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エピソード

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現代の日本U(1993年〜1995年、細川内閣・羽田内閣・村山内閣)
 ここでは1993年から1995年を扱います。
 羽田内閣・村山内閣を検証します。
 1991(平成3)年11月5日、@78宮沢喜一内閣が誕生しました。
 1993(平成5)年1月6日、社会党委員長に山花貞夫が就任しました。
 1月19日、書記長に赤松広隆が就任して、新執行部が発足しました。
 2月17日、衆議院予算委員会は、佐川急便事件で、小沢一郎元幹事長・竹下登元首相を証人喚問しました。
 4月6日、副総理で、渡辺美智雄外相は、健康問題で辞任し、後任の副総理に後藤田正晴法相、外相に武藤嘉文が就任しました。
 5月6日、大蔵省は、「経常収支の黒字は前年比39.7%増の1260憶7600万ドルで過去最高」と発表しました。
 5月13日、PKO協力法により、自衛隊がモザンビークに到着しました。
 6月14日、衆参両院議員の資産が初公開されました。
 6月18日、内閣不信任案が賛成255で可決され、衆議院が解散されました。
 6月21日、自民党離党者10人は、新党さきがけを結成し、代表に武村正義が就任しました。
 6月23日、自民党羽田派44人は、新生党を結成し、党首に羽田孜、代表幹事に小沢一郎が就任しました。
 6月27日、東京都議選で、日本新党が大躍進し、社会党が敗退しました。
 6月30日、衆参両院議員の所得が初公開されました。
 7月7日、東京での第19回サミットで、国連の機能強化・核拡散防止等を声明しました。
 7月18日、@40回衆議院議員総選挙が行われ、自民党223人、社会党70人、新生党55人、公明党51人、日本新党35人、共産党15人、民社党15人、さきがけ13人、社民連4人、無所属30人が当選しました。自民党は横ばい、日本新党・新生党は躍進、社会党は惨敗しました。
 7月22日、宮沢首相が退陣を表明しました。
 7月30日、自民党両院議員総会で、自民党総裁に河野洋平を選出しました。
 8月6日、社会党の土井たか子元委員長は、初の女性衆議院議長に就任しました。
 8月6日、衆参両院で、日本新党の細川護煕代表を首班に指名しました。
 8月9日、@79細川護煕内閣が誕生しました。これは非自民6党の連立内閣です。外相に羽田孜、蔵相に藤井裕久、文相に赤松良子、官房長官に武村正義、経済企画庁長官に久保田真苗、科学技術庁長官に江田五月、環境庁長官に広中和歌子ら民間人や女性が多数就任しました。自民党38年の政権に幕が降りました。これを55年体制の終焉といいます。
 8月10日、細川首相は、記者会見で先の戦争は「侵略戦争」と明言しました。
 8月15日、細川首相は戦没者追悼式で、アジア近隣諸国などの犠牲者に哀悼の意を表明しました。 8月23日、細川首相は、所信表明演説で、「侵略行為や植民地支配に深い反省とおわび」を表明しました。
 9月4日、政治改革担当大臣であり、社会党の山花貞夫委員長は、初めて韓国を訪問しました。
 9月17日、細川内閣は、小選挙区比例代表並立制・政党活動への助成金支出等の政治改革関連4法案を国会に提出しました。
 9月20日、社会党委員長選挙で、政治改革法案賛成の村山富市は、反対の翫正敏を破り当選しました。
 9月25日、社会党の定期大会で、書記長に久保亘を選出しました。
 10月11日、ロシアのエリツィン大統領が来日し、北方領土の4島問題や平和条約締結による対日国交正常化に意欲を示しました。
 11月4日、農水省は、「冷害・台風による農作物被害は1兆2120億円で戦後最悪」と発表しました。
