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エピソード

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占領政策の転換(二大陣営、国際連合)
 第一次世界大戦中に、社会主義国のソ連が誕生しました。第二次世界大戦中に、ソ連の東欧・東亜進出が激しくなりました。
 その結果、資本主義国の覇者アメリカとの対立が潜行しながら、深まって行きました。
 戦後、潜行していた対立が表面化しました。
 20世紀、2度の大戦を体験した人類は、3度目の大戦を避けるため、国際連合を設立しました。今回は、その経過を調べてみました。
 1941(昭和16)年10月18日、@40東条英機内閣が誕生しました。
 12月8日、ヒトラーは、モスクワ攻撃放棄を指令しました。
 12月8日3時25分、日本の機動部隊はハワイの真珠湾を空襲し、米戦艦の主力を撃破しました。
 1942(昭和17)年1月1日、連合国の26カ国は、ワシントンで連合国共同宣言に調印し、日独との単独不講和大西洋憲章の原則を承認しました。
 6月5日、ミッドウエー海戦りが始まりました。
 12月31日、御前会議は、ガダルカナル島撤退を正式に決定しました。
 1943(昭和18)年1月24日、ルーズベルト大統領とチャーチル首相は、フランス領モロッコのカサブランカで会談し、「1943年11月からビルマへの本格的反攻を開始する」と決定しました。
 9月8日、連合国は、バドリオ政府と休戦協定を結び、イタリアが無条件降伏しました。
 11月27日、ルーズベルトチャーチル蒋介石は、エジプトのカイロで会議を行いました。これをカイロ会談といい、カイロ宣言に署名しました。
 11月28日、ルーズベルト・チャーチル・スターリンは、イランのテヘランで会議を開きました。これをテヘラン会談といい、テヘラン宣言に署名しました。
 1944(昭和19)年6月4日、米英軍は、ローマに入城しました。
 6月6日、連合軍は、北仏のノルマンジーに上陸しました。これをオーバーロード作戦とか史上最大の作戦とかいいます。
 7月1日、ブレトンウッズで連合国44カ国は、経済会議を開き、国際通貨基金国際復興開発銀行の創設を議論しました。これが後のブレトンウッズ体制といいます。
 7月7日、絶対国防圏であるマリアナ群島のサイパン島の日本守備隊3万人が玉砕しました。
 7月22日、@41小磯国昭内閣が誕生しました。
 8月21日、ダンバートン=オークス会議が開かれ、国際連合案を討議しました。
 10月9日、モスクワで、チャーチル・スターリンは、南東欧の英ソ勢力範囲を画定しました。
 10月11日、ソ連軍は、東プロシアでドイツ国境を突破しました。
 1945(昭和20)年1月17日、ソ連軍は、ワルシャワを解放しました。
 2月3日、アメリカ軍は、首都マニラに進入しました。
 2月4日、ルーズベルトチャーチルスターリンは、ヤルタ会談を開き、対独戦後処理を決定しました。秘密協定で、ドイツ降伏後3ヵ月後、ソ連の対日参戦が決定しました。対日参戦を条件に千島譲渡・南樺太返還が約束されました。これをヤルタ協定といいます。
 3月6日、ルーマニアに民族民主戦線政府が樹立し、首班にペトル=グローザが就任しました。
 3月7日、ユーゴに人民政府が樹立し、首班にチトーが就任しました。
 4月1日、アメリカ軍は、沖縄本島に上陸しました。
 4月4日、ソ連軍は、ハンガリー全土を解放しました。
 4月5日、ソ連外相のモロトフは、駐ソ大使の佐藤尚武に、日ソ中立条約不延長を通告しました。
 4月7日、@42鈴木貫太郎内閣が誕生しました。
 4月12日、アメリカ大統領のルーズベルトが亡くなり、副大統領のトルーマンが昇格しました。
 4月13日、ソ連軍は、ウィーンを占領しました。
 4月22日、ソ連戦車隊は、ベルリン市街に突入しました。
 4月25日、米ソ両軍は、エルベ河畔のツルゴウで邂逅しました。これをエルベの誓いといいます。この結果、ドイツは東西に分割占領されました。
