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芥川賞と直木賞 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1 | 以前は、芥川賞受賞作品や直木賞受賞作品はほとんど読んだものです。 しかし、最近、読んだという記憶はありません。その理由を探るためにも、芥川賞と直木賞の歴史・背景などを探ってみたいと思います。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2 | 一般に、芥川龍之介賞は、芥川龍之介の業績を記念して、文藝春秋社の菊池寛が1935(昭和10)年に創設したとされています。対象は、純文学の新人(「無名あるいは新進作家」)に与えられます。 直木三十五賞は、友人の直木三十五を記念して、文藝春秋社の菊池寛が1935年(昭和10年)に芥川賞とともに創設したとされています。対象は、大衆文学の新人に与えられます。 純文学の芥川賞に比して、直木賞は大衆文学と軽視される傾向もありますが、選考にあたっては、「直木賞受賞後も文筆で生計を立て得るか」が考慮されるため、新人とはいえ、実力者が選ばれる傾向があります。作家の伊坂幸太郎氏(37歳)は、ベストセラー小説「ゴールデンスランバー」(新潮社)について、直木賞の選考対象となることを「今は執筆に専念したい」と辞退しました。予備選考の段階で辞退をするという異例の事態です。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
3 | 第006回(1937年)直木賞には、純文学者の井伏鱒二が『ジョン萬次郎漂流記』その他で受賞しています。 第028回(1952年)芥川賞には、松本清張が「或る『小倉日記』伝」で受賞していますが、これを直木賞の候補作品でした。 第046回(1961年)芥川賞には、大衆文学者の宇能鴻一郎が『鯨神』で受賞しています。 同年、直木賞には、純文学者の伊藤桂一が『螢の川』で受賞しています。 目くじらをたてて、純文学の芥川賞だから上で、大衆文学の直木賞だから下だという世評はあてになりません。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
4 | 芥川賞や直木賞の受賞式が新聞・TVで盛大に報道されますが、両賞の設立当時は、「新聞などは、もっと大きく扱ってくれてもいいと思う」と嘆く菊池寛の声が残されています。 第031回(1954年)に『驟雨』その他で芥川賞を受賞した吉行淳之介は、「社会的話題にはならず、受賞者がにわかに忙しくなることはなかった」と書いています。 第033回(1955年上半期)に『白い人』で芥川賞を受賞した遠藤周作は、「授賞式も新聞関係と文藝春秋社内の人間が10人ほど集まるだけのごく小規模なものだった」と書いています。また遠藤周作は、第038回(1957年)に『裸の王様』で芥川賞を受賞した開高健と対談しています。 ●遠藤「きみ、芥川賞を貰う前に、芥川賞、知っとった?」 ■開高「あたりまえでしょう」 ●遠藤「情けないことだが、僕は堀田さんが貰うまで、芥川賞って知らなんだよ」 ■開高「ほんとかね」 ●遠藤「ほんと。芥川賞って、そんなに有名じゃなかったんだよ、おれの頃。きみ、ほんとうに子供の頃から知っとったのかね」 第034回(1955年下半期)に『太陽の季節』で芥川賞を受賞した石原慎太郎によって、芥川賞は世間を衝撃を与え、大きな話題となりました。太陽族というファッション、慎太郎狩りという髪型、映画などがブームを拡大しました。 第039回(1958年上半期)に『飼育』で芥川賞を受賞した大江健三郎は、東大の学生ということで、話題を提供し、芥川賞は新米教師だった私の同体験となりました。以降、話題性と芥川賞はセットで売り込まれるようになっていきます。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
5 | 以下、芥川賞を10回ごとにくくって紹介します。直木賞は次回紹介します。
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* | ●はミリオンセラーです。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