 11月6日、細川首相は、韓国を訪問し、金泳三大統領と会談して、「加害者としての反省と陳謝」を表明しました。
 11月18日、衆議院本会議で、政治改革関連4法案が可決されました。
 12月2日、中西啓介防衛庁長官は、憲法見直し論を発言し、国会が混乱した責任をとって辞任しました。後任の防衛庁長官に新生党の愛知和男が就任しました。
 12月1日、闇将軍といわれた田中角栄(75最)が死亡しました。
 1994(平成6)年1月3日、自治省は、「1992年度地方税は19年ぶりの減収」と発表しました。
 1月21日、参議院本会議で、社会党等連立与党の造反者のため、政治改革関連法案が否決されました。
 1月24日、自動車生産台数は、前年比で10.2%減少し、これで3年連続の減少となりました。
 1月24日、140社のスーパーの平成5年度の売上高は、前年比で2.4%減少し、初の前年割れを記録しました。
 1月25日、日本百貨店協会加盟118社の売上げも2年連続で減少しました。
 1月29日、両院協議会で、施行期日抜きの成案を作成し、両院で可決・成立させました。
 2月3日、細川首相は、3年後の消費税廃止・国民福祉税の導入を発言しました。
 2月4日、細川首相は、3年後の消費税廃止・国民福祉税の導入を白紙撤回しました。
 2月17日、米商務省は、「対日貿易赤字593億ドルで過去最高」と発表しました。
 3月4日、参議院本会議は、小選挙区比例代表並立制導入など政治改革関連4法案を可決しました。
 4月8日、細川首相は、佐川急便グループからの1億円借金問題等で、国会が空転して、辞意を表明しました。
 4月8日、衆議院のさきがけ・日本新党が解消され、日本新党38人と社民連2人が統一会派である改革を結成しました。
 4月22日、新生・公明・社会等の連立与党は、新生党の羽田孜党首を首相候補に擁立しました。
 4月25日、衆議参本会議で、新生党の羽田孜党首を首班に指名しました。直後、新生・日本新・民社・自由・改革の会の5党派は、改新を結成しました。
 4月26日、社会党は、信義違反と連立を離脱しました。
 4月28日、@80羽田孜内閣が少数与党で発足しました。外相に柿沢弘治、蔵相に藤井裕久、文相に赤松良子、農相に加藤六月、労相に鳩山邦夫らが就任しました
 5月7日、永野茂門法相は、「南京虐殺事件でっち上げである」と発言して辞任しました。
 5月10日、寺沢芳男経企庁長官は、「5月で不況は37か月目、戦後最長の不況」と報告しました。
 6月2日、大蔵省は、「1993度分の税収不足は、1兆円に迫る」と発表しました。
 6月5日、民社党大会で、委員長に米沢隆を選出しました。
 6月21日、ニューヨークの外為市場で、1ドル=99.85円となりました。
 6月25日、羽田首相は、社会党の連立復帰の可能性なく、臨時閣議で総辞職を決定しました。
 6月29日、自民党は、社会党の共同政権構想を受諾し、自・社・さきがけ3党が社会党の村山富一委員長を擁立しました。村山富一は、海部俊樹元首相との決戦投票で、首班に指名されました。
 6月30日、@81村山富一内閣が誕生しました。副総理・外相に河野洋平、蔵相に武村正義、文相に与謝野馨、通産相に橋本龍太郎、運輸相に亀井静香、郵政相に大出俊、国家公安委員長に野中広務、科学技術庁長官に田中真紀子らが就任しました。
 7月20日、村山首相は、臨時国会で、自衛隊合憲の所信を表明しました。
 7月21日、村山首相は、日の丸・君が代の学校での指導を容認しました。
 8月1日、社会党全国代表者会議は、村山首相の自衛隊合憲などのに批判が相次ぎました。
 8月12日、桜井新環境庁長官は、「日本は侵略戦争をしようと思って戦ったのではない。アジアはそのおかげで植民地支配から独立した」などと発言し、それが問題化して辞任しました。
 9月3日、社会党大会は、村山談話を受けて、政策転換を承認しました。