 4月25日、サンフランシスコ連合国全体会議が開かれ、50カ国が参加しました。
 5月2日、ソ連軍は、ベルリンを占領しました。
 5月5日、ソ連軍は、チェコのプラハを解放しました。
 5月7日、ドイツ軍は、連合国に無条件降伏をしました。
 5月14日、オーストリア民主共和国が成立しました。
 6月5日、米英仏ソ4国は、ベルリン協定に調印し、4地区を分割占領することになりました。
 6月25日、サンフランシスコ連合国全体会議は、国連憲章に調印しました。
 7月17日、トルーマン・チャーチルスターリンは、ポツダム会談を開きました。
 7月26日、トルーマン・チャーチル・スターリンは、対日ポツダム宣言を発表しました。
 7月27日、イギリス総選挙で勝利した労働党のアトリー内閣が誕生しました。
 8月6日、B29のエノラ・ゲイ号は、広島の相生橋を照準にして、原子爆弾を投下しました。
 8月8日、ソ連は、日本に宣戦を布告し、北満州・朝鮮・樺太に進攻を開始しました。
 8月9日、B29のボックス・カー号は、長崎の北部の浦上地区上空から原子爆弾を投下しました。
 8月9日、毛沢東朱徳は、抗日戦は最後の段階に入ったと声明しました。
 8月13日、朱徳が進軍を命令すると、蒋介石は、原駐地駐防を命令しました。しかし、朱徳は、蒋介石の命令を拒否しました。
 8月13日、世界シオニスト会議は、ユダヤ人100万人のパレスチナ入国を要求しました。
 8月14日、中ソ友好同盟条約が調印されました。
 8月15日、日本は、無条件降伏・ポツダム宣言受諾を発表し、第2次世界大戦が終了しました。
 8月15日、朱徳は、米英ソ3国に対して、解放区の人民代表権・対日平和会議参加権・米国の対蒋援助停止など5項目の要求を通告しました。
 8月15日、朝鮮建国準備委員会がソウルで結成され、委員長に呂運亨が就任しました。
 8月17日、@43東久邇宮稔彦内閣が誕生しました。
 8月18日、インドネシア共和国は独立宣言を発し、大統領にスカルノを選出しました。
 8月20日、朝鮮共産党再建委員会がソウルで結成され、委員長に朴憲永が就任しました。
 8月25日、毛沢東は、目前の時局に関する宣言を発表し、内戦回避・民主連合政府樹立を主張しました。
 8月26日、蒋介石の国府軍は、重慶などの後方地区から南京・上海・北平に進駐を開始しました。
 8月28日、アメリカ軍のテンチ大佐など連合軍先遣隊の150人は、厚木飛行場に到着しました。
 8月29日、ソ連軍は、北朝鮮全域を掌握しました。
 8月30日、毛沢東・周恩来は、重慶に到着して、蒋介石と会談しました。その結果、内戦が一時回避されました。
 8月30日、連合軍最高司令官SCAPマッカーサーは、厚木飛行場に降り立ちました。
 8月31日、トルーマン大統領は、イギリスのアトリー首相に10万人の即時入国を要求しました。
 9月2日、日本全権の重光葵・梅津美治郎は、米艦ミズーリ号上で降伏文書に調印しました。
 9月2日、マッカーサーは、指令第1号で、38度線を境に、在朝鮮日本軍の米ソ各軍への降伏を指令しました。
 9月2日、臨時政府主席のホー=チ=ミンは、ベトナム民主共和国成立を宣言しました。
 9月6日、朝鮮建国準備委員会は、朝鮮人民共和国樹立を宣言しました。
 9月9日、米軍は、ソウルで、38度線以南の日本軍の降伏を受理しました。
 9月10日、米英仏ソ中5大国ロンドン外相会議は、旧枢軸国との講和問題を討議し、極東諮問委員会の設置を決定しました。
 9月19日、アメリカの軍政庁は、ソウルに設置されました。
 9月23日、フランス軍は、イギリス軍の援助を受けて、サイゴンを占領しました。
 9月29日、英蘭軍は、日本軍の武装解除のためバタビアに着き、その後、インドネシア人民軍との戦闘が開始されました。
 10月9日、@44幣原喜重郎内閣が誕生しました。
 10月10日、アメリカの軍政長官は、朝鮮人民共和国否認を声明しました。
 10月13日、蒋介石は、国民党各部隊に内戦を密令し、各地で解放軍と衝突しました。
