートレスの開発に成功しました。
  高度4000
bの時速
航続距離 出 力 12.7ミ
リ機銃
爆弾最大 全備重量 実用上
昇限度
B29は零戦を全ての
面で圧倒しています。
まさに空の要塞です。
F6F 621キロ 1670キロ 2100馬力 6挺 900キロ 4190s 11370b
B29 600キロ 9350キロ 2200馬力×4 10挺 9000キロ 49896s 11050b
 零戦の性能とB29の性能を比較して、「これはアカン」と思うのが常識です。
 高度1万メートルでの戦いを得意とするB29を撃墜するには、高度5000メートルを得意とする零戦は、爆弾を投下するために高度を下げてきたB29に向かうしか方法はありません。しかし、日本には、B29の航路を察知する偵察網もなければ、レーダーもありませんでした。
 1941(昭和16)年12月、日本軍は、海軍1200人、陸軍3700人を父島に配備し、硫黄島を管轄下に置きました。
硫黄島は、東京とサイパン島の中間にありました。全長8キロ、最長幅4キロ、面積21平方キロの硫黄が噴出す小島です。島の南部には標高169メートルの摺鉢山がありました。土壌は火山灰で形成されており、島民1000人は硫黄の採掘やサトウキビ栽培を行い、雨水が貴重な生活用水でした。
 海軍は、摺鉢山の北東に飛行場を作り、航空兵1500人と航空機20機を配置しました。
 1944(昭和19)年2月、空の要塞といわれるB29を開発したアメリカは、マーシャル諸島に進出しました。それに対抗して、日本の大本営は、カロリン諸島〜マリアナ諸島〜小笠原諸島を結ぶ線を絶対国防圏とすることを決定しました。
 2月23日、南東方面部隊指揮官は、第8方面軍と協議して、ニューブリテン島中部を放棄して兵力をラバウル方面に集中することを発令しました。その結果、将兵は、広大な地下要塞に食料の保存しました。米軍が攻略をあきらめたので、6万人の将兵のほとんどは、終戦後に、帰国しています。
 2月25日、新たに編成した陸軍の第31軍は、司令部をサイパン島に置き、連合艦隊司令長官の指揮下に入りました。第31軍の司令官には小畑英良中将が任命されました。
 4月、硫黄島には増援部隊が派遣され、総勢5000人になりました。
 6月8日、栗林忠道中将は、硫黄島に着任しました。
 ここで栗林忠道中将の話をまとめました。
 1890(明治23)年、長野県で生まれました。
 1923(大正12)年、陸軍大学校を成績2番で卒業し、恩賜の軍刀を受けています。
 1927(昭和2)年、武官補佐官として、ワシントンに派遣されました。
 1931(昭和6)年、カナダ公使館付武官となりました。アメリカ・カナダ派遣武官を経験して、陸軍では珍しいアメリカ的合理主義の軍人となりました。
 1939(昭和14)年、久保井信夫が作曲した「愛馬行進曲」を陸軍省の軍歌として選定しました。
 「くにを出てから幾月ぞ ともに死ぬ気でこの馬と 攻めて進んだ山や河 とった手綱血が通う」という歌詞ですから、多くの人にも記憶があるでしょう。
 1942(昭和17) 年、空母のホーネットを発艦したドーリットル中佐率いるB25の16機は、東京・川崎・横須賀・名古屋・四日市・神戸を横断的に爆撃し、中国大陸の東部に着陸しました。これが日本初空襲です。これによる日本の衝撃は大変なものでした。
 1943(昭和18)年、陸軍中将に昇進しました。
 1944(昭和19)年5月、第109師団長になりました。
 6月8日、栗林忠道中将は、硫黄島に着任しました。
 6月15日、アメリカ軍は、サイパン島に上陸しました。
 6月16日、サイパン島を出撃したB29は、北九州を爆撃しました。これをB29の日本初空襲といいます。
 6月24日、アメリカの艦載機は、硫黄島を襲撃しました。