 9月22日、村山内閣は、臨時閣議で、平成 消費税5%に引上げることを決定しました。
 10月12日、村山首相は、衆議院予算委員会で、原発の新設も容認しました。
 11月2日、年金改革関連法が成立しました。
 11月21日、小選挙区の区割り法が成立しました。
 12月8日、新生・公明党らは、新進党を結成し、議員数は214人となりました。党首に海部俊樹、代表幹事に小沢一郎が就任しました。公明党は、新進党参加の公明新党と残留の公明に分党しました。
 1995(平成7)年1月4日、村山富市首相は、伊勢神宮参拝を中止しました。
 1月7日、山花貞夫ら社会党議員は、「新民主連合」結成準備会を発足させました。
 1月17日、阪神大震災があり、政治休戦に入りました。
 1月20日、村山首相は、北海道・沖縄開発庁長官の小里貞利を阪神大震災被災者救済等担当大臣に任命しました。
 1月24日、日本自動車工業界は、「1994年の自動車生産台数は、前年比6%減の1055万台で4年連続減少」と発表しました。
 1月27日、百貨店業界は、「1994年の百貨店売上は、2月6%減の11兆200億円」と発表しました。スーパー業界は、「1月6%減の10兆7600億円で、3年連続前年割れ」と発表しました。
 1月27日、住友銀行は、「ノンバンク向け等の不良債権処理で経常損益2800億円」と発表しました。都銀の赤字は、戦後の混乱期以降初めてです。
 2月10日、村山内閣は、閣議で、「阪神・淡路復興委員会」設置を決定しました。
 4月7日、村山首相は、社会党首相として、伊勢神宮に初めて参拝しました。
 4月7日、五十嵐広三官房長官が、従軍慰安婦への償いに民間団体設置構想を発表しました。
 4月9日、統一地方選挙知事選で、東京は青島幸男、大阪は横山ノックのタレント出身者が当選しました。
 4月19日、東京外為市場は、1ドル=79.75円の史上最高値を記録しました。
 5月16日、与謝野馨文相は、宗教法人法見直し準備を指示しました。
 5月19日、地方分権推進法が公布されました。
 6月9日、衆議院は、戦後50年国会を決議し、「侵略」「植民地支配」を「世界の近代史上」に曖昧化しました。
 6月20日、経企庁は、「1994年度のGDP実質成長率0.6%は、1987年度以来」と発表しました。
 7月3日、東証株価は1万4485円41銭で、今年最安値を記録しました。
 7月23日、第17回参議院選挙があり、自民党49人、新進党40人、社会党16人、さきがけ3人、共産党8人が当選しました。与党が改選議席で、過半数を得ました。
 8月8日、村山富一首相は、内閣を改造しました。
 8月9日、島村宜伸文相は、「侵略戦争は考え方の問題である」と発言し、韓国のマスコミ・外務省が批判しました。
 8月15日、村山首相は、戦後50年と題して談話を行い、「植民地支配と侵略につきアジア諸国にお詫び」を表明しました。
 8月29日、村山内閣は、閣議で、中東・ゴラン高原の国連兵力引き離し監視軍に自衛隊の派遣を決定しました。
10  9月14日、大蔵省は、「住専の不良債権は8兆4000億円である」と発表しました。
 9月19日、国土庁は、「7月1日現在の基準地価は4年連続下落している」と発表しました。3大都市圏の地価も5年連続で下落しました。
 9月22日、自民党総裁選で、第17代総裁に橋本龍太郎が選出されました。
 11月8日、韓国の東亜日報は、「江藤隆美総務庁長官の10月の朝鮮植民地支配の合理化発言」を批判しました。
 11月13日、江藤隆美総務庁長官は、朝鮮植民地支配の合理化発言で辞任しました。
 12月8日、改正宗教法人法が成立しました。
 12月8日、村山首相は、沖縄の米軍用地強制使用の代理署名拒否に関し、沖縄県知事を提訴しました。
 12月20日、村山内閣は、臨時閣議で、住専7社の不良債権処理のため6850億円の財政資金投入を決定しました。
