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| * | HTML版:援護法の適用問題について全文(184-142P)←クリック |
| 1 | (3)援護法の適用問題について ア 控訴人らは、梅澤命令説及び赤松命令説が集団自決について援護法の適用を受けるためのねつ造であったと主張する。座間味島、渡嘉敷島における集団自決に関しては、信用性等を争う諸文献等が存する。 イ 援護法が、軍人軍属等の公務上の負傷若しくは疾病又は死亡に関し、国家補償の精神に基づき、軍人軍属等であつた者又はこれらの者の遺族を援護することを目的して制定された法律であり、昭和27年4月30日に公布されたことは、当裁判所に顕著である。 (ア) 略 (イ) 日本政府は、昭和28年3月26日、北緯29度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)に現住する者に対して援護法を適用する旨公表した。 他方、琉球政府においては、同年4月1日、社会局に援護課が設置され、援護事務を取り扱うこととされた。 要約1:大阪高裁の裁判官は、援護法の適用問題について次のように指摘しています。 (1)控訴人らは、梅澤・赤松命令説が集団自決について援護法の適用を受けるためのねつ造であったと主張する。 (2)援護法が、遺族を援護することを目的して制定された法律であり、昭和27年4月30日に公布された。 (3)日本政府は、昭和28年3月26日、現住する者に対して援護法を適用する旨公表した。 (4)琉球政府に、昭和28年4月1日、社会局に援護課が設置された。 |
| 2 | (ウ) 日本軍が沖縄に駐屯を開始したのは昭和19年6月ころであったが、駐屯当初、日本軍は、公共施設や民家を宿舎として使用し、軍人と住民が同居することがあった。そのほかにも、住民は、陣地構築や炊事・救護等で、軍に協力する立場にあった。また、沖縄戦は、島々を中心に前線もないままに戦闘が行われたため、軍と住民は、軍の駐屯から戦争終了まで行動を共にすることが多かった。 昭和30年3月に終戦後援護業務のため沖縄に出張滞在した厚生事務官馬淵新治(元大本営船舶参謀)は、報告書において「戦斗協力者と有給軍属、戦斗協力者と一般軍に無関係な住民との区別を、如何なる一線で劃するか、誠に至難な問題が介在している」として、調査のため厚生省から担当事務官3名が長期に現地に派遣される段階になったとしている。 昭和31年3月、戦闘参加者の範囲を決定するため、厚生省引揚援護局援護課の職員らが沖縄に派遣され、沖縄戦の実態調査を行った。 以上の実態調査や要望を踏まえて、厚生省は、昭和32年7月、沖縄戦の戦闘参加者の処理要綱を決定した。この要綱によれば、戦闘参加者の対象者は、@義勇隊、A直接戦闘、B弾薬・食糧・患者等の輸送、C陣地構築、D炊事・救護等の雑役、E食糧供出、F四散部隊への協力、G壕の提供、H職域(県庁職員・報道関係者)、I区村長としての協力、J海上脱出者の刳舟輸送、K特殊技術者(鍛冶工・大工等)、L馬糧蒐集、M飛行場破壊、N集団自決、O道案内、P遊撃戦協力、Qスパイ嫌疑による斬殺、R漁撈勤務、S勤労奉仕作業の20種類に区分され、その内容が詳細かつ網羅的に定義され、軍に協力した者が広く戦闘参加者に該当することとされた。その結果、約9万4000人と推定されている沖縄戦における軍人軍属以外の一般県民の戦没者のうち、約5万5200人余りが戦闘参加者として処遇された。このうち、区分N「集団自決」の概況は、「狭小なる沖縄周辺の離島において、米軍が上陸直前又は上陸直後に讐備隊長は日頃の計画に基いて島民を一箇所に集合を命じ「住民は男、女老若を問わず軍と共に行動し、いやしくも敵に降伏することなく各自所持する手榴弾を以って対抗 出来る処までは対抗し癒々と言う時には いさぎよく死花を咲かせ」と自決命令を下したために住民はその命をそのまま信じ集団自決をなしたるものである。