 6月26日、硫黄島島民の強制疎開を指示しました。この時、栗林忠道中将は、「サイパン島が陥落した場合、潔く和平交渉をすべきである」と上申しました。しかし、上層部はこの上申書を握りつぶしたといいます。絶対国防圏のサイパン島陥落した場合、予定通り、和平交渉すべきでした。合理主義の栗林中将の意見を、ドイツ留学の上層部の精神主義によって握りつぶしたのです。
 7月1日、栗林中将は、第109師団の指揮官となり、小畑英良中将率いる第31軍から独立して、大本営の直轄部隊となりました。そして、栗林中将は、司令部を硫黄島に置き、運命の硫黄島守備の指揮官となりました。その兵は1万5500人です。先行の兵と合わせて2万8000人で硫黄島を死守することを命じられたのです。
 7月3日、栗林中将は 全軍に深い地下壕を掘ることを命令しました。そして、「兵団の標語」や「敢闘の誓い」を作って毎日、将兵に唱和させて士気を鼓舞しました。標語には「十倍の敵をうちのめす堅陣とせよ」とか誓いには「われらは各自敵千人を倒さざれば死すとも死せず」という鬼気迫る内容もありました。
 7月7日、マリアナ諸島サイパン島の日本軍守備隊が全滅しました。太平洋艦隊司令長官の南雲忠一海軍中将ら4万人、在留邦人の1万人が自決・投身自殺を遂げました。生きて国に尽くす術を知らなかったのです。
 7月18日、東条英機内閣が総辞職しました。
 7月22日、小磯・米内内閣が成立しました。
 8月3日、マリアナ諸島テニアン島の日本軍守備隊が全滅しました。角田覚治海軍中将ら5000人、在留邦人の3500人が亡くなりました。
 8月10日、マリアナ諸島グアム島の日本軍守備隊が全滅しました。第31軍司令官の小畑英良陸軍中将ら1万9135人が戦死しました。
 この結果、アメリカ軍にとって、日本本土空襲するための障害物は硫黄島のみとなりました。
 9月15日、ペリリュー島攻防戦が始まりました。指揮官は中川州男大佐で、サンゴ礁の自然壕を利用した網の目のような洞窟陣地に構築し、徹底した持久戦を行い、アメリカ兵をして神出鬼没の戦いと言わしめました。指揮官の中川大佐は、「一億国民が見守っている、玉砕を早まるな」と部下を励ましました。指揮官の中川大佐は自決して責任を取りましたが、部下には「玉砕」命令を出さなかったので、ゲリラ活動を続けました。その結果、日本軍の死者1万人・負傷者446人、アメリカ軍の死者1684人・負傷者7160人で、アメリカ軍に多大の損害を与えました。
 彼ら34人がアメリカ軍に投降したのは、1947年の4月22日でした。この持久戦が日米双方の硫黄島の戦いに引き継がれます。
 10月9日、アメリカ太平洋艦隊司令長官ニミッツ海軍大将は、第5艦隊司令官スプルーアンス海軍大将にデタッチメント作戦を命じました。その結果、ターナー海軍中将は硫黄島派遣軍総司令官に、スミス海兵隊中将は上陸部隊司令官に任命されました。
 11月24日、サイパン島を出撃したB29の70機は、日本本土を空襲しました。硫黄島を出撃した日本の航空部隊はB29を29機撃墜しました。
 11月27日、硫黄島から出撃した零戦12機は、サイパン島の米軍基地を襲撃して、多数ののB29を破壊しました。
 12月8日、アメリカ軍は、日本の玉砕戦術を恐れ、硫黄島に対して、連日、74日間にわたり空と海から爆弾の雨を降らせました。爆弾の量は2万1926発で、世界戦史上空前の砲爆撃といわれ、硫黄島の地形が変わったといわれています。
 指揮官のニミッツ海軍大将は、「74日間にわたる連続空襲も、巧妙かつ強固に構築された日本軍の地下要塞には影響がなかった」(『太平洋海戦史』)と書いています。
10  1945(昭和20)年2月11日、栗林中将は、アメリカ軍の物量作戦に耐え、地下要塞を堀りめぐらせていました。この頃には、東・西・南・北・中・摺鉢山の6地区に分け、司令部は北地区の天山にあり、この北端の司令部から南端の摺鉢山の地下陣地まで6地区を結ぶトンネルを掘っていました。トンネルの総延長は18キロに及びました。硫黄島の一番長いところで8キロです。単純に計算して全島を往復するだけのトンネルを掘ったことになります。土質が火山灰とはいえ、その計画と忍耐にはびっくりします。
