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エピソード

304_05

大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判(3)
 大江・岩波沖縄戦裁判も3回目となりました。
 今回は、原告側の梅澤裕氏の独占手記を紹介します。
 同じく、この裁判を支援している藤岡信勝氏(「新しい歴史教科書をつくる会」会長)の「大江健三郎”勝訴”深見判決を斬る」・「沖縄タイムスの”不都合な真実”」を紹介します。
 最後に、飯嶋七生氏の「母の”遺言”はなぜ改変されたか」を紹介します。
 出典は、緊急増刊『沖縄戦-集団自決』WiLL8月号です。たくさん引用しています。感謝します。
 ここで、「Wikipedia」の要点を紹介します。
 沖縄戦の「集団自決」について、岩波書店発行の書物『沖縄ノート』(著者:大江健三郎 発行:1970年)、『太平洋戦争』(著者:家永三郎 発行:1968年 文庫本として2002年に発行)及び『沖縄問題二十年』(著者:中野好夫、新崎盛暉 発行:1965年)で書いた内容が、当時の座間味島での日本軍指揮官梅澤裕(うめざわゆたか)および渡嘉敷島での指揮官赤松嘉次(あかまつよしつぐ)が住民に自決を強いたと記述し名誉を傷つけたとして、梅澤裕および赤松秀一(赤松の弟)が、名誉毀損による損害賠償、出版差し止め、謝罪広告の掲載を求めて訴訟を起こした。
 2005年8月大阪地方裁判所に提訴され、2008年3月に第一審判決となった。判決では、集団自決に対する旧日本軍の関与を認めた一方、それが隊長の命令であったかの判断は避けたが、「大江の記述には合理的な根拠があり、本件各書籍の発行時に大江健三郎等は(命令をしたことを)真実と信じる相当の理由があったと言える」として、名誉棄損の成立を否定し、原告の請求を棄却した。原告側は判決を不服として控訴したが、大阪高裁も2008年10月に地裁判決を支持して控訴を棄却し、原告側はただちに最高裁に上告した。
 原告側の主張
梅澤裕、赤松嘉次は「集団自決」命令を発していない
各書で梅澤裕、赤松嘉次が「集団自決」命令を発したと書いた
被告大江は「沖縄ノート」で、原告らを「罪の巨塊」「屠殺者」「ペテン」などと名誉を毀損した
命令によるとの証言は援護法適用のためのものである
宮城晴美著書により、梅澤裕が命令を発していない事が明らかである
曽野綾子著書により、赤松嘉次が命令を発していない事が明らかである
 被告側の主張
梅澤裕、赤松嘉次は「集団自決」命令を発した、もしくは発したと信じる十分な理由がある
「沖縄ノート」では、梅澤、赤松の実名を一切記述しておらず、個人攻撃にはあたらない
「沖縄ノート」の記述にある「罪の巨塊」とは集団自決で死んだ多数の死体を指す言葉であり、これを名誉毀損とするのは原告側の誤読である
梅澤命令説、赤松命令説は、援護法適用以前から存在する。それを示す多数の資料や文献が存在する
宮城晴美の著書はむしろ、軍命があったことを裏付けている。宮城の母と梅澤氏とのやりとりの内容は、原告の主張とは大きく隔たっている
曽野綾子は、当時兵事主任で赤松隊の命令を伝達した富山氏に1969年に取材し、「軍命」の証言を得ているにも関わらず「会ったことはない」と虚偽の証言をしている。著書「ある神話の背景」は、一方的な見方で不都合な要素を切り捨てており、信用性があるとは言えない
 私は、法律のプロではありません。しかし、今春(2009年4月)より、弁護人制度が導入されます。私は、その弁護人任命されたとして、この問題を考えたいと思います。
 大阪地裁・高裁では、既に判決が出ています。判決文を利用すると、簡単に裁判上の結論は出ています。しかし、私は、今の段階では、原告側の立場の人の証言のみを証拠にして、私の考えを疑問という形で提示したいと思います。
 判決文を見ていない私は、前回、次のような疑問を提示しました。
 渡部昇一氏の記事は、非常に説得力があります。軍命令があれば、援護法の適用を受け、村人には年金が支給される。村人の懇願を受けて、@梅澤元少佐らが偽の「軍命令」を出したというのです。
 軍規に反して軍命令を出すことは厳罰です。A宮里盛秀氏が梅澤元少佐に与えたという証文はあるのでしょうか。これは梅澤元少佐の無実を証明する非常に重要な証拠です。
 公式書類等を偽造したという照屋昇雄氏は、偽造された「軍命令」の書類をどのような扱ったのでしょうか。
 B厚生省に提出した偽造の公式書類等は存在するのでしょうか。

梅澤裕氏の「梅澤元少佐独占手記」(44頁〜)
 緊急増刊『沖縄戦-集団自決』8月号の梅澤裕氏の記事(44〜57P)を検証してみました。
玉砕の武器を下さい
(1)梅澤氏:夜10時頃、村の幹部ら5人が来て、驚くべきことを言い出したんです。その5人とは役場の助役・宮里盛秀、収入役の宮平正次郎、小学校長・玉城政助、役場の事務員、及び女子青年団長宮城初枝でした。助役が代表してこう言いました。
 「いよいよ最後の時が来ました。・・私たちは島の指導層だから、知らん顔できないから一緒に死にます。
 C村の忠魂碑前の広場に女子供、老人をはじめ、みんなを集めるから、・・手榴弾をください。そうしないと、私たちは死ねと言われてもどうやって死んだらいいかわからんのです」
 ・・私がこんこんと「死ぬ必要はない」と止めているのに、(村の助役・宮里盛秀は)「覚悟は出来ています」と言って聞かない。それで私は怒鳴りつけたんですよ、「弾丸はやれない、帰れ」と。
確認1:本人しか知りえない状況が生々しく記録されています。
 自決を覚悟している村人を前に「弾丸はやれない、帰れ」と怒鳴りつけたと梅澤氏は証言しています。非常事態を感じた私なら、現場に直行して、言葉でなく、体で、自決を思いとどまらせるでしょう。
D梅澤氏の命令がなくても、村長の一存で自決ができるのでしょうか。
島民たちの豹変
(2━1)梅澤氏:しかしその幼老婦女子の集団自決が発生してしまった。
 集団自決が問題になってから、我々生存者が訪島し、軍民慰霊祭(筆者注:1970年3月28日)に参加したとき、宮城初枝は再会を喜び、その際「隊長は自決をとどめ、弾丸はやれないと厳しく断った」と言いました。私は感動し、初枝に感謝したのです。
(2━2)梅澤氏:しかしその後、善良な島民達は豹変してしまった。役場側は梅澤を自決命令の張本人と言うようになりました。渦中の人物となった初枝は村から圧力を受け、梅澤を守ろうとしながらも、村の強要に苦しんだ。そして「梅澤隊長は3月25日の夜、村の幹部の申し出を断った」と言いながらも、弾丸を渡さなかったときの状況を「今晩は一応お帰りください」と私が語ったという。
 村人が玉砕を申し出ているという切羽詰まった重大な場面で、なんで私が「今晩は一応お帰りください」などと、生易しいことを言うのでしょうか?
