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(3) 援護法の適用問題について(184P)
 控訴人らは、梅澤命令説及び赤松命令説が集団自決について援護法の適用を
受けるためのねつ造であったと主張する。そして、(2)で指摘したとおり、座間
味島、渡嘉敷島における集団自決に関しては、多数の諸文献、証言等が存する
ところ、控訴人、被控訴人らにおいては、その信用性等を争う諸文献等が存する。
そして、控訴人の諸文献等の信用性批判の根幹に援護法の適用問題があるの
で、集団自決に関する諸文献等の信用性の判断に先立ち、まず援護法の適用問
題について判断する。

 援護法が、軍人軍属等の公務上の負傷若しくは疾病又は死亡に関し、国家補
償の精神に基づき、軍人軍属等であつた者又はこれらの者の遺族を援護すること
を目的して制定された法律であり、昭和27年4月30日に公布されたこと
は、当裁判所に顕著であり、この当裁判所に顕著な事実に、証拠(甲B51、
乙16、32、35の1及び2、36ないし38、39の1ないし5、47の1及
び2、95並びに96)を併せ検討すれば、援護法の沖縄に対する適用経緯等
について、次の事実が認められる。

(ア)  援護法は、軍人軍属等の公務上の負傷若しくは疾病又は死亡に関し、国家
補償の精神に基づき、軍人軍属等であつた者又はこれらの者の遺族を援護す
ることを目的して制定された法律であり、昭和27年4月30日に公布され
た。

(イ)  沖縄は米軍の占領下にあり、日本法を直ちに適用することができなかった
ため、日本政府は、同年8月、那覇日本政府南方連絡事務所を設置した。同
所と米国民政府との折衝の結果、日本政府は、昭和28年3月26日、北緯
29度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)に現住する者に対
して援護法を適用する旨公表した。
 他方、琉球政府においては、同年4月1日、社会局に援護課が設置され、
援護事務を取り扱うこととされた。

(ウ)  日本軍が沖縄に駐屯を開始したのは昭和19年6月ころであったが、駐屯
当初、日本軍は、公共施設や民家を宿舎として使用し、軍人と住民が同居す
ることがあった。そのほかにも、住民は、陣地構築や炊事・救護等で、軍に
協力する立場にあった。また、沖縄戦は、島々を中心に前線もないままに戦
闘が行われたため、軍と住民は、軍の駐屯から戦争終了まで行動を共にする
ことが多かった。
 このような事情により、住民を戦闘参加者と戦闘協力者に区分することは
容易ではなかった。この点について、昭和30年3月に終戦後援護業務のた
め沖縄に出張滞在した厚生事務官馬淵新治(元大本営船舶参謀)は、防衛研修
所戦史室の依頼により執筆した報告書(乙36)において
「複雑多岐な様相を帯
びている沖縄戦では、戦斗協力者と有給軍属、戦斗協力者と一般軍に無関係
な住民との区別を、如何なる一線で劃するか、誠に至難な問題が介在してい
る。結局総ゆる事例について調査解明して最も明瞭なものから、逐次処理し
つつ、其の範囲を縮少し、最後に左右いずれにするかの『踏み切り』をする
以外にないように思われる。」として、調査のため厚生省から担当事務官3
名が長期に現地に派遣される段階になったとしている。また、それまでの自身に
よる戦闘協力の実態調査により戦闘協力者を区分し、その中に慶良間群島の集
団自決をあげ、「軍によって作戦遂行を理由に自決を強要されたとする本事例は、
特殊の[ケース]であるが、沖縄における離島の悲劇である。」としている
(乙3
6・41〜43頁)。
  昭和31年3月、戦闘参加者の範囲を決定するため、厚生省引揚援護局援護
課の職員らが沖縄に派遣され、沖縄戦の実態調査を行った。沖縄県の住民は、
沖縄県遺族連合会が懇談会、協議会を開催するなど、集団自決について援護
法が適用されるよう強く求め、琉球政府社会局を通して厚生省に陳情する運
動を行った。
 以上の実態調査や要望を踏まえて、厚生省は、昭和32年7月、沖縄戦の
戦闘参加者の処理要綱を決定した。この要綱によれば、戦闘参加者の対象者
は、@義勇隊、A直接戦闘、B弾薬・食糧・患者等の輸送、C陣地構築、D
炊事・救護等の雑役、E食糧供出、F四散部隊への協力、G壕の提供、H職
域(県庁職員・報道関係者)、I区村長としての協力、J海上脱出者の刳舟
輸送、K特殊技術者(鍛冶工・大工等)、L馬糧蒐集、M飛行場破壊、N集
団自決、O道案内、P遊撃戦協力、Qスパイ嫌疑による斬殺、R漁撈勤務、
S勤労奉仕作業の20種類に区分され、その内容が詳細かつ網羅的に定義
され、軍に協力した者が広く戦闘参加者に該当することとされた。その結果、
約9万4000人と推定されている沖縄戦における軍人軍属以外の一般県民
の戦没者のうち、約5万5200人余りが戦闘参加者として処遇された。
のうち、区分N「集団自決」の概況は、「狭小なる沖縄周辺の離島において、米軍
が上陸直前又は上陸直後に讐備隊長は日頃の計画に基いて島民を一箇所に集
合を命じ「住民は男、女老若を問わず軍と共に行動し、いやしくも敵に降伏するこ
となく各自所持する手榴弾を以って対抗出来る処までは対抗し癒々と言う時には
いさぎよく死花を咲かせ」と自決命令を下したために住民はその命をそのまま信じ
集団自決をなしたるものである。尚沖縄本島内においては個々に米軍に抵抗した
後、手榴弾で自決したものもある。集団自決の地域 座間味島、渡嘉敷島、伊江
島」とされている
(乙32、39の5)。
 集団自決が戦闘参加者に該当するかの判断に当たっては、隊長の命令によ
るものか否かは、重要な考慮要素とされたものの、要件ではなく、隊長の命
令がなくても戦闘参加者に該当すると認定されたものもあった。