 地上のアメリカ軍の動きに対応して、日本軍は、地下のどこからでも攻撃できる態勢を整えていました。持久戦であり、ゲリラ戦でした。硫黄島の日本軍の使命は、「勝たなくともよい。できるだけ多くの敵兵を殺して最後には自分も死ぬ」という悲壮なものでした。
 2月17日、アメリカ軍は、戦艦6隻など100隻以上の軍艦を動員して、硫黄島に猛攻撃を行いました。
 2月19日05時58分、日の出を待って、アメリカ軍の輸送船団500隻が移動を始めました。
 2月19日09時02分、艦砲射撃を背にして、海兵隊は、上陸用舟艇に乗りこみました。
 2月19日10時12分、海兵隊9000人と戦車200両が硫黄島に上陸しました。その後、アメリカ軍4万人が上陸しました。その間、栗林中将の命令で、日本軍は「複廓陣地」で息を潜めていました。
 2月19日12時、アメリカ軍は、摺鉢山に移動を開始しました。その間、全く日本軍の反撃がなかったので、アメリカ軍の一部は「この島の日本軍は、もう誰も生きていないのではないか」と思ったそうです。
 2月19日14時、アメリカ軍の油断を待っていたかのように、摺鉢山陣地の指揮官である松下久彦少佐の命令で、日本軍は反撃に出ました。その結果、アメリカ軍の死者は2400人に達しました。
 これが栗林中将の「無駄な戦いで生命を粗末にするな。1人が敵1000人を殺すまでは死ぬな」という作戦でした。
 逆にアメリカのスミス中将は、待つ構えている所へ「飛んで火にいる夏の虫」ように飛び込んでくる玉砕戦と違う戦法に面食らいました。
 2月20日、摺鉢山の守備隊長である厚地兼彦大佐が戦死し、元山の本隊と通信連絡が遮断され、摺鉢山は孤立しました。
 2月23日10時37分、アメリカ海兵隊隊員4人は摺鉢山の山頂に星条旗を打ち立てました。報道カメラマンのロバート・キャパは、この瞬間を撮影し、後にピュリツァー賞を受けました。クリント=イーストウッドが映画化した『父親たちの星条旗』は、この事実を背景にしています。
 2月24日、フォーレスタル海軍長官は、「あと数キロを制すれば硫黄島を全島制圧出来る」と演説し、総兵力7万人を投入しました。そして、1日平均3000発1400トン爆弾を投下しました。日本軍の死者も総数で1万4000人を超えました。
11  3月2日、元山をめぐって激戦が繰り返され、日本軍の死者は7総数で1万9600人を超えました。アメリカ軍も6591人の戦死傷者を出しました。これを屏風山の戦いといいます。
 3月8日、栗林中将は、各部隊から「総攻撃を許可されたし」という申請を受けたが、それに応えず、「総攻撃は認めず、最後まで陣地を死守せよ」という命令を出し続けてきました。総攻撃とは、日本軍の玉砕戦法(バンザイ攻撃)のことでした。
 3月8日夜、しかし、玉名山の指揮官である千田貞季少将は、各部隊長に対し「傷病者には現況を知らせ、各自の面前で自殺せしめよし」と命令しました。持ち場に帰った各部隊長は、傷病兵に別れを告げ、手榴弾を渡しました。
 3月8日深夜、玉名山地区の各陣地でドカンドカンという炸裂音がしました。玉名山地区を包囲していたアメリカ軍は「敵襲!」と身構えたが、何事も起こりませんでした。アメリカ人には想像も出来ない自決を日本人が決行していたのです。
 3月9日18時、千田少将は、各部隊長に対して、「全員出撃」を命じました。日本兵は、アメリカ軍めがけて玉砕覚悟のバンザイ攻撃を行いました。しかし、ケイン少将の率いる第4海兵師団が待ち構えていました。飛んで火にいる夏の虫の様に、日本軍は突撃しました。その結果、千田少将(3月17日)・西竹一中佐(3月22日)らがあえなく戦死しました。
 西中佐は、アメリカ人にも「バロン=ニシ」として有名です。西中佐は、華族の男爵家の出身であり、1932(昭和7)年のオリンピック=・ロサンゼルス大会で、馬術の障害飛越で優勝しています。バロンとは男爵のことです。