 政府からの補償をもらうしか村の生き残りの道がないと判断した村の圧力で宮城初枝は相当いじめられた果てのことです。厚生省の補償金を申請し、役人が村へ調べに来た時に、簡単に「ハイ」「イイエ」で返事をしろといわれた。隊長が命令をしたんだろう、と開かれて、「ハイ」と一言だけいったんだ、初枝は。
 それを見ていて「黙っていられない」というのが娘の宮城晴美でした。…
 隊長が住民に自決命令を出したという記事は、昭和33(1958)年、『週刊朝日』と『サンデー毎日』が最初に書きました。びっくりしました。
確認2:(2━1)の証言は日時・場所まで正確ですが、軍民慰霊祭で宮城初枝と再会した年月日や場所がどこにも記載されていません。1958年に週刊誌が「隊長が住民に自決命令を出した」という記事を見てびっくりしたのに、それを確認したのが、1970年の軍民慰霊祭の時です。12年も経っています。しかも、偶然、宮城初枝と再会した時、彼女から「隊長は自決をとどめ、弾丸はやれないと厳しく断った」と聞かされ、感動しているのです。
 私なら当然、記事を目にしたら、全てをなげうって、事実の解明に向かうでしょう。のんびりな性分とはいえ、12年の空白はどう理解したら言いのでしょうか。
(2━2)「今晩は一応お帰りください」という内容は、宮城初枝氏の娘晴美氏が書いた『母の遺したもの』という本に書いています。2000年12月に出版です。梅澤氏が指摘するように、この発言は生易しくはありません。当然、訂正を求めたのでしょうか。
 しかし、梅澤氏らの実際の行動は、2005年8月に、大江健三郎氏と岩波書店を大阪地裁に提訴したことです。
沖縄から「ありがとう」
(3)梅澤氏:村の人たちは、私の説得も聞かずに自決していったけれど、それは当時の価値観からしても、立派な決断だったと思います。だが、それを補償金ほしさに隊長命令としてしまったのでおかしくなってしまったのです。
 あれは、昭和62(1987)年3月下旬、慰霊祭のお地蔵さんを献納した時のことです。私は当時の田中村長から真実を聞こうと役場に行きました。しかし、私が行くといつも逃げ回るんです。「用事があります」とか言って、飛び上がって逃げる。
 そこで私は「逃げるな」とつかまえて、「今日こそ本当の話をしろ」と迫った。すると、「用事があるから出なければならないのだが、民宿の宮村幸延の所に行って聞いてください。全部知ってます」と言った。
 それで宮村氏を訪ねて「村長から宮村に開いてくれといわれた」というと、彼は村長から許可が下りたと思って一部始終を話し始めました。
 「私はこれまで梅澤さんに申し訳ないと思っていたけど、これでやっと話が出来る」と言って、最初に語ったのが「梅澤さんのおかげで補償金が出ました」という言葉でした。「その補償金が出てみんな生き返ったんだ、ありがとうございました」と言って、頭を下げたのを今でもよく覚えています。
 援護の件で、厚生省に行って話をしても法律がないから自決した老幼婦女子に補償金は出ない、諦めてくれと言われる。しかし、村では田中村長からこつぴどく言われる。復員して帰ってきた村人からは、お前の兄が自決をさせたと責められる。
 3回目に行った時にやっと、厚生省の課長が頭を下げて、隊長が命令したということにでもして申請をしたらあるいは・・・という話だった。それを村に帰って報告したら「それだ!」となって、それから1カ月かかって色々なことをしました、と。
 私が宮村氏に「いくらぐらい貰っているのか」と聞いたら、「毎年、3億円ほど出た」、今でも貰い続けていると。それで村が生き返って、それで梅澤さんにみんな感謝しておりますよという。
 昔は港もなかった島に立派な港ができ、公共施設も充実し、村は随分と豊かになったと聞いています。私は、ただ一言「ありがとうございました、申し訳ありませんでした」と言ってもらえればすっきりするのです。
 日本軍が悪かった、当時の教育が悪かった、自分たちは被害者だとばかり訴えているだけでは、沖縄はだめになってしまいます。
確認3:軍民慰霊祭から17年後も経って、宮村幸延氏の所に行き、やっと、「梅澤さんのおかげで補償金が出ました」といいう言葉を得たとあります。渡部昇一氏が証言するA宮里盛秀氏が梅澤元少佐に与えたという証文があれば、こんなドタバタは必要ないでしょう。この証文については、梅澤氏の証言で全く触れられていません。
 厚生省の課長が頭を下げて「隊長が命令したということにでもして申請をしたらあるいは…」とあります。渡部昇一氏が証言するB厚生省に提出した偽造の公式書類等があればこんな「やりとり」は必要ないでしょう。
E援護法適用のため偽軍命令を出した梅澤氏は命の恩人です。どうして、沖縄の人は「沖縄ノート」を批判しないのでしょうか。これが私の素朴な感想です。
確認4:梅澤氏自身の手記ですので、第一次史料です。素人の私でも、論点が簡単に分かります。
(1)軍命令はあったのか、なかったのか。自決を覚悟して忠魂碑前に集合している人々に、「弾丸はやれない、帰れ」と激怒しただけでは、不十分です。現場で、納得するよう説得して初めて、効果的な手段を講じたといえます。そういう点では、大甘な指示だったと言われても仕方がないのではないでしょうか。
(2)援護法の対象にするために、村の人々の願いを聞き、梅澤氏はニセ「軍命令」を出したといいます。しかし、村人は、後に、梅澤氏の「軍命令」はホンモノだっと言い出したというのです。
 下記の年表(2)を見ると、1952(昭和27)年4月30日に成立した援護法(戦傷病者戦没者遺族等援護法)の適用が1957(昭和32)年5月以降ならば、梅澤氏の証言は信憑性があると言えます。しかし、1957(昭和32)年5月以前に、沖縄の人が適用を受けておれば、この説は崩壊します。
 (1)〜(3)の梅澤裕元少佐の独占手記は、鴨野守氏が取材・構成という形式をとっています。
 鴨野氏は、世界日報社の編集委員です。『ウィキペディア(Wikipedia)』で調べると、「世界日報は日本で発行される統一協会(世界基督教統一神霊協会)系列の右派・保守系新聞」とありました。

藤岡信勝氏の「大江健三郎”勝訴”深見判決を斬る」(122頁〜)
詭弁による無意味な論証
(4)藤岡氏:明日は米軍の上陸が確実だと思われた三月二十五日の夜十時ころ、宮里盛秀助役ら村の幹部数人が島に駐屯していた日本陸軍海上挺進隊の梅澤裕隊長を本部壕に訪ねた。梅澤隊長に会った村の幹部の中でただ一人生き残った宮城初枝はその時の様子を次のように手記に書き残した(宮城晴美『母の遺したもの』所収、三九ページ)。