尚沖縄本島内においては個々に米軍に抵抗した後、手榴弾で自決したものもある。集団自決の地域 座間味島、渡嘉敷島、伊江島」とされている。 集団自決が戦闘参加者に該当するかの判断に当たっては、隊長の命令によるものか否かは、重要な考慮要素とされたものの、要件ではなく、隊長の命令がなくても戦闘参加者に該当すると認定されたものもあった。 要約2:大阪高裁の裁判官は、援護法の適用問題について次のように指摘しています。 (1)沖縄戦は、前線なき戦闘のため、軍と住民は、軍の駐屯から戦争終了まで行動を共にすることが多かった。 (2)厚生事務官馬淵新治「戦斗協力者と軍に無関係な住民との区別をどうするか、誠に至難な問題である」 (3)調査により、厚生省は、昭和32年7月、沖縄戦の戦闘参加者の処理要綱(20種類)を決定した。 (4)その結果、一般県民の戦没者約9万4000人のうち、約5万5200人余りが戦闘参加者として処遇された。 (5)N集団自決については、隊長の命令がなくても戦闘参加者に該当すると認定された者もあった。 |
| 3 | (エ) 元琉球政府の社会局援護課職員・金城見好は、平成19年1月15日朝刊・沖縄タイムスの取材に対し、「慶良間諸島は、沖縄戦の最初の上陸地という特別な地域だった。当初から戦闘状況が分かっており、住民を『準軍属』として処遇することがはっきりしていた」と説明した。 ウ 前記認定事実によれば、昭和27年4月30日に公布された援護法が米軍の占領下にあった沖縄に適用されることとなったのは昭和28年3月26日であること、集団自決が戦闘参加者に該当することが決定されたのは昭和32年であること、隊長の命令がなくても戦闘参加者に該当すると認定された自決の例もあったことが認められ、また、援護法が公布された昭和27年4月30日より以前の昭和25年に発行された「鉄の暴風」に、控訴人梅澤及び赤松大尉が住民に自決命令を出した旨の記述があり、その内容も具体的に記載されていること、昭和20年に作成された米軍の「慶良間列島作戦報告書」には、「尋問された民間人たちは、3月21日に、日本兵が、慶留間の島民に対して、山中に隠れ、米軍が上陸してきたときは自決せよと命じたとくり返し語っている」との記述が認められる。 これらの事実に照らすと、梅澤命令説及び赤松命令説は、沖縄において援護法の適用が意識される以前から 具体的な内容をともなって存在していたことが認められるから、援護法適用のために捏造されたものであるとする主張は 採用できない 。また、前記のとおり、隊長の命令がなくても戦闘参加者に該当すると認定された自決の例もあったことが認められるなど、日本軍がその作戦に様々な形で住民を協力させ、軍と行動を共にさせるなどして集団自決などの悲惨な結果を招いていることは沖縄戦全体の特徴として厚生省の現地調査の結果でも知られており、上記のとおり戦闘に協力した住民を広く準軍属として処遇することになっていたのであるから、梅澤命令説及び赤松命令説を後日になってあえて握造する必要があったとはにわかに考え難い。 要約3:大阪高裁の裁判官は、援護法の適用問題について次のように指摘しています。 (1)元琉球政府社会局援護課職員・金城見好「慶良間の住民を『準軍属』として処遇することがはっきりしていた」 (2)援護法公布以前の「鉄の暴風」(昭和25年)に、控訴人が住民に自決命令を出した旨の記述がある。 (3)米軍の「慶良間列島作戦報告書」(昭和20年)「米軍が上陸してきたときは自決せよと命じたと語っている」 (4)梅澤・赤松命令説は、援護法の適用が意識される以前から 具体的な内容をともなって存在していた。 (5)戦闘に協力した住民を広く準軍属として処遇することになっていたので、後日にあえて握造する必要ない。 感想1:緊急増刊『沖縄戦-集団自決』8月号(「Will」)には、「控訴人らは、梅澤・赤松命令説が集団自決について援護法の適用を受けるためのねつ造であった」という論陣(田久保忠衛氏、櫻井よしこ氏、渡部昇一氏、曽野綾子氏ら)ばかりで、要約3:のような論陣はありませんでした。やはり、メディアは両方の主張を伝えてほしいと思います。世論を一定の方向に誘導する戦前のメディアもこうであったのかと、推測してしまいます。 |
| 4 | エ(ア) 琉球政府社会局援護課勤務・照屋昇雄は、渡嘉敷島での聞き取り調査について、「1週間ほど滞在し、100人以上から話を聞いた」ものの、「軍命令とする住民は一人もいなかった」と語ったとし、赤松大尉に「命令を出したことにしてほしい」と依頼して同意を得た上で、遺族たちに援護法を適用するため、軍による命令ということにし、自分たちで書類を作り、その書類を当時の厚生省に提出したとの趣旨を語ったとされる。証拠によれば、照屋昇雄は、昭和29年10月19日琉球政府の社会局援護課の援護事務の囑託職員となり、昭和33年10月には社会局援護課に在籍していたことが認められる。 (イ) 産経新聞朝刊(平成18年8月27日)及び「日本文化チャンネル桜」社長水島総ほか2名の取材班による現地詳細報告「妄説に断!渡嘉敷島集団自決に軍命令はなかった」(正論平成18年11月号所収)によると、照屋昇雄の話の要点は次のようなものである。 @ 照屋昇雄は、昭和20年代後半から琉球政府社会局援護課で旧軍人軍属資格審査委員会委員を務めた。当時援護法に基づく年金や弔慰金の支給対象者を調べるため、渡嘉敷島で100名から200名の聞き取り調査をした。 A その100名以上の人のなかに集団自決が軍の命令だという住民は、1人もいなかった。 B 集団自決に援穫法の適用が出来ないか東京の審査委員会で(南方同胞)援護会などが掛け合ったがだめだった。規定の中に隊長の命令によって死んだ場合はお金をあげましょうという条文があるが、誰かわからないが当時の隊長さんたちに自決命令を出したと言ってくれとお願いしたが応じてもらえなかった。そして、(1955年だったかなあ)、12月頃、最後の東京の会議があり、自分は参加していないが渡嘉敷島の玉井喜八村長さんが参加したらしい、その時に厚生省の課長さんから、赤松さんが村を助けるために十字架を背負いますと言っていると聞いて、村長が早速赤松隊長の自宅に会いに行って、隊長命令を書くと言うことになっているそうですがと話したら、お前らが書ければサインして判子押しましょうということになった、25日に村長が帰ってきたので、翌月の15日か16日に間に合わせるように隊長命令を書くと言うことで、2人で夜通しで作った。 C 作ったのは命令ではなく、渡嘉敷住民に告ぐと書いてあった、赤松隊長の身になって書いた、何年何月何日、渡嘉志久から米軍が上陸して、もはや村の役所の前に来ている、国のため降伏せず、1人でもアメりカ人をやっつけてというような内容だったはず、住民も死して国のためにご奉公せよとかたくさん書いて、自決せよとかそんな命令じゃあない、教育じみているのが命令書となっている。15日の閣議に出さなければ間に合わないということで、村長さんが赤松隊長のサインと判子をもらって間に合わすように持っていった。 要約4:大阪高裁の裁判官は、援護法の適用問題について次のように指摘しています。 (1)産経新聞・日本文化チャンネル桜や正論によると、照屋昇雄氏の話の要点は次のようなものである。 (2)照屋昇雄「聞き取り調査をした100名以上の内集団自決が軍の命令だという住民は1人もいなかった」 (3)照屋昇雄「援穫法の規定の中に隊長の命令によって死んだ場合はお金をあげましょうという条文がある」 (4)照屋昇雄「厚生省の課長から、赤松さんが村を助けるために十字架を背負いますと言っていると聞いて」 (5)「お前らが書ければ(赤松隊長が)サインして判子押しましょうということになった」 感想2:『日本文化チャンネル桜』の公式ホームページによると、”日本文化チャンネル桜は、日本の伝統文化の復興と保持を目指し 日本人本来の「心」を取り戻すべく設立された日本最初の歴史文化衛星放送局です”とあります。出演者をフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』で調べてみました。私が知っている方々です。井尻千男氏、西尾幹二氏、金美齢氏、遠藤浩一氏、小堀桂一郎氏、渡部昇一氏、高森明勅氏、潮匡人氏、花岡信昭氏、西村眞悟氏(弁護士法違反容疑で逮捕された事によって打ち切りとなった) 、田久保忠衛氏です。ほとんどが産経新聞や正論、新しい歴史教科書を作る会などでお馴染の名前でした。 |
| 5 | (ウ) 赤松大尉に軍命令を出したことにすることを依頼し、了解を得て、偽の軍命令の文書を作成してそれにサインと押印を得て、厚生省に提出したなどと云うことは、赤松大尉の生前の行動と明らかに矛盾する。赤松大尉の潮掲載の手記は、赤松大尉自身は軍命令を出した覚えないので、マスコミ等で極悪無残な鬼隊長などと非難され、その原因を自らに問い、考えた結果、西山へ住民を部隊と共に移動させたのが曲解される原因だったのかもしれないと考えるというのである。 (赤松大尉)の娘である佐藤加代子の陳述書では、大学1年生の時に「鉄の暴風」の父親に関する実名の記事を読み、息が止まるほどのショックを受けたこと、もっと父に集団自決のことを含む戦争体険についてきちんときちんと聞いておけばよかったと後悔もしていること、父は希代の悪人とされながらも耐えていたのだと思うが、本当は真実はこうだったともっともっと世間に対して弁明したかったのだと思うし、曽野綾子のきちんとした取材で父が知る限りのことを話せたこと、マスコミヘの厳しい批判などが、12頁にわたり心情のままに自然に語られている。 仮に照屋昇雄の述べるようなことがあったとすれば、そのことは家族に話されていないはずはないし、手記や陳述書に記載されたような形での赤松大尉を含めた家族の中での大きな苦悩はあり得ないことである。 佐藤加代子の陳述書の日付は平成19年10月6日であり、平成18年8月の産経新聞の記事や同年11月号「正論」掲載の「日本文化チャンネル桜」取材班の報告は佐藤加代子や控訴人赤松の知るところであろうが、それに沿った事実は、上記陳述書や控訴人赤松の陳述書(平成19年9月29日)や本人尋問にも全く出てこない。照屋昇雄の話は、身近にいた者たちとしてみれば、あまりにも荒唐無稽なあり得ない話として、明らかに黙殺されているものと理解される。 要約5:大阪高裁の裁判官は、援護法の適用問題について次のように指摘しています。 (1)赤松大尉の了解を得て、偽の軍命令の文書を作成・押印は、赤松大尉の生前の行動と明らかに矛盾する。 (2)『潮』手記「赤松大尉自身は軍命令を出した覚えないので、西山へ住民を部隊と共に移動させたのが曲解される原因だったのかもしれない」 (3)照屋昇雄の証言通りだとすると、(赤松大尉)の娘である佐藤加代子の苦悩はあり得ない。 (4)佐藤加代子の陳述書(平成19年10月6日)・赤松の陳述書(平成19年9月29日)には、産経新聞の記事(平成18年8月)や「正論」掲載(平成18年11月号)の「日本文化チャンネル桜」取材班の報告は荒唐無稽なあり得ない話として黙殺されている。 感想3:産経新聞や正論は、日本を代表するマスメディアである。そのマスメディアの取材・記事を、大阪高裁の裁判官は、「身近な者から、あまりにも荒唐無稽なあり得ない話として、明らかに黙殺されている」と批判しています。どうして黙殺されるような荒唐無稽な主張をするのでしょうか。 |