(エ)  加えて、座間味村の援助法の申請は15次にわたり、申請から認定まで最
短で3週間、平均3か月で補償対象との判断が下された。渡嘉敷村役場で援
護担当であった小嶺幸信は、平成19年1月15日朝刊に掲載された沖縄タ
イムスの取材に対し、「『集団自決』の犠牲者を申請するとき、特に認定が
難しかったという記憶はない。」と語った。元琉球政府の社会局援護課の職
員であった金城見好も、同じ取材に答えて、「二、三カ月後の認定は早い。
平均的には三カ月から六カ月かかっていた」「慶良間諸島は、沖縄戦の最初
の上陸地という特別な地域だった。当初から戦闘状況が分かっており、住民
を『準軍属』として処遇することがはっきりしていた。」と説明した。 この点
は先に挙げた厚生省の現地実態調査と、それに基づいて作成された詳細でかつ
網羅的な戦闘参加者の区分にも合致している。

 前記認定事実によれば、昭和27年4月30日に公布された援護法が米軍の
占領下にあった沖縄に適用されることとなったのは昭和28年3月26日であ
ること、その後、琉球政府社会局に援護課が設置され、沖縄戦の実態調査が行
われたこと、集団自決が戦闘参加者に該当することが決定されたのは昭和32
年であること、隊長の命令がなくても戦闘参加者に該当すると認定された自決
の例もあったことが認められ、また、前記(2)ア(ア)で認定した事実並びに証拠
(乙2、35の1及び2)によれば、援護法が公布された昭和27年4月30日
より以前の昭和25年に発行された「鉄の暴風」に、控訴人梅澤及び赤松大尉
が住民に自決命令を出した旨の記述があり、その内容も具体的に記載されている
こと、昭和20年に作成された米軍の「慶良間列島作戦報告書」には、「尋問
された民間人たちは、3月21日に、日本兵が、慶留間の島民に対して、山
中に隠れ、米軍が上陸してきたときは自決せよと命じたとくり返し語ってい
る」との記述があり、座間味村の状況について、「明らかに、民間人たちは捕
らわれないために自決するように指導 (勧告)されていた」との記述があるこ
と(この林教授の訳について控訴人が疑義を呈しているけれども、後記第4
・5(4)エのとおり、控訴人らの主張するとおりに「慶良間列島作戦報告書」の
該当部分を訳したとしても、軍が住民に自決を勧めていた事実は十分に認めら
れる。)が認められる。
 これらの事実に照らすと、梅澤命令説及び赤松命令説は、沖縄において援護
法の適用が意識される以前から 具体的な内容をともなって存在していたことが認
められるから、援護法適用のために捏造されたものであるとする主張は 採用で
きない 。また、前記のとおり、隊長の命令がなくても戦闘参加者に該当すると
認定された自決の例もあったことが認められるなど、日本軍がその作戦に様々
な形で住民を協力させ、軍と行動を共にさせるなどして集団自決などの悲惨な結果
を招いていることは沖縄戦全体の特徴として厚生省の現地調査の結果でも知られて
おり、上記のとおり戦闘に協力した住民を広く準軍属として処遇することになってい
たのであるから、梅澤命令説及び赤松命令説を後日になってあえて握造する必要
があったとはにわかに考え難い。