 〈助役は隊長に、「もはや最期の時が来ました。私たちも精根をつくして軍に協力いたします。それで若者たちは軍に協力させ、老人と子供たちは軍の足手まといにならぬよう、忠魂碑の前で玉砕させようと思いますので弾薬をください」と申し出ました〉(傍線は引用者)
 隊長は弾薬の提供を断わり、村の幹部もしかたなく引きあげてきた。ところが途中、助役は部下の宮平恵達に「各壕を廻って皆に忠魂碑の前に集合するように」と伝令を命じた。梅澤隊長は自決命令はおろか自決用の武器弾薬を渡すことも断っていたのである。
 それなのに、後に出された代表的な文献の一つである山川泰邦著『秘録沖縄戦史』(一九五八年)にはこう書かれている。
 〈艦砲のあとは上陸だと住民がおそれおののいているとき、梅澤少佐から突然、次のような命令が発せられた。「働き得るものは男女を間わず、戦闘に参加せせ。老人、子供は全員、忠魂碑前で自決せよ」と〉(一五六ページ、傍線は引用者)
手榴弾配布と軍命令の空論
(5━1)藤岡氏:『母の遺したもの』には、三月二十六日、番所山に集結していた部隊全員が斬り込み隊として敵に夜襲を敢行することになり、別働隊として宮城初枝らに弾薬を稲荷山の山頂まで運ぶ任務が与えられる。このとき、整備中隊の木崎軍曹が、初枝に「途中で万一のことがあった場合は、日本女性として立派な死に方をしなさい」と手榴弾一個を渡したというエピソードが書かれている。
(5━2)藤岡氏:原告側の証人尋問の際、裁判長は「手榴弾は貴重なものか」、「隊長の命令無くして部下が住民に手榴弾を渡すことは可能か」などと聞いていた。渡嘉敷の第三戦隊の中隊長だった皆本義博証人は「そんな馬鹿な兵隊はいないと思います」と答えていたが、傍聴していた私は嫌な予感がした。・・・激しい艦砲射撃の中、隊長が個々の将兵の行動を逐一掌握するなど不可能なことであった。そういう戦場の実態を無視した形式的な空論である。
(5━3)岩波書店は「戦後レジーム」の言論部分を担ってきた中核に位置する言論機関である。この裁判は、その岩
波の権威に壊滅的な打撃を与える可能性を含んだ案件である。
確認5:(5━1)では、藤岡氏は、「手榴弾一個を渡したというエピソード」を重視していますが、私は、民間人である
「宮城初枝らに弾薬を稲荷山の山頂まで運ぶ任務が与えられる」という事実を重視します。ここでは、軍民一体であることが描写されているからです。
(5━2)では、藤岡氏は、「隊長の命令無くして部下が住民に手榴弾を渡すこと」について、「戦場の実態を無視した形式的な空論」と指摘しています。
 佐藤優氏は、沖縄戦に参加した実母の体験を聞き、次のように書いています。
 「中世の哲学者ウイリアムのオッカムが、「オッカムの剃刀」という証明法を考えた。何かを証明する場合、必罫なことが一つ証明されれば、その枠組みの中での個別事例について証明する必要はないということだ。集団自決についても「オッカムの剃刀」を適用して考えてみるべきと思う。軍が民間人に直接、あるいは間接的に防衛隊や村役場を経由して、手りゅう弾を住民に配った事例が一件でもあれば、そこに軍の強制があったのである。当時、米軍に捕まれば、暴行された後、目をくりぬかれ、耳と鼻をそがれ璃なぶり殺しにされることを多くの人々が信じていたので、軍人が善意から、自決用の手りゆう弾を配ったとしても、それは強制なのである」
(5━3)では、藤岡氏は、この裁判を、戦後レジームの中核である「岩波の権威に壊滅的な打撃を与える」と規定しています。なるほどと思いました。
 藤岡氏は、学問・研究の分野を政治的分野に取り込んだ意図を如実に指摘しています

藤岡信勝氏「沖縄タイムスの”不都合な真実”」(134頁〜)
新証言との出合い
(6━1)藤岡氏:「大江・岩波裁判」の判決日が迫る中で、座間味島の宮平秀幸証言が注目を集めている。・・・。
 (1月26日)正午近く、・・・急な坂道を徒歩で百メートルほど下りて左手に入ったところに碑(「昭和白焼隊之碑」)はあった。・・・田村邦夫少尉の墓がある。その墓を掃除していた年配のご夫婦に出違った。・・・その人が宮平秀幸(七十八歳)だった。
(6━2)藤岡氏:宮平は、沖縄戦当時十五歳の防衛隊員で、本部壕で日本軍の伝令役をつとめていた。奇しくも座間味の証言者として著名な故・宮城初枝の実弟にあたる。昭和二十年三月二十五日の夜、村の幹部が自決用の弾薬を求めに本部の壕に来た。その時、宮平は梅澤隊長の二メートルそばでその一部始終を開いていた。梅澤隊長は弾薬の提供を断っただけでなく、村の幹部に「自決するな」と言い、C忠魂碑前に自決のために集まっていた村人を解散させるよう「命令」していた、というのだ。
(6━3)この新証言は二月十六日にチャンネル桜で放映され、二十三日付産経新聞が独自取材でスクープし、二〇〇八年三月一日発売の雑誌『正論』四月号に藤岡が、同じく『諸君!』四月号に鴫野がレポートを書いた。世界日報は三月三日と八日の紙面で詳細に報道した。しかし、沖縄のメディアは黙殺を決め込んだ。
確認6:(6━1)では、藤岡氏は、「その墓を掃除していた・・・その人が宮平秀幸だった」と偶然再会したように書いています。このような重要な証言を持っている人がどうして、今頃出てきたのでしょうか。下記の年表(2)を見ると、1982年、高校日本史から旧日本軍による「住民虐殺」の記述が削除されたことに沖縄が猛反発し、「住民虐殺」の記述が復活するということがありました。この過程を飛ばして、26年後に証言する意図がよく分かりません。
(6━2)では、宮平氏は、C忠魂碑前に自決のために集まっていた村人を解散させるよう”命令”していた」と証言しています。「集まっていた」とは過去形です。現場に言っての実行命令でなく、口頭命令には変わりありません。
(1)では、梅澤氏は、C村の忠魂碑前の広場に女子供、老人をはじめ、みんなを集める」と証言しています。「集める」とは未来形です。
(6━3)では、藤岡氏は、宮平証言を「沖縄のメディアは黙殺」と断定していますが、私は、産経新聞以外、どのメディアからのその証言を知ることはありませんでした。他のメディアからも黙殺される必然性があったのでしょうか。
「自決するな」と命令
(7━1)宮平証言:▽本部壕前にて
 昭和20年3月23日、アメリカ軍による空襲が始まりました。・・・それこそ島の形が変わるような激しいものでした。
