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エピソード

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現代の日本T(1990年〜1992年、海部内閣・宮沢内閣)
 ここでは1990年から1992年を扱います。
 海部内閣・宮沢内閣を扱います。ほめ殺し事件や佐川急便事件が出てきます。
 1990(平成2)年1月3日、公明党は、防衛費のGNP比1%厳守・次期防中止等の新平和政策を発表しました。
 2月2日、総選挙のため5党首がテレビで公開討論を行いました。
 2月5日、都市・地方銀行間のオンライン提携がスタートしました。
 2月18日、@39回衆議院議員総選挙が行われ、自民党275人、社会党136人、公明党45人、共産党16人、民社党14人、社民連4人、進歩党1人、無所属21人が当選しました。自民党、追加も含め、286人で、安定多数を獲得しました。
 2月28日、@77第2次海部俊樹内閣が誕生しました。法相に長谷川信、外相に中山太郎、蔵相に橋本龍太郎、文相に保利耕輔、官房長官に坂本三十次、経済企画庁長官に相沢英之らが就任しました。
 3月5日、社会党委員長に土井たか子が3選されました。
 3月15日、社会党は、党規約から「革命」を削除しました。
 3月23日、国土庁は、「1月1日発表の地価公示価格は暴騰、大阪圏の住宅地は前年比56.1%上昇し、過去最高である」と発表しました
 4月1日、三井銀行は、太陽神戸銀行と合併し、太陽神戸三井銀行と改称しました。
 4月7日、G7は、円安抑制と東欧支援の共同声明を発表しました。
 4月18日、新行革審は、市場開放・公的規制緩和・国民負担率抑制等の内容の最終答申を提出しました。
 4月24日、民社党は、新委員長に大内啓伍、書記長米沢隆を選出しました。
 5月24日、韓国の虞泰愚大統領が来日し、昭和天皇は「痛惜の念」を表明しました。
 5月25日、韓国元首初の衆議院での演説。
 6月4日、東京で、カンボジヤ和平会議が開幕しまた。これは、初の日本での地域紛争解決の和平会議です。
 6月23日、日米首脳は、日米安保条約発効30周年で、継続確認の共同声明を発しました。
 6月23日、海部首相は、首相として初めて沖縄戦没者追悼式に参列しました。
 6月28日、英国の金融専門誌の番付けで、住友・第一勧銀・富士が上位3位を独占しました。
 7月16日、米経済誌『フォーチュン』によると、世界大企業番付6位にトヨタ、9位に日立製作所が入りました。
 8月7日、海部内閣は、韓国政府要求の戦時中の強制連行者名簿の約1割、8万人の名簿保存を発表しました。
 8月20日、海部首相は、多国籍軍への10億ドルの資金援助等の中東支援策を発表しました。
 9月29日、海部内閣は、エジプトなど3国への20億ドル支援等の第2弾を決定しました。
 9月18日、平成2年の防衛白書で、ソ連の「潜在的脅威」を削除しました。
 9月21日、梶山法相は、閣議後の記者会見で、東京・新宿区内の繁華街が東南アジア系など外国人による売春地帯となっていると説明したうえで、「悪貨が良貨を駆逐するというか、アメリカに黒が入ってきて白が追い出される、というように新宿が混住地になっている」と発言し、問題化しました。
 10月17日、梶山法相は、陳謝の書簡を米黒人議員連盟宛てに伝達しました。
 9月24日、自民党の金丸信元副総理・社会党の田辺副委員長を正副団長とする自社両党の訪朝団は、北朝鮮の平壌に入りました。
 9月28日、自社両党の訪朝団は、日本の植民地支配の謝罪と国交正常化を提案しました。
 10月27日、南アフリカの反アパルトヘイト運動の指導者ネルソン=マンデラが来日しました。
 10月28日、反アパルトヘイト運動の指導者であるマンデラは、国会で演説しました。
 11月1日、川崎市は、全国初の行政監察オンブズマン制度を実施しました。
 11月12日、平成天皇は、即位の礼を行いました。
 11月18日、琉球大の大田昌秀名誉教授は、沖縄県知事に当選し、12年ぶりに革新県政が復活しました。
 11月22日、平成天皇は、現憲法下で初の大嘗祭を行いました。
 1991(平成3)年1月22日、平成3年の最高路線価格・都道府県都市の上昇率は平均38.1%に達しました。これは、1987年の42.0%に次ぐ高率でした。