(ア)  これに対し、前記のとおり、昭和20年代後半から琉球政府社会局援護課
に勤務していたとする照屋昇雄は、渡嘉敷島での聞き取り調査について、
「1週間ほど滞在し、100人以上から話を聞いた」ものの、「軍命令とす
る住民は一人もいなかった」と語ったとし、赤松大尉に「命令を出したこと
にしてほしい」と依頼して同意を得た上で、遺族たちに援護法を適用するた
め、軍による命令ということにし、自分たちで書類を作り、その書類を当時
の厚生省に提出したとの趣旨を語ったとされる(甲B35及び38)。証拠
(甲B63ないし65 、乙56の1及び2、57の及び2、58並びに59)によ
れば、照屋昇雄 (本件訴訟では、昭和28年3月着任と主張されていた)は、
昭和29年10月19日琉球政府の社会局援護課の援護事務の囑託職員となり、昭和3
0年5月1日には旧軍人軍属資格審査委員会臨時委員となり
、同年12月に選
考により三級民生管理職として琉球政府に採用され、沖縄中部社会福祉事務
所の社会福祉主事として勤務したこと、昭和31年10月1日に沖縄南部福
祉事務所に配置換えとなり、昭和33年2月15日こ社会局福祉課に配置換
えとなり、同年10月には社会局援護課に在籍していたことが認められる。

(イ)  本件訴訟継続中の平成18年8月27日付けの産経新聞朝刊の3面にわたる記
事(甲835)及び「日本文化チャンネル桜」社長水島総ほか2名の取材班による
現地詳細報告「妄説に断!渡嘉敷島集団自決に軍命令はなかった」(正論平成1
8年11月号所収甲B38)によると、同年5月から9月にかけて語られたという照
屋昇雄の話の要点は次のようなものである。

@  照屋昇雄は、昭和20年代後半から琉球政府社会局援護課で旧軍人軍属資
格審査委員会委員を務めた。当時援護法に基づく年金や弔慰金の支給対象者
を調べるため、渡嘉敷島で100名から200名の聞き取り調査をした。