 12月27日、新進党党首選で、小沢一郎が当選しました。
 この項は、『昭和・平成現代史年表』・石川真澄『戦後政治史』などを参考にしました。
細川内閣・羽田内閣・村山内閣
 細川護煕さんて、小泉ブームの影響で、もう忘れている人もいるかも知れませんね。1993年の頃は、細川ブームだったんですよ。
 小泉さんは、祖父も父も衆議院議員というサラブレッドです。
 細川護煕さんは、戦国時代のヒロインである細川ガラシャの夫細川忠興がルーツです。その後江戸時代は熊本藩主でした。明治時代は、公・侯・伯・子・男の五爵でいえば、侯爵の細川家です。細川護煕さんの母は、公爵で首相の近衛文麿の娘さんです。護煕さんの父護貞は、近衛首相の秘書官でした。
 細川護煕さんは、参院議員から熊本県知事になり、その後、国会議員になり、ついに総理大臣の上り詰めました。
 大きなマフラーを首に巻いて、キザな格好で、記者会見をしていました。
 まず細川護煕さんを検証します。
 1938年、細川護煕さんは、東京で生まれました。
 1963年、25歳の時、上智大学を卒業して、朝日新聞に入社しました。
 1969年、31歳の時、衆院選で、熊本1区から立候補しましたが、この時は落選しています。
 1971年、33歳の時、参議院全国区から立候補して、初当選しました。最年少議員でした。
 1974年、36歳の時、三木内閣の副幹事長となりました。
 1983年、45歳の時に、熊本県知事に当選しました。
 1992年、54歳の時に、日本新党を結成し、4議席を獲得し、新党ブームのきっかけとなりました。
 1993年3月6日、東京地検は、金丸信を、18億5000万円の所得隠しによる巨額脱税容疑で逮捕しました。
 4月6日、後藤田正晴が副総理に就任しました。
 4月13日、自民党は、単純小選挙区制導入を柱とする政治改革法案を提出しました。社会・公明両党は、ドイツ型の小選挙区・比例代表併用案を軸とする法案を提出しました。
 4月24日、細川護煕率いる日本新党が地方選で、連戦連勝しました。
 5月24日、野党6会派(社会・公明・民社・社民連・民主改革連合・日本新党)は、連用制を軸にするということで合意しました。社会党の武藤山治・佐藤観樹は、自民党妥協派147人の海部俊樹・三塚博らと接触しました。自民党非妥協派100人の中尾栄一・石原慎太郎・島村宜伸・平沼赳夫・村岡兼造・佐藤信二は、真の政治改革を推進する会を党内に結成し、単純小選挙区制を求めることで一致しました。
 5月31日、「総理と語る」という番組で、宮沢総理は、田原総一朗に「絶対に今国会でやってしまわなければならない。私はやりますから」と公言してしまいました。宮沢総理は、小選挙区並立制で定数275なら妥協できるだろうと考えたといいます。
 6月14日、梶山静六幹事長は、「改革は次の参院戦後」と発言し、選挙制度の変革を先送りする意向を表明しました。自民党内の改革派である羽田孜らは「3年半の努力を反故にされた」と反発しました。
 6月18日、内閣不信任案が賛成255人(そのうち自民党羽田派ら39人)、反対220人、欠席16人(全て自民党)で可決されました。
 6月18日、宮沢首相は、衆議院を解散しました。
 6月21日、竹村正義は、新党さきがけ10人を結成しました。園田博之・簗瀬進・岩屋毅らが参加しています。
 6月22日、羽田派44人が離党しました。鳩山邦夫は離党りました。その結果、自民党の議席は222人となりました。
 6月23日、新生党を結成し、羽田孜が代表、小沢一郎が代表幹事に就任しました。
 6月23日、海部俊樹元首相は、自民党内に党内改革派を結集し、政治改革推進議員連盟を結成しました。83人が参加しました。