 いよいよ明日は敵軍が上陸してくるという25日の夜、正確な時刻はわかりませんが、9時と10時の間ぐらいのときでした。野村正次郎村長、宮里盛秀助役、宮平正次郎収入役の村の三役と国民学校の玉城盛助校長が戦隊本部の
壕に来ました。私の姉で役場の職員の宮平初枝と、同じく役場職員の宮平恵達もついてきていました。ただし村長は少し遅れて来たように思います。
 これに戦隊長の梅澤裕少佐が対応されました。・・・当時、私は15歳で、防衛隊員として戦隊本部付きの伝令要員をしていました。
 助役は、「もう、明日はいよいよアメリカ軍が上陸すると思いますので、私たち住民はこのまま生き残ってしまうと鬼畜米英に獣のように扱われて、女も男も殺される。同じ死ぬなら、日本軍の手によって死んだ方がいい。それで、忠魂碑前に村の年寄りと子供を集めてありますから、自決するための爆弾を下さい」と言いました。すると梅澤隊長は、「何を言うか! 戦うための武器弾薬もないのに、あなた方を自決させるような弾薬などありません」と断りました。助役はなおも「弾薬やダイナマイトがダメならば毒薬を下さい。手稲弾を下さい」と食い下がりました。
 そこで梅澤隊長がこう言いました。「俺の言うことが聞けないのか! よく聞けよ。われわれは国土を守り、国民の生命財産を守るための軍隊であって、住民を自決させるためにここに来たのではない。あなた方に頼まれても自決させるような命令は持っていない。・・。
(7━2)藤岡:法廷では(大江は)「もし隊長が中止命令を出していたなら賞賛に値し実名を明記する」という趣旨のことを語っていた。
 ところが、この度の宮平証言によれば、梅澤隊長は、「自決するな」と止めただけでなく、集団自決のために忠魂碑の前に集まっそいた住民を解散させるという大江の要求を100%満たす行動をとっていたのである。
確認7:(7━1)宮平証言によれば、3月25日午後9時と10時の間(10時30分頃)、村長・助役・校長・姉の初枝・役場職員の宮平恵達らが梅澤裕少佐と面会しています。宮平証言によれば、「村の三役たちは30分ぐらいも粘っていました」ということですから、11時頃まで、宮平氏も同席していたことになります。
「解散命令」を出した村長
(8━1)宮平証言:▽忠魂碑前にて
 母と姉の話では、午後8時ごろ私の家の壕に役場の伝令役の宮平恵達が来て、「ほいほい、誰かいるか。僕は恵達だが、軍の命令で集団自決するから、忠魂碑前に集まってくれ。軍が爆薬くれるというからアッという間に終わる。遅れたら自分たちで死ななければならないよ」と言ってきた。それで支度をして家族で忠魂碑前にやってきたとのことでした。
 私は、「お母さん、おじいちゃん、それは軍の命令じゃないからね。死ぬことないよ」と言いました。
 ・・村長は、「みなさん、ここで自決するために集まってもらったんだが、隊長にお願いして爆薬をもらおうとしたけれど、いくらお願いしても爆薬も毒薬も手榴弾ももらえない。しかも死んではいけないと強く命令されている。とにかく解散させて、各壕や山の方に避難しなさい、l人でも生き延びなさいという命令だから、ただ今より解散する」と言いました。5分くらいの話でした。
 助役や収入役は、忠魂碑の下のところで、集まった人々と何ごとかを話していました。村長が解散命令を出したのは午後の11時ころです。時計は持っていませんでしたが、お月様が出ていたので、大体の時刻を判断しました。
 村長の話が終わったあと、照明弾が落ち、続いて忠魂碑の裏山の稜線に艦砲射撃の弾が3発落ちました。村人は
三々五々帰っていきました。
(8━2)藤岡:私たちが二月と三月の二回にわたって座間味調査を行ったのは、端的に言えば、この野村村長による「解散命令」を開いた人を探し出すためであった。残念ながら今の時点ではまだ直接村長の命令を自分の耳で聞いた人に会うことは出来ていないが、間接的な証明は十分に揃ったといえる。
確認8:(8━1)宮平氏の母と姉(宮平初枝氏)の証言によると、午後8時頃、伝令役の宮平恵達が「軍の命令で集団自決するから、忠魂碑前に集まってくれ」と言ったといいます。宮平氏は、時間を書いていないので、前後関係は分かりませんが、「軍の命令じゃないからね。死ぬことないよ」と言ったということですから、梅澤裕少佐と面会した後ということになります。
 宮平氏の証言によると、「村長が解散命令を出したのは午後の11時ころ」「村人は三々五々帰っていきました」ということです。
 宮平氏の証言によると、時間的にどうも辻褄があいません。(7━1)では、梅澤氏と面会していたのが、11時ころです。その時、村長が解散命令を出していた時刻です。その時、宮平氏は母や姉に「死ぬことないよ」と説得していた時間です。
 もう一つ、現場に言っての実行命令でなく、基本的には、口頭命令です。効力はあるのでしょうか。
「生き延びなさい」
(9)宮平証言:▽整備中隊壕の前にて
 そこで、家族7人で1時間以上歩いて大和馬(やまとんま)にある整備中隊の壕に行きました。・・・「軍から自決命令が出ているといって忠魂碑前に集まったけど、解散になった。それで、よく知っている兵隊さんに万一の時は殺してもらおうと思って参りました」と言いました。・・・
 すると「・・・死んで国のためにはならんよ。国のため、自分のために生き延びなさい・・・」と言われました。・・・
 それからまた、1時間以上もかけて山を越え、戻ってきて第2中隊の壕のところまで来ると、爆撃が激しくなり進むことが出来ません。・・・そのころは、夜も白々と明けかけていました。・・。
確認9:宮平証言によると、「死んで国のためにはならんよ。国のため、自分のために生き延びなさい」と日本兵から言われたということですが、これが事実なら、「日本人の玉砕」(バンザイ・クリフや沖縄など集団自決の悲劇)との矛盾をどのように理解したらいいのでしょうか。
沖タイの「不都合な真実」
(10)藤岡氏:結論から言えば、宮平秀幸に調査団を会わせないことが、沖縄タイムスにとっての最大の目的だった。宮平は沖縄タイムスにとっての「不都合な真実」を知る、またそれを証言するだけの勇気を持ち合わせている、おそらくただ一人の人物だった。宮平証言こそは沖縄タイムスにとっての時限爆弾だった。
確認10:藤岡氏は、宮平氏を「不都合な真実」を知る「ただ一人の人物」と高く評価していますが、私のような素人でも、宮平証言には数多くの疑問符が付きます。皆さんは如何でしょうか。