A  その100名以上の人のなかに集団自決が軍の命令だという住民は、女も男
も全部集めて調査したが、1人もいなかった。
B  集団自決に援穫法の適用が出来ないか東京の審査委員会で(南方同胞)援
護会などが掛け合ったがだめだった。規定の中に隊長の命令によって死んだ
場合はお金をあげましょうという条文があるが、誰かわからないが当時の隊長
さんたちに自決命令を出したと言ってくれとお願いしたが応じてもらえなかった。
そして、(1955年だったかなあ)、12月頃、最後の東京の会議があり、自分は
参加していないが渡嘉敷島の玉井喜八村長さんが参加したらしい、その時に厚
生省の課長さんから、赤松さんが村を助けるために十字架を背負いますと言っ
ていると聞いて、村長が早速赤松隊長の自宅に会いに行って、隊長命令を書く
と言うことになっているそうですがと話したら、お前らが書ければサインして判子
押しましょうということになった、25日に村長が帰ってきたので、翌月の15日か
16日に間に合わせるように隊長命令を書くと言うことで、2人(甲B35では3
人)で夜通しで作った。
C  作ったのは命令ではなく、渡嘉敷住民に告ぐと書いてあった、赤松隊長の身
になって書いた、何年何月何日、渡嘉志久から米軍が上陸して、もはや村の役
所の前に来ている、国のため降伏せず、1人でもアメりカ人をやっつけてという
ような内容だったはず、住民も死して国のためにご奉公せよとかたくさん書いて、
自決せよとかそんな命令じゃあない、教育じみているのが命令書となっている。
15日の閣議に出さなければ間に合わないということで、村長さんが赤松隊長
のサインと判子をもらって間に合わすように持っていった。
D  村人は、赤松さんがそうやってくれたから援護金が出たことを聞いてわかって
いるからどんな人が来ても絶対に言わない。
E  今回証言するには深いわけがある。赤松隊長はガンで余命3ヶ月のとき、玉
井村長に何回も電話をしてきて、私は命が3ヶ月しかありませんから、村史から
私が自決命令をしたことを削除して訂正文をはさんで欲しいと頼んで来た。玉
井村長は悩んで眠れなくなり、自分も相談され親身に慰めたが、赤松大尉が死
亡してしまい、村長も心労のため病気して、まもなく死亡した。十字架を背負っ
てくれた人や玉井村長に安らかに眠ってもらうためにも、自分も、生きているう
ちに真実を言おうと決心したものである。

(ウ)  照屋昇雄の話は以上のような内容である。しかし、赤松大尉に軍命令を出した
ことにすることを依頼し(最初に誰が依頼をしたかははっきりしないが)、了解を得
て、偽の軍命令の文書を作成してそれにサインと押印を得て、厚生省に提出した
などと云うことは、赤松大尉の生前の行動と明らかに矛盾する。赤松大尉の潮掲
載の手記(甲B2)は前掲(原判決第4の5(2)イ(イ)a)のようなもので、当時、自分は
住民の処置は頭になかったので、部落の係員に聞かれて、部隊は西山のほうに
移動するから住民も集結するなら部隊の近くの谷がいいだろうと示唆した、これが
軍命令を出し、自決命令を下したと曲解される原因だったかもしれない、というも
のである。すなわち、赤松大尉自身は軍命令を出した覚えないので、マスコミ等
で極悪無残な鬼隊長などと非難され、その原因を自らに問い、考えた結果、西山
へ住民を部隊と共に移動させたのが曲解される原因だったのかもしれないと考え
るというのである。同大尉が、軍命令の捏造を村長に依頼されそれを了解して偽
の命令書(?)にサインしたのだとすれば、赤松命令説の根拠についてこのように
考察してみせ手記に記述したのは、そのよう経緯をカモフラージュするためだと
いうことにならざるを得ないが、控訴人赤松本人尋問の詰果や後掲の甲B80号
証によってうかがわれる赤松大尉の人柄からすれば、同大尉がそのような器用な
まねをするとは考えられないし、「血の叫び」だとする同手記の真摯さにもそぐわな
い。また、同手記には、大学生の娘から軍人なら住民を守るのが義務ではないか
と質問されたことが記載されており、その娘である佐藤加代子の陳述書(甲B80)
では、大学1年生の時に「鉄の暴風」の父親に関する実名の記事を読み、息が止
まるほどのショックを受けたこと、父にも怖くて聞けずに文献を調べるなど1年ほど
1人で悶々と悩んだこと、父は質問されたと書いているが、むしろ事実や父の弁明
を聞くというよりは一方的に詰問口調で父をなじったような感じであること、その後
ようやく父そして父の抱えた問題と心の中で折り合いをつけていき、父への尊敬
や愛情を失うことなく関係を継続することができたこと、ただ、今になってみると、も
っと父に集団自決のことを含む戦争体険についてきちんときちんと聞いておけばよ
かったと後悔もしていること、父は希代の悪人とされながらも耐えていたのだと思
うが、本当は真実はこうだったともっともっと世間に対して弁明したかったのだと思
うし、家族にはなおいっそうのこと真実を知ってもらいたいという思いもあったと思
うということや、曽野綾子のきちんとした取材で父が知る限りのことを話せたこと、
マスコミヘの厳しい批判などが、12頁にわたり心情のままに自然に語られている。
これによってうかがうことのできる赤松大尉の家族の間のつながりなどに照らし、
仮に照屋昇雄の述べるようなことがあったとすれば(自分が依頼に応じて偽の命
令書にサインしたことによって家族に大きな負担を掛けたことになるのであるか
ら)、そのことは家族に話されていないはずはないし、上記の手記や陳述書に記
載されたような形での赤松大尉を含めた家族の中での大きな苦悩はあり得ないこ
とである。佐藤加代子の陳述書の日付は平成19年10月6日であり、上記平成1
8年8月の産経新聞の記事(甲B35)や同年11月号「正論」掲載の「日本文化チ
ャンネル桜」取材班の報告(甲B38)は佐藤加代子や控訴人赤松の知るところで
あろうが、それに沿った事実は、上記陳述書や控訴人赤松の陳述書(平成19年
9月29日付、甲B79)や本人尋問にも全く出てこない。照屋昇雄の話は、身近に
いた者たちとしてみれば、あまりにも荒唐無稽なあり得ない話として、明らかに黙
殺されているものと理解される。また、昭和55年に死亡した赤松大尉が、余命が
3ヶ月しかないと告げて村長に村史から自決命令の削除を求めて何度も電話をし
たのであれば、そのことを、家族が知らないなどということもあり得ない。その当時
は、既に、赤松大尉もその家族らも赤松命令説の誤りは明らかになったと考えて
いた時期であるし、そもそも、赤松大尉が村史の記載を知っていて、死の直前に
何度も電話を掛けてそれの削除を依頼するほど気にしていたなどということの裏
付けもない(ちなみに多年の宿願であったと発刊の辞が付された渡嘉敷村史資料
編甲B39は昭和62年3月31日発行である。)。