 1月24日、政府・自民党首脳会議は、湾岸戦争支援策として90億ドル(約1兆2000億円)の追加支出・避難民輸送のための自衛隊機派遣等を決定しました。
 1月30日、日本と北朝鮮は、国交正常化の交渉を開始しました。
 2月19日、民社党は、綱領から「民主社会主義」を削除しました。
 3月9日、新宿に新東京都庁が完成しました。費用1600億円、高さ241メートルの日本一の高層ビルになりました。
 3月12日、アメリカのコメ協議会は、千葉健の幕張メッセの国際食品・飲料展に、アメリカ産コメの出店を強行しました。
 4月7日、13都道府県知事選・道府県議選の平均投票率が、史上最低となりました。
 4月8日、都知事に現職の鈴木俊一知事が4選され、自公民推薦の磯村尚徳が敗北しました。自民党の小沢一郎幹事長が辞任し、後任に小淵恵三が就任しました。
 4月22日、静岡市で、バブル経済崩壊後、初のノンバンクの静信リースが倒産しました。
 4月24日、安全保障会議・臨時閣議は、ぺルシャ湾に海上自衛隊の掃海艇派遣を決定しました。
 4月26日、海上自衛隊の掃海艇6隻が出港しました。
 7月23日、社会党の委員長に田辺誠、書記長に山花貞夫が就任しました。
 9月6日、日銀の企業短期経済観測調査(短観)は、5月の前回調査に比べ、景気の減速感を表明しました。
 9月24日、経企庁は、「いざなぎ景気」を超えたと発表しました。
 9月30日、海部首相は、政治改革関連法案廃案の確定を受け、衆院解散という「重大な決意」を表明しました。
 9月30日、借地借家法50年ぶり改正、貸主の権利強化。
 10月5日、竹下派が重大な決意に対して不支持を表明したので、海部首相は続投を断念しました。
 10月10日、自民党の竹下派は、総裁選立候補を断念しました。竹下派の小沢一郎会長代行は、総裁選候補の宮沢喜一・渡辺美智雄・三塚博の3人と個人面接しました。
 10月10日、海部内閣は、バルト3国と外交関係を樹立しました。
 10月14日、橋本龍太郎蔵相は、証券・金融不祥事や元秘書の富士銀行不正融資事件関与等で辞任しました。
 10月22日、海部内閣は、閣議で、南アフリカ共和国に対する経済封鎖解除を決定しました。
 10月27日、自民党の新総裁に宮沢喜一、幹事長に綿貫民輔が就任しました。
 11月5日、@78宮沢喜一内閣が誕生しました。外相に渡辺美智雄、蔵相に羽田孜、文相に鳩山邦夫、通産相に渡部恒三、建設相に山崎拓、国家公安委員長に塩川正十郎、官房長官加藤紘一らが就任しました。
 11月20日、大蔵省は、今年度の税収不足は2兆7000億円との見通しを発表しました。
 11月24日、社会党の嶋崎譲文化教育委員長は、「日の丸」容認の新見解を発声しました。
 11月27日、自民・公明両党、衆院国際平和協力委でPKO協力法案を強行裁決、社共「牛歩戦術」で抵抗。 11月28日、本会議での裁決延期。 12月3日、衆院本会議通過。 12月10日、政府、今国会での成立断念。
 12月9日、日教組は、嶋崎譲文化教育委員長の「日の丸」容認発言の見直しを要請しました。
 12月12日、11月の卸売り物価指数は、96.1で、2年10か月ぶりに下落しました。
 1992(平成4)年1月8日、金丸信は、宮沢首相の要請で自民党副総裁に就任しました。
 1月13日、加藤紘一官房長官は、従軍慰安婦問題で旧軍の関与を認め、公式に謝罪しました。
 1月17日、訪韓中の宮沢首相は、韓国国会で、公式に謝罪しました。
 1月31日、大蔵省は、「平成3年の国際貿易収支は、前年比62%増の1032億ドルの黒字」と発表しました。
 2月9日、参院奈良補選で、政界汚職が争点となり、自民候補が惨敗しました。
 2月19日、経企庁、前年1〜3月をピークに景気は下降期に入ったと発表。
 3月8日、政界汚職が争点となり、宮城補選でも、自民候補が惨敗しました。
 3月27日、国土庁は、公示地価が17年ぶりに下落と発表しました。
 4月1日、太陽神戸三井銀行は、さくら銀行と改称しました。
 5月22日、熊本県の細川護煕前知事は、日本新党を結成しました。
 6月5日、参議院国際平和協力特別委で、自公民は、PKO協力法案を強行裁決しました。
 6月6日、参議院本会議は、社共の「牛歩戦術」を排し、PKO協力法案を可決しました。
 6月11日、衆議院特別委で、PKO協力法案を可決しました。
 6月14日、衆議院本会議で、PKO協力法案を可決・成立しました。