 このバンザイ攻撃で、第4海兵師団も死者1806人・負傷7292人の被害を出しています。総指揮官のスミス中将は、第4海兵師団長のケイン少将を「チッキン」と非難しています。英語のchickensはニワトリのことですが、俗語では臆病者、怖がり、弱虫、青二才という意味があります。
 3月10日00時、サイパン島を出撃したB29の330機は、3時間にわたって、木造家屋が密集する東京の下町を目標にして、M29焼夷弾2000トンを雨・霰と投下しました。これを東京大空襲といいます。死者8万3000人・焼失家屋26万8000戸でした。
12  3月11日10時50分、栗林中将は、大本営に「北地区に残存しる陸海軍将兵は、目下1500名なり」と打電しています。
 3月14日、アメリカ軍は、摺鉢山・の屏風山・玉名山の各陣地を陥落させ、残る第109師団司令部のある北部地区に接近しました。その数は、アーキンス少将の第3海兵師団・ロッキー少将の第5海兵師団の4万2000人です。
 3月14日15時、第109師団参謀長の高石正大佐は「敵の一部は東方二百米に近迫しあり」と大本営に打電しています。この段階で北部地区の残存兵は900人となりました。
 3月14日夜、栗林中将は、作戦会議を開きました。栗林中将が「軍旗はあと何日、保持できるか」と問うと、残存の主力である第145連隊長の池田益雄大佐は「軍旗保持は旦夕(明日の朝か晩)の間」と答えました。すると、栗林中将は「今夜の内に軍旗を奉焼してもらおう」と決定し、軍旗を奉焼しました。ここにり、総攻撃が決まったのです。
 3月17日夜半、栗林中将は、「最後の作戦会議」を開き、幕僚や各部隊指揮官にコップ一杯の酒と恩賜のタバコ一本を配りました。そして、「決して生命を無駄にせず最後の最後まで生きて一人でも多くの敵を殺す」「奇襲・夜襲を繰り返し、そして死ぬ」ことを確認しました。
 栗林中将は、私物を焼却した後、「正子(午前零時)出でて最後の攻撃を為さんとす。茲に謹しみて先輩同僚各位に永遠の御別れを告ぐ」と大本営に決別の打電をしました。
 3月18日00時、栗林中将は、残存の将兵に対して、「各隊は最後の一兵に至るまで敵を攻撃すべし。諸子は既に其の身を大元帥陛下に捧げあり。自己を顧る勿れ。予は常に諸子の先頭に在り」と命じました。 
13  3月21日12時、大本営は、「硫黄島の我部隊は敵上陸以来、約1箇月にわたり敢闘を継続し殊に2月13日頃以降北部及東山付近の複廓陣地に拠り凄絶なる奮戦を続行中なりしが、戦局遂に最後の関頭に直面し”17日夜半を期し最高指揮官を陣頭に皇国の必勝と安泰とを祈念しつつ全員壮烈な総攻撃を敢行す”との打電あり。爾後通信絶ゆ」と発表しました。しかし、この段階でも栗林中将らは戦闘中でした。精神主義の大本営の玉砕と、合理主義の栗林中将の玉砕との意味が違っていたことがわかります。
 3月25日未明、栗林中将ら将兵400人は、北部の司令部から海岸沿いに移動し、西部のアメリカ海兵隊陣地を攻撃しました。
 3月25日05時10分、栗林中将ら将兵400人は、機関銃弾や手榴弾使って、敵陣に突撃しました。栗林中将は、大腿部に銃弾を受けました。栗林中将は、部下の曹長に「俺の屍を敵に渡してはならぬ」と言って、自害しました。部下の曹長は、大木の下に栗林中将の遺骸を埋めたとされていますが、以外は今も見つかっていないそうです。
 第109師団参謀長の高石正大佐も自害しました。
 3月26日12時、硫黄島の戦いは終了しました。第5海兵師団司令部は、星条旗の掲揚しました。それでも残存日本兵のゲリラ活動は続けられました。
 最高指揮官のスミス中将は「我に驚くべき大損害を与えたのは栗林将軍であった。…息絶えんとする日本の捕虜にただせば、彼らは申し合わせたように栗林将軍の偉大な統帥に心酔し、激賞してやまなかった」「彼は一人十殺を訓示し寸土たりとも敵に委してはならないと兵を戒しめた。…真に名将と云わなければならない」と回顧しています。