 10月16日、李承晩がアメリカより帰国しました。
 10月17日、蒋介石の国府軍は、台湾に上陸を開始しました。
 10月20日、エジプトほかアラブ3国はイスラエル国家の創設を戦争を招くとアメリカに警告しました。
 10月24日、国連憲章が20カ国の批准完了で発効しました。国際連合が正式に成立しました。
 11月27日、トルーマンは、マーシャル元帥を国共内戦調停の大統領特使に任命しました。
 11月29日、ユーゴ制憲議会は、王制を廃止し、ユーゴ連邦人民共和国を宣言しました。
 12月12日、イランのタブリーズで、ソ連軍の援助により、アゼルバイジャン自治共和国が樹立しました。
 12月14日、元独秘密警察員は、ニュルンベルク国際軍事裁判で、ユダヤ人虐殺は600万人以上と証言しました。
 12月15日、トールマンは、対中国政策を発表しました。その内容は、内戦停止・国府支持・諸党派の政府参加・軍隊統合などです。
 12月16日、米・英・ソの3国外相会議は、極東委員会対日理事会の設置を決定しました。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
国際連盟から国際連合へ
 第一次世界大戦中、アメリカのウィルソン大統領は、国際主義・理想主義に基づく国際協調構想を提案しました。第一次世界大戦後、2度と大戦をしないと誓って人類の悲願として、国際連盟は、恒久的な国際平和機関・国際秩序の中心を担う機構として設立されました。
 理想的には素晴らしいことですが、現実的には、大きな矛盾を孕んでいました。
(1)提唱国のアメリカが、国是をモンロー主義(相互不介入主義)として、参加しませんでした。
(2)秩序の破壊者には、経済的制裁権は保有していましたが、軍事制裁権がありませんでした。
(3)国際連盟の意思決定には、全会一致主義を採用してたことです。
 日本は、国際連盟から、圧倒的多数でリットン報告書を採択されたにも拘わらず、膨張主義を展開しました。しかし、国際連盟から、なんらの制裁もありませんでした。
 2度目の世界大戦を防止できなかった反省から、国際連合が誕生しました。
(1)国連軍による集団安全保障体制を導入しました。ここでは、事態を悪化させない防止策・非軍事的強制措置・軍事的強制措置などが規定されています。
(2)戦勝五大国、つまりアメリカ・イギリス・フランス・ソ連・中国の一致、拒否権が規定されています。
 日本が国連に加盟した時の外交方針には、(1)国連中心主義(2)アジアの一員としての外交(3)自由主義世界との提携を掲げていました。戦後日本の外交は国際連合中心主義だったことが分かります。
 理想的な国際連合は、米ソの冷戦によって、つまり米ソの拒否権発動の出し合いによって、その機能は大きく後退します。
 その結果、アメリカを中心とする安全保障と、ソ連を中心とする安全保障の2陣営になります。
 最近のイラク戦争を見て、国連の状態を考えて見ましょう。
 2000年2月16日、当選したばかりのブッシュ氏大統領は、イラクが査察を妨害していると主張して、イギリス軍と共に空爆しました。
 2001年9月11日、アメリカのニューヨークとワシントンで、同時多発テロ事件が発生しました。
 9月13日、アメリカの閣僚会議は、イラク攻撃を検討しています。しかし、「攻撃の根拠がない」ため、国際テロ組織「アル・カーイダ」の本拠アフガニスタンを報復攻撃しました。
 11月10日、ブッシュ大統領は、国連総会で、「われわれはテロについて真実を語らなくてはならない。9.11攻撃に関するとんでもない謀略説を断じて容認してはならない。それは罪人たるテロリストたち、奴ら自身から非難の矛先をそらすための悪質きわまりない嘘なのだ」と演説しました。
 2002年1月29日、ブッシュ大統領は、イラク・イラン・北朝鮮が、大量破壊兵器を保有するテロリスト国家であるとして、悪の枢軸演説をしました。