 6月24日、新生党の羽田孜代表は、社・公・民社・社民連と個別に会談しました。非自民・非共産連立政権の樹立を目指すことで合意しました。この時、社会党の山花貞夫委員長・赤松広隆書記長は、「羽田首相でよい、外交防衛は自民党政権の方針継続、小沢ら新生党の金権疑惑は小事」などと公言し、世のヒンシュクを買いました。
 6月27日、東京都都議選があり、日本新党の一人勝ちで、自民党は微増、社会党は惨敗、金竹小ラインといわれた新生党は全敗という結果でした。
 7月18日、総選挙が行われ、自民党は1増の223人で過半数割れとなりました。社会党は65減の70人と半減、新生党は19増の55人、公明党は6増の51人、、日本新党は35人、新党さきがけは3増の13人となりました。これをもって55年体制の崩壊といいます。
 7月19日、新生党の小沢一郎は、「今日から潜る」と言って、姿を消しました。
 7月20日、自民党の深谷隆司は、「自民党を出ていった連中に哀訴嘆願してまで政権を守ることはよそう」と下野論を主張しました。
 7月22日、自民党は223人、非自民非共産の5党は208人でした。細川護煕の日本新党35人・新党さきがけ13人が政権のキャスティングボートを握っていました。細川は新生党を「今まで自民党の中枢にいて権力抗争で自民党から出てきた人たち。改革派と称しているが、いかがわしい人たち」と批評していました。小沢一郎は、少数党の党首に「総理の椅子」を用意して、自民党政権の時代に終止符を打ちました。細川は「やりましょう」と応えました。
 7月22日、宮沢首相は、「選挙結果に責任をとる」として、退陣を表明しました。
 7月23日、小沢一郎は、「俺の仕事は終わったよ」と言って、姿を現しました。
 7月25日、自民党総裁を打診された後藤田正晴は、「100%ない」と不出馬を表明しました。
 7月26日、並立制反対に反対だった社・公・民社3党は、並立制に合意しました。この時、連合の山岸章会長は、社会党の山花貞夫委員長に「青酸カリ以外は全部飲め」と言ったということです。
 7月30日、自民党総裁選で、河野洋平208票は、渡辺美智雄159票を破り、総裁となりました。
 8月3日、土井たか子は、社会党の山花委員長の衆院議長就任要請を受けました。土井は、「社会党が新生党に埋まってしまう」と抵抗しましたが、最終的には受諾しました。
 8月6日、土井たか子は、衆議院議長に就任しました。
 8月6日、細川は262票、河野は224票で、細川内閣が誕生しました。閣僚には社会党6人、新生党5人、民間2人、女性3人という構成でした。河野洋平は、総裁でありながら総理にはなれませんでした。
 8月12日、細川内閣の支持率は83%に達しました(産経新聞)。
細川内閣の閣僚名簿
閣僚 氏名 政党 閣僚 氏名 政党 閣僚 氏名 政党 閣僚 氏名 政党
総理 細川護煕 日本新 外務 羽田孜 新生 文部 赤松良子 民間 厚生 大内啓伍 民社
法務 三ヶ月章 民間 大蔵 藤井裕久 新生 農水 畑英次郎 新生 通産 熊谷弘 新生
運輸 伊藤茂 社会 郵政 神崎武法 公明 労働 坂口力 公明 建設 五十嵐広三 社会
自治 佐藤観樹 社会 国務 上原康助 社会 防衛 中西啓介 新生 経企 久保田真苗 社会
科技 江田五月 社民連 環境 広中和歌子 公明 特命 山花貞夫 社会 官房 武村正義 さき
補佐 田中秀征 さき             総務 石田幸四郎 公明
 8月27日、与党の政治改革案である小選挙区250・比例250・二票制が発表されました。自民党は、小選挙区300・比例171・1票制を発表しました。
 9月25日、村山富市は、社会党党首に就任しました。
 12月15日、衆議院を45日間会期延長して、政治改革4法案を強行採決しました。これには反対の自民が欠席し、与党の社会党から6名が造反して欠席しました。
 12月24日、細川首相は、「公約守れずすみません。来年の1月29日までに政治責任をかけ実行します」と声明しました。