* | 今回は、色々なホームページを参照しました。お礼を申し上げます。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
芥川賞と太宰治 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1 | 太宰治については、別項で詳細に扱うとして、今回は、太宰治が芥川賞を渇望したという話を取り上げたいと思います。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2 | 昭和10(1935)年、太宰治(27歳)のデビュー作品である『逆行』と『道化の華』が第1回芥川賞の予選候補になり、『逆行』が最終候補に残りました。 川端康成(欠席)・久米正雄・佐藤春夫・室生犀星・瀧井孝作・谷崎潤一郎(欠席)・小島政二郎・山本有三(欠席)・横光利一・菊池寛・佐佐木茂索の委員が選考した結果、石川達三(25歳)の『蒼氓』が受賞しました。 選考委員の川端康成は、「文藝春秋」(9月号)の芥川賞選考の経緯の中で、「なるほど『道化の華』の方が、作者の生活や文学観を一杯に盛っているが、私見によれば作者目下の生活に厭な雲ありて、才能の素直に発せざる憾みがあった」と書いています。それに激怒した太宰は、「文芸通信」に「川端康成へ」と題して、「私はあなたの文章を本屋の店頭で読み、大変不愉快であった。…私は憤怒に燃えた。幾夜も寝苦しい思いをした。小鳥を飼い、舞踏を見るのが、そんなに立派な生活なのか。刺す。そうも思った。大悪党だと思った。…ただ私は残念なのだ。川端康成の、さりげなさそうに装い切れなかった嘘が、残念でならないのだ」と激しく反論しています。 そこで、川端康成は、「太宰氏は委員会の模様など知らぬというかも知れない。知らないならば尚更根もない妄想や邪推はせぬがよい」とやり返しています。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
3 | 昭和11(1936)年、檀一雄の『夕張胡亭塾景観』らが候補作に残りましたが、受賞作はありませんでした。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
4 | 昭和11(1936)年、佐藤春夫は、『晩年』が候補に残っていることを太宰治に知らせました。 そこで、太宰治(28歳)は、芥川賞の選考委員であった佐藤春夫(44歳)や川端康成(37歳)に手紙を出しています。 (1)「拝啓 一言のいつはりもすこしの誇張も申しあげません。物質の苦しみが重なり死ぬことばかりを考えて降ります。佐藤さん一人がたのみでございます。私は恩を知っております。私はすぐれたる作品を書きました。これから、もっともっと、すぐれたる小説を書くことができます。私は、もう十年くらい生きていたくてなりません。私は、よい人間です。しっかりしていますが、いままで運が悪くて、死ぬ一歩手前まで来てしまいました。芥川賞をもらえば、私は人の情けに泣くでしょう。そうして、どんな苦しみとも戦って、生きて行けます。元気が出ます。お笑いにならずに、私を助けて下さい。佐藤さんは私を助けることができます」(佐藤春夫宛書簡) (2)「謹啓 厳粛の御手翰に接し、わが一片の誠実、いま余分に報いられた心地にて、鬼千匹の世の中には、佛千体もおはすのだと、生きて在ることの尊さ、今宵しみじみ教えられました。『晩年』一冊、第二回の芥川賞苦しからず、生まれて初めての賞金、わが半年分の旅費、あわてず、あせらず、充分の精進、静養もはじめて可能、労作、生涯いちど、報いられてよしと、客観、数学的なる正確さ、一点のうたがい申しませぬ、何卒、私に与えて下さい。一点の駆け引きございませぬ。深き敬意と秘めに秘めたる血族感とが、右の懇願の言葉を発せしむる様でございます。困難な一年でございました。死なずに行きとおしてきたことだけでも、ほめて下さい。最近、やや貧窮、堵書きにくき手紙のみを、多くしたためて居ります。よろめいて居ります。私に希望を与えて下さい。老婆、愚妻を、一度限り喜ばせて下さい。私に名誉を与えて下さい。文学界賞、ちっとも気にかけて居りませぬ。あれはも、二、三度、はじめから書き直さぬことには、いかなる賞にもあたいしませぬ。けれども『晩年』一冊のみは、恥ずかしからぬものと存じます。早く、早く、私を見殺しにしないで下さい。きっと、よい仕事 できます。経済的に救われたなら、私、明朗の、蝶々。きっと無二なる旅の、とも。微笑もてきょうのこの手紙のこと、谷川の紅葉ながめつつ語り合いたく、その日のみをひそかなるたのしみにして、あと二、三ヶ月、苦しくとも生きて居ります。ちゅう心よりの謝意と、誠実、明朗、一点やましからざる堂々のお願い、すべての運をおまかせ申しあげます。(いちぶの誇張もございませぬ。すべて言いたらぬことのみ。)」(6月29付川端康成宛書簡) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