| 6 | (エ) 照屋昇雄の話が本当なら、曽野綾子は、「ある神話の背景」のための赤松大尉への取材を昭和45年に極めて丁寧に行っておりながら、赤松大尉が秘密を守ったがために、神話の背景の最も根本的なところを誤ってしまったということになるが、いかにも不自然である。ちなみに、曾野綾子は、軍命令説と年金を得ることとの関係にもほかの箇所では触れているのであるから、問題自体を認識していなかった訳ではなく、赤松大尉からは、その様な話を聞かされてはいないのである。 (オ) 戦後間もない頃から渡嘉敷島に赤松隊長命令説があったこと自体は、控訴人らも特に争わず、「鉄の暴風」にも伝聞であるにせよその具体的内容が記録され、馬渕新治の調査でも確認されている。それなのに、軍命令とする住民は1人もいなかったという点や、逆に、照屋昇雄と村長及び赤松大尉しか知らないはずの軍命捏造のことを住民みんなが聞いて知っており黙っているという点なども、不自然である。 ( カ ) 被控訴人ら代理人である近藤卓司弁護士は、平成18年12月27日、厚生労働大臣に対し、前記産経新聞に掲載された「沖縄県渡嘉敷村の集団自決について、戦傷病者戦没者遺族等援護法を適用するために、照屋昇雄氏らが作成して厚生省に提出したとする故赤松元大尉が自決を命じたとする書類」の開示を求めたが、厚生労働大臣は、平成19年1月24日、「開示請求に係る文書はこれを保有していないため不開示とした」との理由で、当該文書の不開示の通知をしたことが認められる。・・なお、控訴人らは、当審で、書類の保存期間満了による廃棄等の可能性や、沖縄本土復帰の時に沖縄側に引き渡されたなどと主張し、正論20年6月号の論考を提出するが、所管庁への調査嘱託や引渡しの法令上の根拠、事務取扱規程等の裏付けも全くない話であり、採用できない。 要約6:大阪高裁の裁判官は、援護法の適用問題について次のように指摘しています。 (1)曽野綾子は軍命令説と年金を認識してるが、「ある神話の背景」(昭和45年)には、軍命令捏造説はない。赤松大尉からは、その様な話を聞かされてはいないのである。 (2)戦後間もない頃から赤松隊長命令説があったこと自体は、控訴人らも特に争わず、馬渕新治の調査でも確認されている。照屋昇雄と村長及び赤松大尉しか知らないはずの軍命捏造のことを住民みんなが聞いて知っており黙っているという点なども、不自然である。 (3)産経新聞に掲載された軍命捏造の書類については、厚生省は「係る文書はこれを保有していない」 (4)正論のいう廃棄等の可能性・本土復帰の時に沖縄側に引き渡されたという法令上の根拠、裏付けも全くない。 |
| 7 | (キ) 照屋昇雄の話は、訴訟の係属中に発表されたものでありながら反対尋問を経ていないこと、内容的にも、その年代や、伝聞なのか実体験なのか、捏造したという軍命令の内容や、戦後10年以上後に捏造したような命令書が厚生省内で通用した経緯など、あいまいな点が多く、他方、赤松大尉の家族や関係者に対する裏付け調査や信用性に関する裏付け吟味もないままに新聞・雑誌・テレビ等向けの話題性だけが先行して、その後の裏付け調査がされた形跡もないことなど、問題が極めて多いものといわざるを得ない。 (ク) 以上の次第で、援護法適用のために赤松命令説を作り上げたという照屋昇雄の話は全く信用できず、これに追随し、喧伝するにすぎない前掲の産経新聞の記事や「日本文化チャンネル桜」取材班の報告も採用できない。 要約7:大阪高裁の裁判官は、援護法の適用問題について次のように指摘しています。 (1)照屋昇雄の話は、訴訟の係属中に発表されたものでありながら反対尋問を経ていない(参考資料参照) (2)軍命令の内容、戦後10年以上後に捏造した命令書が厚生省内で通用した経緯など、あいまいな点が多い。 (3)裏付け調査や吟味もせず、新聞・雑誌・テレビ等向けの話題性だけが先行して、問題が極めて多い。 (4)援護法適用のために赤松命令説を作り上げたという照屋昇雄の話は全く信用できない。 (5)これに追随し、喧伝するにすぎない産経新聞の記事や「日本文化チャンネル桜」取材班の報告も採用できない。 参考資料:照屋昇雄氏の証言「昭和30(1955)年12月25日、援護法適用のため、軍命捏造の書類を作成した」 平成17(2005)年8月5日、梅澤裕氏らが大江健三郎氏と岩波書店を大阪地方裁判所に提訴しました。 平成18(2006)年8月27日、産経新聞朝刊と「日本文化チャンネル桜」は、「照屋昇雄は、赤松大尉に軍命令を依頼し、了解を得て、偽の軍命令の文書を作成し、サインと押印を得て、厚生省に提出」と報じました。 平成19(2007)年12月21日、原告・被告の双方が最終弁論し、結審しました。 感想4:最近、『週刊新潮』が朝日新聞阪神支局襲撃事件「実行犯」を名乗る人物の告白手記を掲載し、それが「誤報」だったことが判明しました。これに対し、産経新聞(2009年4月16日)はジャーナリストの青沼陽一郎さんのコメントを紹介しました。そこには、「裏付け取材が十分だったのか。証言者の出自や、客観的事実との整合性を、もう少し時間をかけて確認すべきだった。急ぎすぎたのだと思う」とありました。これは、そのまま、大江・岩波沖縄戦における産経新聞の記事にもあてはまるのではないでしょうか。 |
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| 8 | オ(ア) 盛秀助役の弟・宮村幸延が作成したとされる昭和62年3月28日付け「証言」と題する親書には、「証言 座間味村遺族会長 宮村幸延 昭和二十年三月二六日の集団自決は梅澤部隊長の命令ではなく当時兵事主任(兼)村役場助役の盛秀の命令で行なわれた。之は弟の宮村幸延が遺族補償のためやむえ得えず隊長命として申請した、ためのものであります 右当時援護係 宮村幸延 (印) 梅沢裕殿 昭和六二年三月二八日
」との記載がある。 (イ) 翌(昭和62年3月28日)朝、朝から飲酒していた宮村幸延を控訴人梅澤が訪れ、自らが作成したと記載された文書を示したこと、宮村幸延は、これを真似て親書(「証言」と略称)を作成したことが認められる。 (ウ) 被控訴人らは、「証言」は宮村幸延が飲酒酩酊させられたうえで書かされたものと主張する。しかし、「証言」の筆跡は比較的しっかりしており、被控訴人らの主張は採用できない。 他方、控訴人梅澤の陳述書には、幸延氏を1人で訪れ、訪問の理由をお話しすると、「幸延氏は突然私に謝罪したうえで、集団自決者の遺族や孤児に援護法を適用するために軍命令という事実を作り出さなければならなかったと語って下さいました」「私は、隊長命令がなかったことだけははっきりするようお願いします」「幸延氏は、私の目の前で、一言々々慎重に『証言』をお書きになりました」、その後、杯を酌み交わし、義兄弟を約したと記載されている。しかし、そのような作成状況であれば、文書が存すること自体 不自然あり得ないことで、措信し難い。 控訴人梅澤が沖縄タイムスの新川明に昭和63年12月22日に語った内容とも異なり、措信し難い。すなわち、控訴人梅澤は、新川明に対しては、「彼(宮村幸延)が私に謝りながら書いたんですよ。『どういうふうな書き出しがいいでしょうか』と言うから、『そうか』と、『書き出しはこれぐらいのことから書いたらどうですか』と私は2、3行鉛筆で書いてあげました。そしたら彼は『あ、分かった分かった、もういい。あとは私が書く』と言って、全然私が書いたのと違う文章を彼が書いてああいう文書をつくったわけです。