 1994年1月21日、参議院本会議で、自民党と与党社会党の反対で否決されました。
 1月28日、細川首相は、自民党総裁の河野洋平とトップ会談し、修正成立の合意案をまとめました。
 1月29日、政治改革4法案は、施行期日を明記しない形で、可決成立しました。
 3月4日、政治改革4法案は、修正成立しました。小選挙区300人・比例区200人並立制、国が政党に年間300億円の資金を支出する政党助成法が成立しました。
 4月8日、細川首相が突如辞任を発表しました。東京佐川急便からの1億円の借金と、別の金銭疑惑が浮上したからでした。
 4月25日、新生党・日本新党・公明党・民社党などは、社会党を除く形で統一会派の改新を結成しました。その結果、社会党が反発しました。
 4月26日、羽田孜は、社会党の連立政権復帰を説得しましたが、社会党は、連立政権を離脱することを発表しました。
 4月28日、羽田孜内閣が誕生しました。しかし、少数与党内閣でした。この背景には、新生党の小沢一郎と公明党の市川雄一の一・一ラインによる強引な手法に反発する動きがあったとされています。
 6月25日、連立与党と社会党との間の政策協議は決裂し、自民党は内閣不信任案を衆議院に提出しました。内閣不信任案の成立が不可避と判断した羽田首相は、内閣総辞職をしました。在任期間は64日で、宇野内閣の68日より短命で、東久邇内閣53日・石橋内閣64日に次ぐ戦後3番目の短命政権でした。
羽田内閣の閣僚名簿
閣僚 氏名 政党 閣僚 氏名 政党 閣僚 氏名 政党 閣僚 氏名 政党
首相 羽田孜 新生 法務 永野茂門 新生 外務 柿沢弘治 自由 大蔵 藤井裕久 新生
文部 赤松良子 民間 厚生 大内啓伍 民社 農林 加藤六月 新生 通産 畑英次郎 新生
運輸 二見伸明 公明 郵政 日笠勝之 公明 労働 鳩山邦夫 改革 建設 森本晃司 公明
自治 石井一 新生 官房 熊谷弘 新生 総務 石田幸四郎 公明 防衛 神田厚 民社
経企 寺沢芳男 新党 科技 近江巳記夫 公明 環境 浜四津敏子 公明 国土 左藤恵 新生
10  6月30日、自民・社会・さきがけ3党連立で、社会党の村山富市委員長を首相とする内閣が誕生しました。自民・さきがけ227人、改新・公明183人、社会党74人で、今度は、社会党がキャスティングボートを握りました。権力奪還に執念を燃やす自民党は、社会党に「総理の椅子」を用意したのです。
 7月18日、村山首相は、臨時国会で、日米安保体制の堅持・自衛隊の合憲・日の丸と君が世の容認などの見解を表明しました。その結果、保守政治に対峙してきた革新が消滅したため、対立概念を失った保守は保守と限定する必要がなくなり、全体的の右傾化が始まりました。
 12月10日、小沢一郎が主導して、旧連立の新生党・民社党・日本新党などは相次いで解党し、新進党を結成しました。自民党の両院議員295人で、新進党の両院議員214人で、二大政党の兆しが見えてきました。
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村山内閣の閣僚名簿
閣僚 氏名 政党 閣僚 氏名 政党 閣僚 氏名 政党 閣僚 氏名 政党
首相 村山富市 社会 法務 前田勲男 自民 外務 河野洋平 自民 大蔵 武村正義 さき
文部 与謝野馨 自民 厚生 井出正一 さき 農林 大河原太一郎 自民 通産 橋本龍太郎 自民
運輸 亀井静香 自民 郵政 大出俊 社会 労働 浜本万三 社会 建設 野坂浩賢 社会
自治 野中広務 自民 官房 五十嵐広三 社会 総務 山口鶴男 社会 防衛 玉沢徳一郎 自民
経企 高村正彦 自民 科技 田中真紀子 自民 環境 桜井新 自民 国土 小沢潔 自民

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