 15歳の少年が63年経過している事件を非常にリアルに証言しています。何かにメモされていたのでしょうか。メモそのものを見たいものです。

飯嶋七生氏の「母の”遺言”はなぜ改変されたか」(174頁〜)
 下記のWiLL編集部の年表(2)では、2000年12月に、「軍命令はなかった」と証言した宮城初枝の娘晴美が『母の遺したもの』出版とあります。2008年1月、宮城晴美が『母の遺したもの』新版で、物故した母親の証言を改変とあります。
確認2:(2━2)で指摘したように、「今晩は一応お帰りください」(宮城晴美著『母の遺したもの』)は、梅澤氏が指摘するように、生易しい発言ではありません。
 貴重で重要な第一次史料ですが、174頁まで読みすすんで、飯嶋七生氏の文章で、初めて、娘が母の証言を改変(ママ)したことを知りました。
 飯嶋七生氏は、WiLL8月号には、東京都生まれ、明治大学大学院修了、史学博士とあるだけで、生年は分かりません。女性です。著作物もたくさん列記していますが、出版社が明記されていません。他の著者を見ると、出版社が明記されていました。
 そこで、「飯嶋七生」と入力して、グーグルで検索すると、個人名では出てこず、「自由主義史観研究会(歴史論争最前線)」に飯嶋七生/自由主義史観研究会会報編集長と表示されていました。また、『國民新聞』に「日本歴史を貫くヒツギの思想」と題して、「歴史と教育」編集長という肩書で、飯嶋七生氏が論文を書いていました。
 「歴史と教育」が雑誌なのか新聞なのか分からないので、「歴史と教育 飯嶋七生」と入力すると、雑誌で、出版社が自由主義史観研究会であることが判明しました。
 ホームページ・自由主義史観研究会の「当会について」には、次のように書いていました。
 「自由主義史観研究会は、新しい歴史教育と歴史研究に取り組む団体です。
自国の歴史を貶める、いわゆる「自虐史観」から脱却し、健康なナショナリズムにもとづく歴史研究と歴史授業の創造を目指しています。
代 表 : 藤岡信勝(拓殖大学教授)
会員の方には、機関誌『歴史と教育』をお送りします」
 以下は、自由主義史観研究会・機関誌『歴史と教育』の編集長・飯島七生氏の論考です。
 原文は縦書きですが、ここでは横書きなので、漢数字(二十五)は洋数字(25)に変換しています。
母の遺した証言
(11━1)飯嶋氏:昭和25年に沖縄タイムスから発行された『鉄の暴風』や諸戦記などに、梅澤裕戦隊長が住民を忠魂碑前に集合させ玉砕を命じた、と書かれたことから、それは長いこと通説となっていた。
 これを明確に否足したのが宮城初枝氏だった。初枝氏は、集団自決が行われた夜、村の助役らと5人で梅澤隊長のもとに行き、隊長に自決用の武器を懇願して断られるまでの一部始終を見ていたのである。彼らは梅澤隊長に帰された後、各々自決を決行し、そのやりとりを知るのは、たまたま生き残った初枝氏ただ1人となってしまった。
 それから10年余り後の昭和31年末、彼女は役場から呼び出され、「村の方針」であるとして、自決は隊長命令だったと、自らの体験とは正反対の証言を要求された。これは、遺族年金など補償を受けるには、敵軍上陸の恐怖やパニックによる自決ではなく、軍命があった場合のみ対象になるとされていたからである。
 初枝氏は、一度は断ったものの、「島の人を見殺しにするのか」と説得され、やむなく偽証に応じた。だが、梅澤氏が報道被害によって不遇の日々を送っていると開くと、年々良心の呵責に苦しむようになっていった。
(11━2)昭和52年、初枝氏は、「『集団自決』を、仕事として書くためにやってきた娘晴美氏に、自分の発言がもとで『隊長命令説』という(ウソ)をかかせてはいけないと思ったのか」、すべてを告白し、「梅澤さんが元気な間に一度会ってお詫びしたい」と漏らすようになる。
 しかし、「『事実』を公表するには助役の宮里盛秀の名をあげなければならない。それをすれば遺族に迷惑がかかってしまうと、初枝氏は1人で苦しみを背負っていたという。
(11━3)昭和55年、晴美氏の周旋により、初枝氏は、ついに、梅澤氏と那覇市内のホテルロビーで再会を果たす。「(3月25日の夜)住民を玉砕させるようお願いに行きましたが、梅澤隊長にそのまま帰されました。命令したのは梅澤さんではありません」
 初枝氏の告白を開き終えた梅澤氏は、「ありがとう、ありがとう」と初枝氏の両手を握りしめ、男泣きに泣いたという。
 ようやく重い十字架を降ろした初枝氏だったが、その代償もまた重かった。(集団自決に軍命令はなかった)と告白することは、島の禁忌をおかすに等しい。
 予想されたとおり、助役の遺族は激昂した。母娘は島の住民との乱轢が生じ、「もし、国の補償金がとまったら、弁償しろ」といった非難も浴びた。
確認11:(11━1)飯嶋氏は、「昭和31(1956)年末、彼女は役場から呼び出され」援護法のため「自決は隊長命令だった」という「偽証に応じた」とあります。
(11━2)飯嶋氏は、1977(昭和52)年、初枝氏は、娘晴美氏に、偽証など「すべてを告白し、”梅澤さんが元気な間に一度会ってお詫びしたい”と漏らすようになる」と書いています。
(11━3)飯嶋氏は、1980(昭和55)年、梅澤氏に再会した初枝氏は、「(自決)命令したのは梅澤さんではありません」と謝罪したとしています。
 これが自由主義史観による総括でしょうか。これが事実だとすると、納得ですが、話が出来すぎてはいませんか。
娘に託した真実の歴史
(12━1)飯嶋氏:一方、初枝氏と梅澤氏はその後も交流を続け、翌年(作者注:1981年)には梅澤氏に宛てた手紙に素直な気拝を綴っている。「…あの悪夢のような(作者注:1945年3月)25日の晩のでき事は五人の中、私1人が生存しその内容を知り、語り伝えるための宿命だったかも知れません。…何時も私の心境は梅澤様に対して済まない気持ちでいっぱいでございました。しかし村の方針に反する事はできませんでした。お許し下さいませ。すべては戦争のでき事ですもの…」
(12━2)初枝氏は「真実の歴史」を娘の晴美氏に託して逝った。これが晴美氏の手によって『母の遺したもの』(作者注:2000年12月)に纏められ、梅澤隊長の自決命令説も徐々に戦史から消えていった。
(12━3)ところが、3年前(作者注:2005年)、沖縄集団自決冤罪訴訟の原告側に、『母の遺したもの』が証拠として提出されると、彼女の主張は彷徨を始め、ついには「自著は誤りであった」とその叙述を百八十度変えてしまうのである。