 2月、米国防情報局(DIA)は、アル・カーイダ軍事訓練担当幹部イブン・シェイク・リビ容疑者が「イラクがアル・カーイダの大量破壊兵器開発を支援している」と供述しました。しかし、DIAは、具体性に欠けるとして、これを「意図的な誘導」と結論づけました。
 10月、CIA(アメリカ中央情報局)は、国務省情報局・国防総省情報局・エネルギー省などの情報担当機関の情報分析を基に総合判断してまとめた報告書をブッシュ大統領に提出しました。その内容は、以下の通りです。
(1)全般的状況として、1998年、国連の査察が中止されたあと、化学・生物兵器製造施設を拡大し、核兵器計画をを強化した。1998年から2002年までの間、国連決議を無視して石油を不正輸出し、年間30億ドルの資金を確保、これら大量破壊兵器の開発に注ぎ込んだ。
(2)米国を攻撃する可能性として、生物・化学兵器によるテロ攻撃を差し控えているが、フセイン政権が生き延びられないと判断した場合、イラクは米本土を攻撃するだろう。
 10月、ブッシュ大統領は、DLAの資料を操作し、CIAの情報から「イラクはアル・カーイダのメンバーに生物・化学兵器の訓練を行った」と主張し、パウエル国務長官も、同様の主張を繰り返しました。
 11月、国連安全保障理事会は、国連決議1441号を定め、イラクへ再び査察を受け入れるように勧告しました。イラクは、査察を受け入れ、1万2000ページ分の申告書を提出しました。アメリカは、以前に提出された文書のつぎはぎだ批判しました。
 2003年1月9日、武器査察を行った国連監視検証査察委員会(UNMOVIC)とIAEAは、安全保障理事会に「イラクが国連決議に違反したと疑われるような証拠、痕跡はない」と中間報告しました。
 1月16日、アメリカは、「化学兵器を搭載するためのミサイル12基が発見された」とのべ、「これはイラクの申告書に掲載されていなかった」と主張し、イランの申告書はあてにならないと強調しました。
 1月28日、ブッシュ大統領は、一般教書で、CIAの報告書に基づいて「イラクは大量破壊兵器廃棄の約束を守らず、今も保有している。彼らが同兵器をテロ組織に売り渡し、テロリストが何時でも使える状況を作り出している。これを阻止しなければならない」と戦争の大義を説明しました。
 2月5日、アメリカは、イラクが生物・化学兵器や大量破壊兵器を隠し持っていることを示す証拠を国連安保理に提示しました。また、「イラクは、国連の武器査察団に全面的な協力を行なっていない」と主張しました。これをパウエル報告といいます。
 2月14日、そこで、国連の査察団は、「武装解除の進展を積極的に評価しつつも、査察が完了しておらず、まだ時間が必要である」と主張しました。
 3月、アメリカは、国連安保理に「査察は不十分で、戦争も辞さない」とという新決議を提案しました。しかし、フランス・ドイツ・ロシアなどは、「査察は成果を挙げているのだから、査察を継続すべきだと」と反論しました。安全保障理事会では、反対多数でアメリカの新決議案が否決される見通しとなりました。
 3月17日、アメリカにとって不利な安保理で裁決を避けて、ブッシュ大統領は、「48時間以内にフセイン大統領とその家族がイラク国外に退去するように」とのテレビ演説を行い、攻撃予告の最後通牒を行いました。
 3月19日、フセイン大統領は、それを黙認したため、フランス・ドイツ・ロシア・中国などの強硬な反対にも拘わらず、イギリス軍とイラクを空爆しました。
 3月20日、小泉首相は、国会で、「国連決議違反を続けたイラクに非がある。米国はかけがえのない同盟国で、わが国の平和と安全を守る抑止力を提供している。米国が国際社会の大義に従い大きな犠牲を払おうとしている時、可能な限り支援するのはわが国の責務だ」と主張しました。
 民主党の岡田克也幹事長は、「イラク攻撃は大義なき戦争である。首相の方針は、国際協調をあきらめ、日米同盟を選択した。外交に失敗した」などと批判しました。
 小泉首相は日米同盟を主として論を展開し、岡田幹事長は国連主義を主として論を展開しています。