14  日本側は死亡2万1304人・行方不明500人・捕虜212人です。アメリカ側は死亡6821人・負傷2万1865人・行方不明48人です。死傷者の数ではアメリカが2万8686人、日本が2万1304人となっています。
 アメリカ側の犠牲者が日本側の犠牲者を上回る稀有な戦争といえます。
  死 亡 負 傷 死傷者 行方不明 捕虜 この統計を見て、奇異に感じたことは日
本人には負傷者が0、アメリカ人には捕
虜0人ということです。
 負傷者は自害・他殺されたのか。
日本 2万1304人 2万1304人 500人 212人
アメリカ 6821人 2万1865人 2万8686人 48人
15  4月1日、アメリカ軍は、空縄に上陸しました。
 4月7日、サイパン島を出撃したB29部隊と、硫黄島から出撃したP51部隊が合流して、東京を空襲しました。以後、日本各地への空襲が常態化します。これ以降の東京・大阪・神戸・仙台の空襲を調べてみました。
 4月13日、B29の330機は、豊島・渋谷・向島・深川地区を空襲しました。その結果、死者2459人・焼失家屋20万戸となりました。
 4月15日、B29の202機は、大森・荏原地区を空襲しました。その結果、死者841人・焼失家屋6万8400戸となりました。
 5月24日、B29の525機は、麹町・麻布・牛込・本郷地区を空襲しました。その結果、死者762人・焼失家屋6万5000戸となりました。
 5月25日、B29の470機は、中野・四谷・牛込・麹町・赤坂・世田谷地区を空襲しました。その結果、死者3651人・焼失家屋16万3651戸となりました。
 6月1日、B29の474機は、大阪を空襲しました。その結果、死者3150人・焼失家屋13万2459戸となりました。
 6月5日、B29の481機は、神戸を空襲しました。その結果、死者3184人・焼失家屋5万5000戸となりました。
 7月28日、B29の61機は、青森を空襲しました。その結果、死者1767人・焼失家屋1万8045戸となりました。
 8月2日、B29の70機は、富山を空襲しました。その結果、死者2737人・焼失家屋2万4914戸となりました。
 8月6日、広島に原爆が投下されました。
 8月9日、長崎に原爆が投下されました。
 『激録日本大戦争』など各種の戦記を参照しました。
戦った後、生きて国に尽くすが義か? 死して国に尽くすが義か?
 私は、東京大空襲・各地の空襲や原爆を非人道的な行為で、絶対許せない行為だと思ってきました。日本人は、同じ考えだと思います。
 しかし、最近、硫黄島の戦いを調べる内に、アメリカ人の立場で、空襲や原爆を考えるようになりました。つまり、日本人の死を覚悟したバンザイ攻撃と戦うには、人海戦術では味方の犠牲を増やすだけである。戦艦による艦砲射撃や空襲などの物量作戦を徹底的に駆使し、その後人海戦術に進むという作戦です。
 死傷者2万8千人を出す史上最悪の戦闘となったアメリカでは、衝撃を受け、空襲を中心とする「味方に犠牲を出さない戦争」へと戦術を大転換していきます。
 最近でも、アメリカ人の多くは「原爆によりアメリカ人の被害が数百万助かった」という証言をします。
 私は、硫黄島の戦いが、結果的には、日本本土への原爆・空襲になったと思うようになりました。
 次に、私が子供の頃、女児が「先々逃げるはロシアの兵、死んでも尽くすは日本の兵派」という手毬歌を歌っているのを聞いたことがあり、ロシア兵は臆病で、日本兵は勇気があるんだなーと単純に考えていました。
 皇国史観の平泉澄氏や漫画家の小林よしのり氏らは、命を惜しまず国家に尽くした時代のあったことを美化して「美しい国日本」と賞賛しています。
 NHKは、「硫黄島玉砕戦ー生還者61年目の証言ー」を放映しました。帰還兵は、勇気ある美しい日本兵の実態を暴露していました。捕虜になると、戸籍は赤で抹消され、非国民となります。非国民になると、国からの配給物が途絶えます。当時は国家統制経済でしたから、配給がないと生活できませんでした。つまり、捕虜になることで、家族・親戚に恥をかかせるという精神的な圧迫を与え、配給を与えないという経済的の締めあげをしていました。