『これはしかし梅澤さん、公表せんでほしい』と言った。『公表せんと約束してくれと』と。私はそれについては『これは私にとっては大事なもんだと。家族や親戚、知人には見せると。しかし公表ということについては、一遍私も考えてみよう』と。公表しないなんて私は言っておりませんよ」と語っており、この 証言作成後2年足らずの時点で新川明に語った作成状況と控訴人梅澤の陳述書の内容は全く異なっており、控訴人梅澤の陳述書の記載に疑問を抱かせる。 要約8:大阪高裁の裁判官は、援護法の適用問題について次のように指摘しています。 (1)宮里盛秀助役の弟・宮村幸延の作成した証言(昭和62年3月28日)には「集団自決は梅澤部隊長の命令ではなく当時兵事主任(兼)村役場助役の盛秀の命令で行なわれた。之は弟の宮村幸延が遺族補償のためやむえ得えず隊長命として申請した」とあります。 (2)控訴人梅澤は、酩酊している宮村幸延に下書きを見せて、証言を書かせたことが認められる。 (3)被控訴人は、飲酒酩酊上の「証言」と主張するが、筆跡はしっかりしており、被控訴人の主張は採用できない。 (4)梅澤の陳述書には、「幸延氏は、一言々々慎重に『証言』を」書いたとあるが、下書き文書の存在と矛盾する。 (5)証言作成とその2年後の沖縄タイムスとの証言は全く異なっており、梅澤の陳述書の記載に疑問を抱かせる。 |
| 9 | (エ) 宮村幸延のところに残されていた文書は、控訴人梅澤の自筆と認められるところ(控訴人梅澤も本人尋問で認めている)、その内容は、押印すればいいだけの完成された文書である。控訴人梅澤の陳述書やこれに副った本人尋問の結果は到底採用できない。 (オ) それではなぜ宮村幸延は「証言」の作成に応じたのか、また、作成経緯はともかく「証言」の肉容自体は事実に合っているのかが次に問題となる。 その当時の事情として、宮村幸延は、既に初枝から、昭和20年3月25日の本部壕で控訴人梅澤は兵事主任であった助役らが自決用の弾薬の提供を求めたのに断ったという話を聞いており、控訴人梅澤が直接自決命令を出してはいないと理解していたこと、初枝と同様に控訴人梅澤がマスコミの標的となり家庭崩壊等極めて苦しい立場におかれていると聞いて深く同情していたであろうことなどが推認できる。 そうだとすると、「証言」は、控訴人梅澤が家族に見せて納得させるだけのものであることを前提に、アルコールの影響も考えられる状況のもとに、控訴人梅澤の求めに応じて交付されたものにすぎないと考えるのが相当である。そして、「証言」の内容は、初枝の話を前提としたものにすぎず、梅澤命令それ自体が遺族補償のために捏造されたものであることを証するようなものとは評価できないというべきである。 現に、控訴人梅澤も沖縄タイムスの新川明との会談で認めていたとおり、宮村幸延は、座間味島で集団自決が発生した際には、座間味島にいなかったのであって、梅澤命令が実際にはなかったなどと語れる立場になかったことは明らかである。 沖縄タイムスが、昭和63年11月3日、座間味村に対し、集団自決についての認識を問うたところ、座間味村長宮里正太郎は、「宮村幸延氏は、当時はひどく酩酊の時で梅澤氏が原稿を書いて来ていろいろ説得され又、強要されたので仕方なく自筆で捺印した様である。しかし、これは決して公表しないこと堅く約束したので書いたもの」「遺族補償請求申請は生き残った者の証言に基づき作成し、又村長の責任によって申請したもので一人の援護主任が自分勝手に作成できるものではな」いとも記載している。 また、同文書に添えられた田中村長の県援護課等への回答には、宮村幸延の証言として「その日は投宿中の旧日本兵二人と朝六時頃から酒を飲んでいた、午前10時頃に問題の梅沢氏が入り込んできて”家族だけに見せるもので絶対に公表しない事を堅く約束するとの事で仕方なく応じ、これはなんの証拠にもならないことを申し添えたと本人は証言」とされている。 