(12━4)平成19(作者注:2007年)年7月27日、沖縄集団自決冤罪訴訟の法廷に現れた彼女は、自著を否定するために、被告側証人として証言台に立った。
 そこで、「住民の『集団自決』は軍の命令や指示によるもので、その最高責任者は部隊の指揮官。戦隊長命令がいつどこで具体的に出されたかは分からないが、命令の主体は戦隊長」と述べたという(沖縄タイムス2007年7月28日付)。
 だが、そのような自著とは正反対の認識に至ったのは、たった1カ月前にすぎない、と吐露する痛々しさも呈した。
 宮城氏はある集会で、「(自著が)意図しない形で悪用された。(集団自決)は隊長命令ではなく島の住民が勝手にやったことと責任を転嫁して裁判が起こされ、責任を感じる」(琉球新報07年8月14日付)と述べた。そして、現在、著作の書き換え作業を進めていると表明した。それが今年1月に出された改訂版である。
 本稿では、2000年出版の『母の遺したもの』(以後、旧版と省略する)と、2008年版の同書(同、新版)が、どのように改変されたのかを比較検討し、集団自決=軍命令論者の戦略を読み解いていく。
確認12:(12━1)飯嶋氏は、1981年に、初枝氏が梅澤氏宛てに出した「村の方針に反する事はできませんでした。お許し下さいませ」という手紙が残っているといいます。「謝罪した」という言葉は本人が亡くなっている以上、物証にはなりません。しかし、手紙は重要な物証です。今まで、藤岡氏ははじめ、この手紙に触れた人はいません。当然、裁判に提出されたのでしょうね。
(12━2)飯嶋氏は、2000年12月に出版された『母の遺したもの』により、「梅澤隊長の自決命令説も徐々に戦史から消えていった」と書いています。しかし、梅澤氏は「私が”今晩は一応お帰りください”などと、生易しいことを言うのでしょうか?」と書いているように、この内容は、自決を覚悟した人に言ったとしたら、「黙認」と受け取られる重大な発言です。これをもって「戦史から消えた」というのは「生易しい」と受け取られませんか。
(12━4)晴美氏は、大阪地裁で「自著は誤りであった」と証言し、最後には、旧版を改定して新版を出すに至っています。「彷徨」という感覚的な言葉でなく、その過程を事実に基づいて、丹念に立証してほしいと思います。
新版では、何を変えたのか
 さて、旧版と新版では、どこがどのように改変されたのか比較していきたい。論点を絞って、ページの若い順に検討したい。旧版になく、新版で追記された部分をゴシック体で示した。
 旧版は(A)、新版は(B)で表示しています。
@その後のことは皆目分からない
(A)「(3月25日夜)艦砲射撃の中をくぐつてやがて隊長のおられる本部の壕へたどり着きました。・・・それからまもなくして、隊長が出て来られたのです。助役は隊長に、『もはや最期のときが来ました。私たちも精根をつくして軍に協力致します。それで若者たちは軍に協力させ、老人と子供は軍の足手まといにならないよう、忠魂碑の前で玉砕させようと思いますので弾薬をください』と申し出ました。
 私はこれを聞いた時、ほんとに息もつまらんばかりに驚きました。・・・隊長は沈痛な面持ちで『今晩は一応お帰り下さい。お帰り下さい』と私たちの申し出を断ったのです。私たちもしかたなくそこを引きあげてきました。
(B)ここで私は助役たちと別れました。その結果、あの晩、隊長の所へ行った5名のうち私1人だけが生存し、残りは農業組合の壕の中で自決されてしまったのです。したがってその後のことは、私には皆目わかりません」(新版40頁)
(13)飯嶋氏:この改訂の意図するところは、母は、村助役らの願いを梅澤隊長が断ったところまでは見ているが、その後母は彼らと別れたので「皆目、分からない」。つまり、母と4人が別れた後に隊長命令が下ったのではないか、と示唆したいのだろうう。
確認13:(13)飯嶋氏は、「”皆目、分からない”。つまり、母と4人が別れた後に隊長命令が下ったのではないか、と示唆したいのだろうう」という新版に注目していますが、私は、「『今晩は一応お帰り下さい。お帰り下さい』と私たちの申し出を断ったのです」という旧版を注目しています。これについてのコメントがありません。
B防衛隊の法的根拠は?
(A━1)「帝国在郷軍人会沖縄支部は市町村の集落単位で、17歳以上45歳までの男性を召集して防衛隊を編成し、軍の兵力不足を補った。この防衛隊には法的根拠はなく、『兵役法』による防衛召集とは性質を異にするものであった。しかし実質的には軍の指揮下に入り(後略)」(旧版159頁)
(A━2)「防衛隊員や女子青年の徴用は、前述したように義勇隊の性格を帯びたもので、法的には何ら根拠のないものであった」(197頁)
(B)「帝国在郷軍人会沖縄支部は市町村の集落単位で17歳以上45歳までの男性を召集して防衛隊を編成し、軍の兵力不足を補った。この防衛隊は『陸軍防衛召集規則』に基づくもので日本軍の指揮下におかれた(安仁屋政昭『沖縄戦のはなし』沖縄文化社)」(新版159頁)
(14━1)飯嶋氏:旧版では、「この防衛隊には法的根拠はなく、『兵役法』による防衛召集とは性質を異にするものであった。しかし実質的には軍の指揮下に入り(後略)」(旧版159頁)となっており、明らかに新版では正規の軍人であるとして防衛隊を住民から遠ざけようとしている。
 (半軍半民)(義勇隊)であると重ねて強調していたにもかかわらず、この記述(A━2)も新版では削除された。
(14━2)飯嶋氏:たしかに防衛隊は軍の指揮下にあり、手榴弾も配られていた。だが、それは住民を自決させるために配ったのではない。
 防衛隊のイメージを住民から乖離させることで、自決は(家族愛)による悲劇ではなく、日本軍の指揮下でターミネーター化された男達の(予定された行為)だったといいたいのだろう。
確認14:(14━1)飯嶋氏は、新版の意図を「防衛隊を正規の軍人であるとして、住民から遠ざけようとしている」と書いています。旧版でも「実質的には軍の指揮下に入り」と明記しており、法的根拠を『兵役法』から『陸軍防衛召集規則』に訂正しているだけです。どちらも防衛隊の位置づけは同じではないでしょうか。
C村助役は伝令にすぎないのか
(A)「(村幹部らが自決したのは)盛秀一人の判断というより、おそらく、収入役、学校長らとともに、事前に相談していたものと思われる」(215頁)