5 | 第3回芥川賞予選通過作品は、10名11の作品が残りました。川端康成は、選考の経緯を「第1回・第2回は、主として瀧井孝作が予選した。今回は菊池、佐藤、瀧井、小島の諸氏と私との合議の予選であった。私は予選資格の作品は悉く読んだ。疑問のものは二度読んだ。…太宰氏の作品集『晩年』も前に読んだ。今回に適当な候補者がなければ、太宰氏の異才などは授賞してよいと思う」と書いています。 芥川賞予選通過作品の得票数までが公表されています。それによると、北条民雄の『いのちの初夜』が8票で最多、太宰治の『晩年』と小田嶽夫の『城外』は4票で同率3位、鶴田知也の『コシャマイン記』は2票で9位でした。 しかし、最終選考の結果は、第3回芥川賞は、小田嶽夫(36歳)の『城外』と鶴田知也(24歳)の『コシャマイン記』の2作品が受賞し、太宰治の『晩年』は落選となりました。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
6 | 太宰治は、『創生期』のなかで佐藤春夫との芥川賞にけるやりとりを暴露しました。佐藤春夫も小説『芥川賞』で、太宰治の妄想癖を書いて反論しました。その内容は以下の通りです。 「第三回芥川賞決定の期がそろそろ近づいて日文夜文に悩まされるころ、太宰は手紙の外に三日にあげず自分の門を敲いた。自分が芥川賞を決定する力があるように思う彼の認識もおかしなものである。というのはこの反対の実例が第一回にきっぱり事実上の結果となって眼前に現れているのを彼は何人よりも明瞭に見た筈ではないか。この認識も滑稽千万であるが、さらに頻繁な手紙や訪問などの懇願が、自分を動かすのに有力だと考える彼の神経も見かけによらず稀代の鈍感なものである」 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
7 | 当時、それほど有名でもない芥川賞に太宰治が執着したのはどうしてでしょうか。 (1)太宰は、精神を安定な状態にするために、パビナールという鎮静剤を常用していたといいます。その費用に、芥川賞の賞金500円を当てたかったという説があります。 1909(明治42)年、太宰治は、青森県北津軽郡金木村(今の五所川原市)に生まれました。 1930(昭和5)年4月、太宰(21歳)は、帝大仏文科入学し、井伏鱒二のもとに出入りします。カフェの女給田部シメ子と心中未遂を起こし、シメ子のみが死亡したが、太宰自身は、起訴猶予となりました。 1931(昭和6)年、太宰(22歳)は、実家で県下有数の大地主の津島家から除籍され、小山初代と結婚しました。 1935(昭和10)年4月4日、太宰治(25歳)は、盲腸炎から腹膜炎を併発して阿佐ヶ谷の篠原病院に入院しました。ここで鎮痛剤として使われたパビナールで、以後、太宰はパビナール依存症となりました。太宰が篠原病院に入院中、同郷の青森出身で義弟の小館善四郎が篠原病院に入院してきました。太宰を見舞いに来た妻の小山初代は、画学生小館善四郎と不倫関係に陥りました。 1936(昭和11)年2月、太宰(26歳)は、第3回芥川賞選考の前、佐藤春夫の世話で済生会芝病院に入院します。 10月13日、第3回芥川賞選考の後、精神病院の東京武蔵野病院に入院します。 1937(昭和12)年、太宰治(27歳)は、妻の小山初代と小館善四郎との不倫を知り、初代を図りましたが、未遂に終わりました。 1938(昭和13)年、太宰(28歳)は、小山初代と離別し、石原美知子と婚約しました。 まさに波乱の半生です。 (2)もう1つの理由は、太宰治にとって、芥川竜之介は尊敬する小説家でした。芥川賞と太宰治とのかかわりは、この第三回までであって、文芸春秋社の文学賞で | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
8 | 太宰治は、芥川賞から離れ、誰にも気兼ねすることなく、独自の道を歩み始めて、やっと自分の生きる道を発見したのでしょうか。 私には、苦手な人物ですが、苦手な人物を理解することで、私自身も脱皮したいと思います。 |