 7月16日、住宅金融専門会社7社の平成4年3月時点の債務が約13兆9700億円と判明しました。
 7月26日、第16回参議院選挙で、初の即日開票が行われ、自民党69人、社会党22人、公明党14、共産党6人、民社党4人、日本新党4人、その他8人が当選しました。自民党が復調し、社会党は不振、連合は0で惨敗でした。
 8月11日、東京証券第1部の平均株価は1万4822円56銭となり、6年4か月ぶりに1万5000円を割りこみました。
 8月28日、金丸信副総裁は、佐川急便からの5億円授受を認め辞任しました。これを佐川急便事件といいます。。
 9月1日、新潟県の金子清知事は、佐川献金疑惑で辞表を提出しました。
 9月17日、PKO部隊の自衛隊第1陣は、呉港から出発しました。
 9月24日、東京外為市場は、史上初めて、1ドル=119円台となりました。
 9月28日、金丸信副総裁は、佐川献金疑惑で、略式起訴されました。
 9月28日、新潟県の金子清知事は、佐川献金疑惑で、起訴されました。
10  10月14日、金丸信副総裁は、議員を辞職し、竹下派会長も辞任しました。
 10月16日、竹下派執行部が総退陣しました。
 10月23日、平成天皇夫妻は、初めて中国を訪問しました。楊尚昆国家首席主催の晩餐会で、平成天皇は、「中国国民に対し多大の苦難を与えた不幸な一時期につき、深く悲しみとする」と反省の発言を行いました。
 10月28日、竹下派会長に小淵恵三が就任しました。
 10月30日、大蔵省は、「都市銀行等21行9月末の不良債権は12兆3000億円、3月末より54%増」と発表しました。
 11月2日、日産は、「9月の中間決算で、初の経常損益142億円」と発表しました。
 11月2日、佐川急便事件の検事調書で、1987年の竹下政権誕生の際に、右翼団体の日本皇民党が「ほめ殺し」をしたので、その対策に金丸信・竹下登らが関与していたことが表面化しました。
 11月5日、金丸信・竹下登らは、右翼団体の日本皇民党に20〜30億円の提示をしていたことが明らかになりました。
 11月3日、衆参両院議員は、政策集団「シリウス」を発足させ、代表幹事に社民連の江田五月代表が就任しました。
 11月26日、衆議院予算委は、竹下登元首相を証人喚問しました。
 11月27日、予算委の与野党理事らは、金丸信を臨床尋問しました。
 12月10日、小沢一郎らは、「改革フォーラム21」を結成しました。
 12月18日、国会議員44人は、「羽田派」を結成しました。
 この項は、『昭和・平成現代史年表』・石川真澄『戦後政治史』などを参考にしました。
海部内閣と宮沢内閣
 激動の平成政治史を取り上げます。
 中曽根内閣、竹下内閣の概略を見ます。
 兵庫県から総理大臣が1人も出ていません。三木派から、河本敏夫がなる可能性がありました。しかし自身が経営する三光汽船が会社更生法により破綻したことや年齢という問題から、同じ三木派の海部俊樹が総理大臣になりました。今の国会議員も見ても、小粒です。兵庫県から総理大臣になるように人物はいません。大粒になるためには、ハッタリやパフォーマンスが必要なんでしょうか。
 海部さんの水玉模様のネクタイが流行になりました。
 その後、保守本流と言われた宮沢内閣が誕生しました。今回は、その当たりを検証してみました。
 1987年5月14日、中曽根総裁の任期が10月30日に迫る中、次期総裁は竹下登・安倍晋太郎・宮沢喜一の3人と見られていました。そこへ、突如、田中派総会で、二階堂進が立候補を表明しました。当時田中派は、衆参で141人いました。宮沢派90人、安倍派83人、中曽根派81人、河本派34人でした。
 7月4日、竹下登は、田中派から113人で独立し、経世会を設立しました。その結果、田中派本流の二階堂は17人となりました。
 10月10日、竹下・安倍・宮沢は、会議を持ち、「誰が総裁になっても売上税で協力し合う」ことを申し合わせました。大平・中曽根内閣の売上税失敗原因を研究し、自営業者らの反発・不安とそれを受けた身民党内の反対論と結論付けました。
 10月20日、中曽根首相は、竹下登を次期総裁に指名し、同時に宮沢を副総理、安倍を幹事長に指名しました。「三角大福中」世代と違う「ニューリーダー」を狙った人事でした。
 11月6日、竹下登は、首相となりました。主要三派に河本派も接近し、二重権力構造となりました。