さらに、参考資料として、「村長田中登は、助役の命令では住民は動かなかったと思う、軍命だと聴いて自決に動いたと皆が話している」と当時の実惰を記載している。宮村幸延は、座間味村からすれば、まさに自決命令について語れる立場になかった者といえる。 要約9:大阪高裁の裁判官は、援護法の適用問題について次のように指摘しています。 (1)宮村幸延のところに残されていた文書は、控訴人梅澤の自筆と認められ、梅澤の陳述書は到底採用できない。 (2)宮村幸延は、初枝からの話で、梅澤が自決命令を出してはいないこと、梅澤の家庭崩壊等に深く同情していた。 (3)梅澤の求めに応じてもので、「証言」の内容は、遺族補償のために捏造されたものとは評価できない。 (4)宮村幸延は、集団自決発生時、座間味島にいないので、梅澤命令がなかったなどと語れる立場になかった。 (5)座間味村長宮里正太郎「遺族補償請求申請は一人の援護主任が自分勝手に作成できるものではな」い。 (6)村長田中登「家族だけに見せるもので公表しない事を堅く約束・・仕方なく応じ、なんの証拠にもならない」 (7)村長田中登「助役の命令では住民は動かなかった。軍命だと聴いて自決に動いた」 (8)宮村幸延は、座間味村からすれば、まさに自決命令について語れる立場になかった者といえる。 |
| 10 | (カ) 控訴人梅澤の陳述書も措信し難い。 カ (ア) 略 (イ) 「母の遺したもの」の記載を子細に検討すれば、自決命令の具体的な内容自体はそれまでに既に存在し、他の者も供述していたのであり、それを前提に「はい、いいえ」で質疑応答され、初枝自身の見聞きした本部壕での控訴人梅澤とのやり取りを述べなかったというにすぎない。 この点、宮城証人は、その陳述書に「隊長命令については、『住民は隊長命令で自決したといっているが、そうか』との質問に『はい』と答えたと書きましたが、それ以上に自分からは説明しなかったとのことです」と、「母の遺したもの」の記載の趣旨を補足している。 (ウ) そして、これまでに判示してきた援護法の適用についての事実からすれば、「母の遺したもの」から集団自決について援護法の適用のために梅澤命令説が捏造されたとまでは認めることはできない。 キ 他方、控訴人梅澤に対して、村当局から、援護法適用のため自決命令を出したことにしてくれなどという依頼がなされた形跡はなく、控訴人梅澤もその様な依頼を受けたことを述べていない。先に見た分類Nの自決命令などという重大な事柄が、行政庁内で軽々しく捏造されたなどとは考えにくい。照屋昇雄の赤松大尉への命令捏造依頼説は、成功したとはいえない。 ク 以上を総合すると、住民が集団自決について援護法が適用されるよう強く求め、自決命令の有無がそれに関係していたことは認められるものの、そのために梅澤命令説及び赤松命令説が捏造されたとまで認めることはできない。 要約10:大阪高裁の裁判官は、援護法の適用問題について次のように指摘しています。 (1)宮城初枝の娘・宮城晴美の『母の遺したもの』を検討すると、自決命令の内容は既に存在し、それを前提に「はい、いいえ」で質疑応答され、本部壕での控訴人梅澤とのやり取りを述べなかったというにすぎない。 (2)宮城晴美の陳述書に「『住民は隊長命令で自決したといっているが、そうか』との質問に『はい』と答えたが、それ以上に自分(宮城初枝)からは説明しなかった」とある。 (3)分類Nの自決命令いう重大な事柄が、行政庁内で捏造されたとは考えにくい。照屋昇雄の赤松大尉への命令捏造依頼説は、成功したとはいえない。 (4)自決命令の有無が援護法の適用に関係しているものの、命令説が捏造されたとまで認めることはできない。 |