(B━1)「(梅澤隊長は)弾薬要求の申し入れには応じなかったが、盛秀(助役)らが『玉砕』しようとしていることを知りながら、梅澤戦隊長はそれを止めるよう命じることもなかった。その帰り道、盛秀は役場職員としてだけでなく、防衛隊の部下でもある恵達に向かって、『各壕を廻ってみんなに忠魂碑の前に集合するように・・・』と伝令を命じた。(中略) 「命令は下った。忠魂碑に集まれ」と恵達から指示を受けた住民のほとんどが、梅澤戦隊長からの命令だと受け止めた。というのも、…軍からの命令は兵事主任であり防衛隊長でもあった盛秀を通して、恵達が『隊長命令』として住民への伝令を務めていたからである」(新版214〜215頁)
(B━2)「なぜ新版を出したのか」「たしかに、この場面では、戦隊長は『玉砕せよ』という命令は下していません。しかしまた、『玉砕してはならない』とも言っていません。『今晩は一応お帰り下さい』と判断を回避しただけです」(新版284頁)
(15━1)飯嶋氏:被告側が打ち出した「自決命令は出さなかったが、自決禁止命令も出さなかったから、事実上の自決命令に当たる」という主感に寄り添ってみせたものだ。いわゆる「タテの構造」における「時限爆弾」を解除しなかったという(大江理論)である。
 この理論を成立させるために、・・・戦隊長は『玉砕せよ』という命令は下していません。しかしまた、『玉砕してはならない』とも言っていません。『今晩は一応お帰り下さい』と判断を回避しただけです」と入念に強調している。
(15━2)飯嶋氏:また旧版には、・・・一節(A)があったが、新版では削られている。
 ところで、恵達の呼びかけに対して、住民が「戦隊長命令」だと受け止めた、というのは、さきに挙げた宮城初枝氏の手紙にも見られ、ひょっとすると、助役らが僭称した可能性も考えられる。村幹部の判断を「軍命令」と騙って伝令せしめたということだ。何故なら、今日に至るまで、梅澤隊長の自決命令を見聞した人間は、誰一人としていないからである。
確認15:(15━2)飯嶋氏は、旧版の一節だけを紹介していますが、これだけでは、この部分の論評はできません。他にはなかったのでしょうか。
10 D助役の妹の「証言」で全面改訂
(A)「追い詰められた住民がとるべき最期の手段として、盛秀は『玉砕』を選択したものと思われる」(216頁)
(B)「…盛秀は深刻な表情で『軍からの命令で、敵が上陸してきたら玉砕するように言われている。まちがいなく上陸になる。国の命令だから、いさざよく自決しましょう。敵の手にとられるより自決したほうがいい。今夜11時半に忠魂碑前に集合することになっている』と父・盛永に向かって言った。盛秀の言葉を聞いた妹の春子は残していたご飯をおにぎりにして…」「涙声はまもなく鳴咽にかわった。『軍からの命令だったらしょうがないのか』とあきらめきれない盛永に対して、盛秀は杯に水を入れて父親の前に進み…」(新版217頁)。
(16)飯嶋氏:この部分が、宮城氏の認識を180度転換させた「春子証言」による全面改訂である。
 それに伴い、・・・推測(A)も、新版ではきれいに消えた。
確認16:新版でも、助役・宮里盛秀は「国の命令だから、いさざよく自決しましょう。・・・今夜11時半に忠魂碑前に集合することになっている」と父・盛永に向かって言ったとあります。これは、梅澤裕少佐と面会する前になります。この時間に、11時半に忠魂碑前に集合と言えるのでしょうか。宮平晴美氏への確認です。
 確認7:(7━1)で、私は、次のように指摘しています。宮平証言によれば、3月25日午後9時と10時の間(10時30分頃)、村長・助役・校長・姉の初枝・役場職員の宮平恵達らが梅澤裕少佐と面会しています。宮平証言によれば、 「村の三役たちは30分ぐらいも粘っていました」ということですから、11時頃まで、宮平氏も同席していたことになります。
 確認8:
(8━1)で、私は、次のように指摘しています。宮平氏の母と姉(宮平初枝氏)の証言によると、午後8時頃、伝令役の宮平恵達が「軍の命令で集団自決するから、忠魂碑前に集まってくれ」と言ったといいます。宮平氏は、時間を書いていないので、前後関係は分かりませんが、「軍の命令じゃないからね。死ぬことないよ」と言ったということですから、梅澤裕少佐と面会した後ということになります。
 宮平氏の証言によると、「村長が解散命令を出したのは午後の11時ころ」「村人は三々五々帰っていきました」ということです。
 宮平氏の証言によると、時間的にどうも辻褄があいません。梅澤氏と面会していたのが、11時ころです。その時、村長が解散命令を出していた時刻です。その時、宮平氏は母や姉に「死ぬことないよ」と説得していた時間です。
11 島の禁忌が証言を変える
(16)飯嶋氏:以下は筆者の推測である。
 時代が下るにつれて、集団自決は「強制集団死」と言い換えられ、自決した人たちは冷酷な日本軍に殺された被害者だ、可哀想な犠牲者だ、と変化を遂げていく。そうした空気のなかで「実は命令者は助役だった」となった途端、批難の矛先は、鬼隊長からそっくりそのまま宮里一家に向かってくることになりかねない。最近になって出てくる「証言」は、いずれも最近の価値観をベースにしており、家族間の証言の相違は、そうした時代の流れ、価値観の変化に起因するとは考えられないだろうか。
 弁護人として、渡部昇一氏・梅澤裕氏・藤岡信勝氏・飯嶋七生氏の記事を読んで、なるほどと思う部分と、あらためて確認したい部分があります。
@援護法の適用を受けるため、沖縄の人のことを考えて、偽軍命令を出した→軍命令前に援護法適用はないか?
A宮里盛秀氏が梅澤元少佐に与えたという証文はあるのでしょうか?
B厚生省に提出した偽造の公式書類等があるのでしょうか?
C忠魂碑の集合時間などがまちまちですが、どうしてでしょうか?
D梅澤氏の命令なく、村長の一存で自決ができるのでしょうか?
E援護法適用のため偽軍命令を出した梅澤氏は命の恩人です。どうして、沖縄の人は「沖縄ノート」を批判しないのでしょうか?。これが私の素朴な感想です。
 藤岡氏は熱心に、WiLLや正論に記事を投稿されていますが、基本的で初歩的な疑問「沖縄の人の命の恩人である梅澤氏」を貶めている(?)「大江健三郎氏」を、「沖縄の人が批判・非難していない」という現象についての解説がありません。どうして、ないのでしょうか。
 その答えを求めて、毎日、七転八倒しながら、長時間かけて、高裁判決書(PDF版)をテキスト化しています。次回には、判決文の中の答えを紹介できるかも知れません。

自虐史観(?)の国=日本と外国人留学生の数(過去最高)の関係は?