 1988年3月10日、竹下首相は、衆議院予算委員会で、消費税導入を表明しました。さらに、売上3000万円以下の業者の免税、5億円以下の業者の簡易課税制度などで業界の抵抗をやわらげ、サラリーマンには所得税・住民税の軽減を先行させて反発を緩めました。野党対策として、衆院税制調査特別委員長の金丸信は、膨大な金をばら撒き、公明党・民社党などの協力を得ました。
 4月5日、山中貞則会長の自民党税調は、338の業界団体代表を党本部に招いて意見を聞きました。
 5月31日、山中貞則会長の自民党税調は、「税率3%程度とする」などの方針について、338の業界団体代表を党本部に招いて、二度目の意見を聞きました。
 6月18日、朝日新聞は、川崎市助役に関するリクルート=コスモス株問題を報道しました。
 7月6日、中曽根康弘は、首相在任時、譲渡株で1億4000万円を得たと報じられました。
 11月16日、税制改革関連6法案は、衆院本会議で、社共両党が欠席する中、自民賛成・公民反対という八百長で可決されました。
 12月9日、宮沢蔵相は、リクルート問題の釈明が三転したことから、辞任しました。
 12月24日、税制改革関連6法案は、参院本会議で、可決・成立しました。
 1989年1月7日、昭和天皇(87歳)が亡くなり、元号が平成と改められました。
 4月1日、消費税3%が始まりました。
 4月11日、竹下首相は、衆院予算委員会で、自分と秘書などがリクルートから献金をうけ、さらにパーティ券などの名目で1億5100万円を受け取っている。これ以外のものが出るとは予想していない」と自己調査結果を公表しました。
 4月22日、朝日新聞は、竹下首相の秘書が「1987年の総裁選の時期にリクルート社から5000万円の借金をし、返済をしていた」と報道しました。
 4月25日、竹下首相は、退陣を表明しました。
 6月2日、次期総裁には、伊東正義元外相が有力視されましたが、伊東は「本の表紙だけが変わっても中身が変わらなくては駄目だ」と固辞しました。安倍・宮沢らもリクルート株を譲渡されていたので、中曽根派の宇野宗佑外相が竹下派の支持を受け、両院議員総会で異例の起立多数で選出されました。自民党派閥領袖でない者が総裁になったのは、自民党史上初めての出来事でした。
 6月3日、宇野宗佑内閣が誕生しました。
 6月6日、『サンデー毎日』は、元愛人で神楽坂の芸子の告発を掲載し、女性スキャンダルが表面化しました。アメリカのワシントンポスト紙で「セックススキャンダルが日本の宇野を直撃」と紹介されると、日本でもワイドショーでも取り上げられる騒動となりました。
 6月28日、自民党の糸山英太郎国会対策副委員長が言ったオフレコが「宇野首相、辞意表明か?」と報道されました。
 7月23日、参議院選挙は、リクルート問題・消費税問題・首相の醜聞という3点セットが影響して、社会党は63人当選、自民党は38人が当選しました。その結果、自民党は非改選73人をくわえても111人で、過半数の127人を大きく下回りました。
 8月8日、両院議員総会で、河本派の海部俊樹、宮沢派が支援した林義郎、無派閥の石原慎太郎が立候補しました。竹下派の支援した海部が451票中の279票を得て、新総裁に選出されました。宇野首相は、68日間で退陣することになりました。
 海部俊樹の経歴を調べました。
 1931年に、海部俊樹は、愛知県名古屋市に生まれました。
 1954年、早稲田大学第二法学部(夜間部)を卒業しました。
 1960年、29歳の時、全国最年少で衆議院議員に当選しました。
 1966年、35歳の時、第1次佐藤の労働政務次官になりました。
 1976年、45歳の時、福田内閣の文部大臣になりました。
 1985年、54歳の時、中曽根内閣の文部大臣になりました。
 1989年、58歳の時、ついに、第76代内閣総理大臣になりました。
 1990年2月18日、衆議院選挙で、自民党は前回より18議席減の286人が当選しました。社会党は86人から139人と一人勝ちしました。 
 1991年5月15日、総裁候補の1人安倍晋太郎が死亡しました。
 7月10日、海部首相は、政治改革関連法案を閣議決定しました。海部首相は、選挙制度改革や政治資金の規制強化案を中心にした政治改革こそが、リクルート事件で傷を負った安倍・宮沢・中曽根派を継承した渡部美智雄らの復権を阻んで、自分の内閣の延命になると考えていました。