(エ)  赤松大尉は、昭和46年の前記手記でも、照屋昇雄の述べるようなことに一切
触れていないことは前記のとおりである。照屋昇雄の話が本当なら、曽野綾子は、
「ある神話の背景」のための赤松大尉への取材を昭和45年に極めて丁寧に行っ
ておりながら、赤松大尉が秘密を守ったがために、神話の背景の最も根本的なと
ころを誤ってしまったということになるが、いかにも不自然である。ちなみに、曾野
綾子は、軍命令説と年金を得ることとの関係にもほかの箇所では触れているので
あるから、問題自体を認識していなかった訳ではなく、赤松大尉からは、その様な
話を聞かされてはいないのである。

(オ)  戦後間もない頃から渡嘉敷島に赤松隊長命令説があったこと自体は、控訴人
らも特に争わず、その原因を自ら検討しているところであるし、「鉄の暴風」にも伝
聞であるにせよその具体的内容が記録され、馬渕新治の調査(乙36)でも確認さ
れている。それなのに、軍命令とする住民は1人もいなかったという点や、逆に、
照屋昇雄と村長(ともう1人の担当者)及び赤松大尉しか知らないはずの軍命捏
造のことを住民みんなが聞いて知っており黙っているという点なども、不自然であ
る。

( カ )  証拠(乙60及び61)によれば、本訴の被控訴人ら代理人である近藤卓
司弁護士は、平成18年12月27日付け行政文書開示請求書により、厚生
労働大臣に対し、前記産経新聞に掲載された「沖縄県渡嘉敷村の集団自決に
ついて、戦傷病者戦没者遺族等援護法を適用するために、照屋昇雄氏らが作
成して厚生省に提出したとする故赤松元大尉が自決を命じたとする書
類」の開示を求めたが、厚生労働大臣は、平成19年1月24日付け行政文
書不開示決定通知書で「開示請求に係る文書はこれを保有していないため不
開示とした。」との理由で、当該文書の不開示の通知をしたことが認められ
る。・・なお、控訴人らは、当審で、書類の保存期間満了による廃棄等の可能
性や、沖縄本土復帰の時に沖縄側に引き渡されたなどと主張し、正論20年6月
号の論考(甲B107)を提出するが、所管庁への調査嘱託や引渡しの法令上の根
拠、事務取扱規程等の裏付けも全くない話であり、採用できない。