 2004年1月8日、アメリカのシンクタンクであるカーネギー平和研究所は、「ブッシュ政権が組織的に旧フセイン政権の脅威をわい曲した」と断定しました。パウエル米国務長官は、「フセイン政権は1988年に化学兵器を使用した事実がある」「大量破壊兵器開発の意図は常に持っていた」と反論しました。
 1月8日、ニューヨーク=タイムズは、「イラクで大量破壊兵器を捜索していた400人の米軍チームが、大量破壊兵器の証拠を何も見つけることができないまま、撤収した」と報じました。
 1月11日、ブッシュ政権の財務長官だったオニールは、CBSテレビに、「ブッシュ政権は2001年の発足直後から、フセインを取り除く必要があるという信念があった」と語りました。
 1月22日、小泉首相は、国会で、「大量破壊兵器が見つからなかったが」と問われ、「現在、ひきつづきイラクの大量破壊兵器を捜索しており、これを注視していく」と答弁しました。
 1月27日、ブッシュ大統領は大量破壊兵器調査団のケイ元団長が議会証言をするという情報を知り、記者会見しました。記者が「あなたは情報機関にだまされたのではないか」と尋ねると、ブッシュ大統領は「情報機関を深く信頼している。彼らは力の限り働き、米国に貢献している」と反論しました。
 2004年1月28日、米イラク大量破壊兵器調査団のケイ元団長は、米上院軍事委員会の公聴会で、6ヶ月間調査した結果を次のように証言しました。
 「明らかにここにいる私も含めて、われわれはほとんど間違っていた。フセイン政権が戦争前、生物・化学兵器を備蓄していたことを示す証拠は何も見つかっていない。国連による査察の過程で、フセイン政権が90年代に大量破壊兵器の製造を放棄したと考えるのが理にかなう」。イラク攻撃の前に、核兵器製造のために使うものだと提示した強化アルミ管などについても、「証拠は一切ない」。
 1月29日、ワシントン=ポストは「大量破壊兵器調査団の調査結果と開戦時の情報が違うことを認めるのが普通になった」とホワイトハウスの幹部の談話を報道しました。
 1月29日、しかし、ライス安全保障担当大統領補佐官は、TVで、「国連の要求を12年間も無視し、大量破壊兵器について説明しなかったフセイン元大統領に責任がある」と主張しました。
 10月6日、大量破壊兵器捜索の米政府調査団のデュエルファー団長は、米上院軍事委員会の公聴会で、「軍事的に意味のある大量破壊兵器がイラク国内に隠されているとは思わない。核・化学・生物などの大量破壊兵器が存在しない」「フセインは戦争前のある時点で大量破壊兵器を持たないことを選択していた。開発計画自体が開戦時にはなかった」との発言しました。
 2005年11月6日、米国防情報局(DIA)は、「イラクと国際テロ組織アル・カーイダとのつながりを示す情報について、信頼出来ないと結論づけていたにもかかわらず、ブッシュ政権は、開戦を正当化する材料として使用していた」と証言しました。
 12月14日、ブッシュ大統領は、「(イラクの大量破壊兵器疑惑に関する)情報の多くが結果として誤っていたのは事実」「大統領として戦争に踏み切った責任を負う」と演説しました。これは、中央情報局(CIA)などによる情報収集の失敗と、それに基づいて開戦したことへの自らの責任について内容になっています。と、同時に「サダム・フセインを打倒する私の決断は、正しい決断だった」と主張し、開戦の正当性を強弁しています。民主党のエドワード・ケネディ上院議員は「米国は、戦争をする理由はなかった」と大統領を批判しました。
 12月15日、小泉首相は、「判断に間違いなし」と語りました。
 日米同盟に頼りアメリカの核の傘の下での日本の安全保障を考える姿は、当時の国連中心主義に日本の外交方針から大きくずれています。
 これを現実主義というのか、三度目の世界大戦後、やはり国連主義だったいうのでは、お寒い限りの外交方針といえます。
 中途半端な武器で戦って失う生命・財産と、国連主義・平和主義で攻撃されて失う生命・財産の彼我を比較した時、私は、後者を選びたいと思います。

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