以下の表は、平成19年度外国人留学生在籍状況調査結果です。
 平成19年5月1日現在の留学生数は、118,498人(571人(0.5%)増)です。平成20年度はそれを上回る過去最高と報告されています。
 表(1)は、在学段階別留学生数です。全体の79.1%が後期高等教育在学生です。つまり、各国のエリートが日本で学問をしていることになります。
 表(2)は、出身地域別留学生数です。アジア地域が92.4(前年度92.7)%、欧州・北米地域が4.8(同4.6)%です。留学生の20人に1人が欧米からの留学生です。
 表(3)は、出身国別留学生数です。中国・韓国・台湾からの留学生は78.7(前年度80.1)%です。その内の60.2%(前年度63.0%)の71,277人(同74,292人)が中国人です。中国人抜きの留学生数は存在しないと言っても過言ではないでしょう。
表(1)
大学院 31,592人 (682人(2.2%)増)
大学(学部)・短大・高専 62,159人 (▲1,278人(▲2.0%)減)
専修学校(専門課程) 22,399人 (837人(3.9%)増)
準備教育課程 2,348人 (330人(16.4%)増)
118,498人 (571人(0.5%)増)
表(2)
地域名 留学生数 構成比
アジア 109,495人 92.4%
欧州 3,547人 3.0%
北米 2,112人 1.8%
中南米 1,024人 0.9%
アフリカ 989人 0.8%
中近東 797人 0.7%
オセアニア
534人 0.5%
118,498人 100.0%
(117,927) (100.0)
表(3)
  国名 留学生数 構成比
01 中国 71,277人 60.2%
02 韓国 17,274人 14.6%
03 台湾 4,686人 4.0%
04 ベトナム 2,582人 2.2%
05 マレーシア 2,146人 1.8%
07 アメリカ 1,805人 1.5%
16 フランス 471人 0.4%
17 ドイツ 449人 0.4%
18 イギリス 370人 0.3%
19 ロシア 337人 0.3%
20 オーストラリア 330人 0.3%
  118,498人 100.0%
 歴史修正主義者らは、実証主義的歴史観を「自虐史観」と誹謗・中傷しています。実証主義者である私は、「臭い物にには蓋をせず」「いいことも悪いことも事実は事実として」史料・資料を提供して、自由に論議しています。この健全さが、アジアからも欧米からも評価されている証拠ではないでしょうか。
 逆に、次のような論文(?)に接した留学生はどう思うでしょうか。
(1)「我が国は蒋介石により日中戦争に引きずり込まれた被害者だ」
(2)「日本はルーズベルトの仕掛けたわなにはまり真珠湾攻撃を決行した」
(3)「多くのアジア諸国が大東亜戦争を肯定的に評価している」
(4)「東京裁判は戦争責任をすべて日本に押しつけようとした。そのマインドコントロールが今なお日本人を惑わせている」
 私は、留学生が母国に帰り、日本のよきパートーナとして活躍するを期待しています。
 逆に、反日派としての感情を抱いて帰国することを心配しています。
 日常生活でも、隣人を愛せない隣保は不幸です。「遠くの親戚より近くの他人です」。
年表(2)
 年表(2)は、原則としてWiLL8月号より引用しています。
 黄色文字は、事実関係を明確にするために、作者が追加しました。WiLL8月号の記事やその他の
記事を参考に追記しています。
事項
1952  30 援護法(戦傷病者戦没者遺族等援護法)、施行
1956 宮城初枝、援護法のため、「自決は隊長命令」と村人より強要(飯嶋七生)
1957   照屋昇雄氏、「赤松嘉次元大尉の自決命令」により書類を作成した結果、集団
自決した島民の遺族や負傷者に対して援護法適用が決まると証言(jiketu5-46)
1958   梅澤裕元少佐は、集団自決のことを「週刊朝日、サンデー毎日で知った」と証言
1970   渡嘉敷島の集団自決慰霊祭には、赤松元大尉は、抗議集会のため出席できず
  梅澤元少佐は、軍民慰霊祭の時、偶然、宮城初枝と再会しました。彼女から
「隊長は自決をとどめ、弾丸はやれないと厳しく断った」と聞き、感動したと証言
  大江健三郎『沖縄ノート』(岩波書店)発刊
1971   曽野綾子「ある神話の背景」、『諸君!』で連載開始
1977 26 宮城初枝が娘(晴美)に「集団自決は梅澤隊長の命令ではなかった」と告白
1980 12   宮城初枝が梅澤氏に謝罪
30 神戸新聞が「日本軍の命令はなかった」との見出しで島民の証言を掲載
1982 3    教科書検定で高校日本史から旧日本軍による「住民虐殺」の記述削除
沖縄が猛反発。臨時県議会で「教科書検定に関する意見書」を全会一致で採択
12 「住民虐殺」の記述復活
1986 神戸新聞「『沖縄県史』訂正へ」「部隊長の命令なかった」と報じる
1987 下旬 梅澤元少佐は、慰霊祭のお地蔵さんを献納した時、宮村盛秀元助役の弟幸延
氏から「梅澤さんのおかげで補償金が出ました」と聞いたと証言
28 宮村幸延氏、「集団自決は梅澤部隊長の命令ではなく助役盛秀の命令であ
った。之は遺族救済の補償申請の為止むを得ず役場当局がとった手段」と親書
18 神戸新聞が「遺族補償得るため”隊長命”に」と報じる
2000 12   「軍命令はなかった」と証言した宮城初枝の娘晴美が『母の遺したもの』出版
2005 梅澤裕らが大江健三郎と岩波書店を大阪地方裁判所に提訴(大江・岩波裁判)
27 産経新聞が元琉球政府関係者の照屋昇雄の軍命令を否定する証言を報じる
2007 30 高校教科書検定で「集団自決」について「軍の強制」という表現を削除
27 大江・岩波裁判で、宮城初枝の娘宮城晴美は「軍命令があった」と証言
29 宜野湾市で「教科書検定意見撤回を求める県民大会」
11 大江・岩波裁判、第11回口頭弁論 当事者尋問:梅澤裕、赤松秀一、大江健三郎
12 27 沖縄タイムス、「教科書訂正 ”再検定”で軍強制復活」と報じる
2008 26 座間味島の宮平秀幸、梅澤隊長は自決のために集まっていた村人を解散
させるよう「命令」と証言
 30 宮城晴美が『母の遺したもの』新版で、物故した母親の証言を改変
28 大江・岩波裁判、判決言い渡し。原告の請求棄却
原告側が控訴
10 31 大阪高裁の小田耕治裁判長は一審判決を支持、元隊長らの控訴を棄却
11 11 原告側が最高裁に上告

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