(キ)  その他、照屋昇雄の話は、訴訟の係属中に発表されたものでありながら反対
尋問を経ていないこと、内容的にも、その年代や、伝聞なのか実体験なのか、捏
造したという軍命令の内容や、戦後10年以上後に捏造したような命令書が厚生
省内で通用した経緯など、あいまいな点が多く、他方、赤松大尉の家族や関係者
に対する裏付け調査や信用性に関する裏付け吟味もないままに新聞・雑誌・テレ
ビ等向けの話題性だけが先行して(この点は後に見る富平秀幸新証言とも共通す
る。)その後の裏付け調査がされた形跡もないことなど、問題が極めて多いものと
いわざるを得ない。

(ク)  以上の次第で、援護法適用のために赤松命令説を作り上げたという照屋昇雄の
話は全く信用できず、これに追随し、喧伝するにすぎない前掲の産経新聞の記
事(甲835)や「日本文化チャンネル桜」取材班の報告(甲B38)も採用できない。

(ア)  盛秀助役の弟である宮村幸延が作成したとされる昭和62年3月28日付
け「証言」と題する親書(甲B8)には、「証言 座間味村遺族会長 宮村
幸延
 昭和二十年三月二六日の集団自決は梅澤部隊長の命令ではなく当時兵
事主任(兼)村役場助役の盛秀の命令で行なわれた。之は弟の宮村幸延
が遺族補償のためやむえ得えず隊長命として申請した、ためのものでありま
す 右当時援護係 宮村幸延 (印) 梅沢裕殿 昭和六二年三月二八日 」との
記載がある。

(イ)  しかしながら、宮村幸延は、「別紙証言書は、私し(宮村幸延)が書いた文面
でわありません」との書面(乙17)を残しているほか、証拠(甲B5、
33、85、乙18、41、宮城証人及び控訴人梅澤本人)によれば、昭和
62年3月26日の座間味村の慰霊祭に出席するために座間味島を訪問した
控訴人梅澤は宮村幸延の経営する旅館に宿泊したこと、宮村幸延は、控訴人
梅澤から、昭和62年3月26日、「この紙に印鑑を押してくれ。これは公
表するものではなく、家内に見せるためだけだ。」と迫られたが、これを拒
否したこと、同月27日、控訴人梅澤が同行した戦友という2人の男が宮村
幸延に泡盛を飲ませ、宮村幸延は泥酔状態となったこと、その翌朝、朝から
飲酒していた宮村幸延を控訴人梅澤が訪れ、宮村幸延に対し、自らが作成し
た「昭和二十年三月二十六日よりの集団自決は梅澤部隊長の命令ではなく助
役盛秀の命令であった。之は遺族救済の補償申請の為止むを得ず役場当
局がとった手段です。右証言します。昭和六十二年三月二十八日 元座間味
村役場 事務局長 宮村幸延 梅沢裕殿 」と記載された文書(甲B85は、
その拡大写真)を示したこと、宮村幸延は、これを真似て前記昭和62年
3月28日付け「証言」と題する親書(甲B8 以下この項で、これを「証
言」と略称する。)を作成したことが、それぞれ認められる。・・。

(ウ)  被控訴人らは、「証言」は宮村幸延が飲酒酩酊させられたうえで書かされたも
ので、同人の意思に基づくものではないと主張する。しかし、「証言」の筆跡は比
較的しっかりしており、控訴人梅澤に示された書面を機械的に写しただけもので
はなく、宮村幸延が判断力を失うほどに酪酊していたとは到底認められないから、
被控訴人らの主張は採用できない。