 9月30日、政治改革特別委員会で、委員長の小此木彦三郎は、審議日数の不足を理由に廃案にすることを決めしました。それに対して、海部首相は、「重大な決意」で事態を打開したいと、衆院解散を匂わせました。竹下派は、解散反対と続投不支持を通告しました。
 10月5日、60歳の時、内閣総理大臣を辞任しました。
 10月10日、竹下派の会長代行である小沢一郎は、自分の事務所に、宮沢・渡部・安倍派の後継者である三塚博を別々に招いて政策を聞きました。
 10月11日、竹下・金丸・小沢の三者で会談し、派閥総会を経て、宮沢喜一を総理に推薦しました。小沢面接は竹下派の強引な支配として世間の話題となりました。
 11月5日、宮沢内閣が誕生しました。
 1992年2月24日、東京地検は、東京佐川急便の渡辺広康社長ら4人を特別背任容疑で逮捕しました。乱発した債務保証は数千億円といわれ、この内回収不能は950億円にのぼりました。その大半は暴力団・右翼団体に流れ、20億円は政治家への裏金としてばら撒かれました。
 8月22日、朝日新聞は、金丸信が佐川急便から5億円の裏金を受け取っていたことを報じました。
 8月27日、金丸信は、この事実を認めて自民党副総裁を辞任しました。
 9月22日、竹下元首相のほめ殺し事件が発覚しました。これは、佐川急便も渡辺広康元社長の初公判で、竹下派と暴力団との結ぶつきが暴露されました。それは、1987年の自民党総裁選で竹下が立候補した時に、右翼団体である日本皇民党は「金儲けの上手な竹下さんを総理にしよう」というほめ殺しというやり方で竹下を攻撃しました。
 困った竹下は、竹下派の会長である金丸信副総裁に相談しました。金丸は、東京佐川急便の渡辺広康社長に皇民党の活動を中止するよう依頼しました。渡辺社長は、広域暴力団稲川会の石井進前会長に相談しました。
 石井前会長は、皇民党の稲本虎翁総裁に街宣活動の中止を要請しました。皇民党は、ほめ殺し中止の条件として、田中元総理に対する竹下登の謝罪を要求したといいます。数日後の、10月6日、竹下登は、突如、田中邸を訪問しましたが、田中角栄の娘真紀子により門前払いされした。しかし、この後、日本皇民党の竹下に対する「ほめ殺し」はなくなりました。
 9月25日、東京地裁は、政治資金規正法違反で、金丸を略式起訴しました。
 9月26日、5億円の裏金に対する金丸信への罰金が20万円と聞いた二院クラブの青島幸男は、抗議のハンストに入りました。
 9月27日、青島幸男は、ハンストを30時間以上経過した段階で脱水状態のために、緊急入院し、ハンストは中止となりました。しかし、金丸の議員辞職を求めるはがき運動に呼応した38万通のはがきが寄せられました。
 10月14日、金丸は、議員を辞職しました。
 12月18日、金丸会長の後継人事をめぐって、竹下派には内紛がおこりました。その結果、羽田派は小沢一郎・羽田孜・渡部恒三・奥田敬和ら衆院35人・参院9人、小渕派は小渕恵三・橋本龍太郎・梶山静六ら衆院32人・参院34人に分裂しました。
 1994年、63歳の時、自民党を離党して、新進党の初代党首に就任しました。
 2000年、69歳の時、保守党の最高顧問に就任しました。
 2002年、71歳の時、保守新党の最高顧問に就任しました。
 2003年、72歳の時、保守新党が自民党と合流したので、自民党に復党しました。
 以上見たように、夜間の大学を出て、総理大臣になり、少数野党から、自民党に復党するという苦労人です。
 海部さんのエピソードに戻ります。苦労人の海部さんを彷彿とさせます。
(1)海部俊樹は、三木武夫の秘蔵っ子です。また海部は、クリーンな政治家三木を尊敬し、「理想の政治家は誰ですか?」と問われると、「三木武夫」と答えていました。三木武夫が総裁選で田中角栄に敗れた時は、号泣したといいます。
(2)海部俊樹は、三木派の後継者である河本敏夫を支えてきました。しかし、若手議員の面倒を見るのが苦手だったのか、若手から海部俊樹(かいふとしき)をもじって「財布閉じき(さいふとじき)」と言われていました。
(3)早稲田大学の夜間部卒業でありながら、雄弁会の先輩として竹下登と親交を深かめた所は、抜け目がありません。「現住所河本派・本籍竹下派」と揶揄されり所以です。「竹下が総理になった暁には、河本派を離脱して竹下のもとに馳せ参じるだろう」と信じられていました。

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