 食料もなく、水もない飢餓状態の日本兵に対して、アメリカ兵が「あなた方の生命は保障する」という宣伝を行いました。投降に応じようとする日本兵を将校が背後から射殺したといいます。肉体的にも圧迫していたのです。
 日本人の死んでも尽くすという人生観は、こうした精神的・経済的・肉体的な恐怖観念によりフレームアップ(でっち上げ)されていたことが分りました。
 1945(昭和20)年4月7日14時17分、第2艦隊司令長官の伊藤整一中将は、戦艦大和の艦長である有賀幸作大佐に対して、「総員上甲板へ」と命じました。この命令は「全員持ち場を放棄して退艦せよ」という意味です。
 伊藤中将は、幕僚の手を握り「先に失礼する」と言って、長官室に戻りました。これが伊藤中将の最後の姿でした。
 先任参謀の山本祐二大佐は、「私も伊藤長官のお供をしたい」と言うと、大和の前艦長である森下信衛少将は「ダメだ」と制止しました。前艦長の森下少将は、「伊藤長官の”自分は艦に残る”という意味は、大和を失った責任を自分がとる。君たちは駆逐艦に移って作戦を続けろということだ」と語気を強めて説明しました。
 それでも副官の石田恒夫少佐が「副官として私も…」というと、前艦長の森下少将は、「生きて奉公をせよという伊藤長官の気持ちが分らぬか」と激怒して、副官の石田少佐を殴り飛ばしました。そこ言動に他の幕僚たちは戦艦大和の艦橋から駆逐艦に移乗しました。
 前の艦長の森下少将は、必死の形相で、士官や兵を海に叩き落としました。
 戦艦大和の現艦長の有賀幸作大佐は、副長の能村次郎大佐に対して、「ただちに退艦して、現況を中央に報告するよう」命じました。副長の能村大佐が反論すると、艦長の有賀大佐は「私が艦に残る。君は必ず生還して報告する。これは命令だ」と厳命しました。
 副長の能村大佐が戦艦大和の艦橋から駆逐艦に移乗するのを確認した艦長の有賀大佐は、従兵に「私の体を羅針儀の台に縛ってくれ」と命じました。その後従兵も体を柱に縛り付けようとしたので、艦長の有賀大佐は、大声で「海に飛び込め」と怒鳴りました。
 4月7日14時25分、戦艦大和は海中にその威容を消しました。
 しかし、司令長官の伊藤中将、前艦長の森下少将、現艦長の有賀大佐の計らいで、生存者は1680人にも達しました。
 硫黄島の戦いと戦艦大和の最後を調べて、日本にも、「生きて国に尽くすことも義である」という軍人がいることにほっとしました。
 戊辰戦争の時も、榎本武揚や大鳥圭介は、新政府に弓を引くという反乱を起こしましたが、敵将の黒田清隆の勧告で降伏しました。黒田清隆の進言理由は、「生きてその知識を新政府に活用して欲しい」というものでした。
 今、盛んに栗林忠道中将のことが喧伝されています。大本営も、生存しているにも拘わらず、玉砕したとして本土決戦の思想統制に利用しました。同じ愚を繰り返さないためにも、硫黄島の戦いを検証したいものです。
 asahi.comによると、「第2次世界大戦末期の硫黄島での激戦を描いたクリント=イーストウッド監督の米映画『父親たちの星条旗』が(2006年12月)20日、全米で封切られた。日米双方の視点から戦争の現実を描いた2部作の第1弾で、米メディアも「戦争について、まだ語られていなかったことがあったとは信じがたい」(20日付ニューヨーク・タイムズ紙)などと高く評価している」と紹介しています。
 硫黄島の山頂に星条旗を立てる6人の米兵の写真がアメリカの各紙1面を飾りました。この写真を活用して、アメリカ人の愛国心に火をつけ、戦時国債を調達しました。クリント=イーストウッド監督は、この写真のお陰で「英雄」に祭り上げられた3人の兵士を中心に、物語を展開します。これは、日本的に言うと自虐史観に毒された作品ということになります。