 他方、控訴人梅澤は、その陳述書(甲B33)で、宮村幸延が前記「証
言」・・を、その意思で作成したとして、次のように記載する。・・、同陳述書
(2)(甲B33)では、控訴人梅澤は慰霊祭の終わった28日座間味村役場に
田中村長を訪ねたが、補償問題を担当していた幸延氏に聞いてくれといわれて、
その足で幸延氏を1人で訪れ、訪問の理由をお話しすると、「幸延氏は突然私に
謝罪したうえで、それまで一人で抱え続けてきた胸のつかえを一気に取り去るよう
に、集団自決者の遺族や孤児に援護法を適用するために軍命令という事実を作
り出さなければならなかった経緯を切々と語って下さいました。『村中の者もその
ことは知っています。』とも仰いました。『こんなに村が裕福になったのは、梅澤さ
んのお陰です。貴方がこの島の隊長であったことを誇りとしています。しかし、無
断で勝手にやったこと、本当に済みませんでした。』と頭を垂れて再び謝罪されま
した。
」「私は宮村幸延氏に、是非とも今仰った内容を一筆書いて頂きたいとお願
いした。宮村幸延氏はどのように書いたら良いでしょうかと尋ねられたので、
私は、お任せします、ただ、隊長命令がなかったことだけははっきりするよ
うお願いしますとお答えしたのです。」「大手の清水建設に勤務され、その
後厚生省との折衝等の戦後補償業務にも携わっていた経歴をお持ちの幸延氏
は、私の目の前で、一言々々慎重に『証言』(甲B8)をお書きになりま
した。」と記載され、その後、語り終わって共に杯を酌み交わし、義兄弟を約し
たと記載されている。

 しかし、そのような作成状況であれば、前記 「証言」の案文であったとみら
れる梅澤が作成した前記文書
(甲B85)が存すること自体 不自然あり得ないことで、
控訴人梅澤の陳述書(甲B33)は、この部分で措信し難いし、控訴人梅澤
が沖縄タイムスの新川明に前記「証言」の作成状況として昭和63年12月22
日に語った内容
(乙43の1及び2・5頁)とも異なり、措信し難い。
すなわち、控訴人梅澤は、新川明に対しては、「今度、忠魂碑を、部下の切
り込んだやつの忠魂碑を建てるために今度行った。その時に聞いたら、彼は
まあ、酔ってないとは言いませんが、彼がそういう風に私に『本当に梅澤さ
ん、ありがとうございました。申し訳ございません』とこうやってね、手を
こうやってね、謝りながら書いたんですよ。『一筆書いてくれんか』って。
『いやー書くのは苦手だけれどもなあ』と。『だってあんたは役場におった
人でいろいろ文書も書いたろうと。わかるだろう』と。『どういうふうな書
き出しがいいでしょうか』と言うから、『そうか』と、『書き出しはこれぐ
らいのことから書いたらどうですか』と私は2、3行鉛筆で書いてあげまし
た。そしたら彼は『あ、分かった分かった、もういい。あとは私が書く』と
言って、全然私が書いたのと違う文章を彼が書いてああいう文書をつくった
わけです。まあ、よく聞いてくださいよ。それで結局私は『ありがとう』と。
『ついでに判を押してもらえたらなあ』と言ったら、彼は商売しておるから
店の事務所の机の上から判を持ってきて押して『これでいいですか』と。
『ありがとう』と。『これはしかし梅澤さん、公表せんでほしい』と言った。
『公表せんと約束してくれと』と。私はそれについては『これは私にとって
は大事なもんだと。家族や親戚、知人には見せると。しかし公表ということ
については、一遍私も考えてみよう』と。公表しないなんて私は言っており
ませんよ。やっぱりこれはですね、沖縄の人に公表したら大変だろうけれど
も、内地の人に見せるぐらいは、しらせたいというのが私の気持ちだから。
そういうふうなことで別れた。」「あの人はね、まあ言うたらやね、毎日、
朝起きてから寝るまで酒を続けています。」と語っており、この 「証言」作
成後2年足らずの時点で
新川明に語った作成状況と控訴人梅澤の陳述書(2)
(甲B33)の前記記載内容は全く異なっており、控訴人梅澤の陳述書(2)
(甲B33)の記載に疑問を抱かせる(なお、控訴人梅澤の陳述書(2)(甲B
33)には、沖縄タイムスの新川明との対談の経緯等についての記載もある
ところ、原審第9回口頭弁論期日に提出されたこの陳述書(2)(甲B33、平
成18年8月26日付)が被控訴人らからの反論を踏まえて検討して書かれた
ものであるにもかかわらず(同1頁冒頭)、前記新川明との対談の経緯等は、
乙第43号証の1及び2の録音内容に照らして措信しがたく、この陳述書(2)
(甲B33)全体の信用性を減殺せしめる。)。
 また、前記のとおり、証拠(乙43の1及び2)によれば、控訴人梅澤が沖
縄タイムスの新川明に語った前記「証言」・・の作成状況では、宮村幸延がこ
れを酔余作成したものであることを認めている(乙43の2・5頁)。