また「ロサンゼルス・タイムズ紙によると、イーストウッド監督は当初は米側の物語のみを撮影する予定だったが、徹底抗戦した2万人の日本兵の苦境にも興味を抱き、同時期を双方の立場から描く異例の2部作となった」と書いています。日本側の立場で描かれた映画は『硫黄島からの手紙』です。
 クリント=イーストウッド監督は、記者会見で次のような発言をしています(2006年4月28日)。
 「日米両サイドから描くことによって、この戦争をどのように捉えたのですか?」
 イーストウッド監督:「アメリカ側からの視点で見ると、硫黄島は最大激戦地でした。戦争自体よりも、帰還後どういう人生を歩んでいったのかに重点をおきました。あの戦争がネガティブに働いた人もいれば、政府に利用されて心の葛藤さえ覚えた人もいたのです。
 また日本側からの視点では、若い兵士が帰れない覚悟で、死を覚悟して戦争に向かうというのに共感できませんでした。日本兵の気持ちになれるよう、感じれるようになろうとしました。硫黄島に行ったのは感動的体験になりました。  あの戦争では、多くの親が子供を失いました。どっちが勝ったのかというのは大事なことではありません。多くの人に人生を失わせて、どういう結果を及ぼしたのかというのが大事なのです」
 「この作品を通して、我々日本人にどんなものを感じて欲しいと思っていますか?」
 イーストウッド監督:「学べることがあるとすれば、人生を国を守るために捧げていったという行動は歴史の1ページに残るべきだということです。世界中の人に、栗林という男がどういう人間だったのかというのを知ってもらいたい。
 人生がそうではないように、善悪には線が引けるものではありません。また、硫黄島に眠る兵士達、そしてアメリカの兵士にも敬意を表する時であると思ったのです。
 両方の国が犠牲を払いました。戦争の中でつらい思いをして戦った、そういう生き方を示したいのです」
 『硫黄島からの手紙』に出演している伊原剛志は、あるTV番組の取材を受けて、「役者は日本人なんだけど、これをアメリカ人のスタッフが描いているところが凄いことだと思いました」
 1930(昭和5)年に生まれた上智大学名誉教授の渡部昇一氏が「先祖の恥をそそぐ意志持て」という評論を書いています(2007年1月9日付け産経新聞)。
 「日本国民も長い間、侵略国として東京裁判により断罪されたために、肩身の狭い思いをしてきた。
 東京裁判の法源ともいうべきマッカーサー元帥自身がアメリカ上院の軍事外交合同委員会という公式の場で「従って日本が戦争に突入した目的は主として自衛(セキュリティー)のために余儀なくされたのであった」と証言している。これはチャーチルが「カーマレー湾書簡」が偽書であることを発見して、先祖モールバラ公300年の恥をそそいだのにも似た証拠で、戦後60年の日本の恥をそそぐに十分な証拠であると考えられる。
 それどころか「日本はサンフランシスコ条約で東京裁判を受諾して国際社会に復帰したのだから、その第11条を守る義務がある」という詭弁を弄する大新聞や学者や政治家がうようよいるのはどうしたことか。例の第11条には「東京裁判の諸判決を受諾し実行する」とあるが、日本はその諸判決は忠実に実行して片づけている。しかし日本は「裁判」などに納得したとは言っていないのだ。「判決」には敗戦国だから従わざるをえなかっただけである。「裁判」と「判決」を混同するのは敗戦利得者たちの悪質な詐術である。
 国内では一部の人には通用しても、国際社会では通用しない論文を、お書きになる人がおり、それを掲載する新聞がある。それこそ世界的な恥です。恥の上塗りです。それもお遊びでいい時代で終わって欲しい。
 軍国少年がそのまま大きくなった論文です。クリント=イーストウッド監督のように、アメリカでも共鳴を受ける論文を書いて頂きたい。狭い日本の、不満分子に迎合する駄文では、名誉教授の肩書きが泣きますよ。

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