(エ)  控訴人梅澤は、前記のように「証言」に対する被控訴人らの反論を踏まえてもう
一度詳しく説明するとして作成した前記陳述書(2)(甲B33)でも、1人で訪れた最
初の日(28日)に来意を告げるとすぐ謝られたといい「証言」を書いてもらうについ
て案文を提示したことを否定し、昭和63年の沖縄タイムスの新川明との対談でも
書き出しを尋ねられて2、3行鉛筆で書いてあげたら、わかった、もういい、後は自
分で書くとして全然違った文書を書いたと具体的なやり取りを詳細に述べている。
しかし、宮村幸延のところに残されていた文書(甲B85)は、控訴人梅澤の自筆と
認められるところ(控訴人梅澤も本人尋問で認めている。)、その内容は、前掲の
とおりであり、右証言しますという本文の内容、作成の日付、作成者宮村幸延の
肩書きと氏名、梅澤裕殿という宛先まで書かれて体裁を整えた書面であり、押印
すればいいだけの完成された文書である。宮村幸延は、あらかじめ用意されてい
たと考えられるこのような文書を示されて押印あるいはこれを手本に自書しての
署名押印を求められたものと認められるが、それは先に(イ)で認定したような26日
からの経緯に副ったもので、控訴人梅澤は意識的にそのような作成経緯を隠して
いるものと解さざるを得ず、同文書作成の経緯に関する控訴人梅澤の上記陳述
書(2)(甲B33)やこれに副った本人尋問の結果は到底採用できない。

(オ)  それではなぜ宮村幸延は「証言」の作成に応じたのか、また、作成経緯はとも
かく「証言」の肉容自体は事実に合っているのかが次に問題となる。宮村幸延が
判断力を失うほど酩酊していたとは認められないことは前記のとおりであるが、
「証言」の文章は、手本とされた控訴人梅澤作成の完全な文書に比べて文脈や体
裁がやや乱れており、座間味村遺族会長の立場を初行に打ち出し、助役とある盛
秀の肩書きに兵事主任を先にして兼助役とし、「役揚当局がとった手段」というの
を「弟である自分が遺族補償のためやむを得ず隊長命として申請したもの」と改め、
自分の肩書きの役場事務局長を当時援護係としている。他方、その当時の事情と
して、宮村幸延は、既に初枝から、昭和20年3月25日の本部壕で控訴人梅澤は
兵事主任であった助役らが自決用の弾薬の提供を求めたのに断ったという話を
聞いており、控訴人梅澤が直接自決命令を出してはいないと理解していたこと、
そして援護法適用の際の調査の時に初枝はそのことを述べず控訴人梅澤がマス
コミの標的にされたことに深い罪悪感を感じていることを知っていたこと、援護事
務においては座間味戦記に書かれた梅澤命令説が前提とされており後に初枝の
話を聞いてからはそれが事実と異なると知り自分自身も担当者としてやや負い目
を感じていたであろうこと、初枝と同様に控訴人梅澤がマスコミの標的となり家庭
崩壊等極めて苦しい立場におかれていると聞いて深く同情していたであろうことな
どが推認できる。そうだとすると、宮村幸延は、最初の日は控訴人梅澤の文書へ
の押印依頼を断ってはいたものの、控訴人梅澤やその戦友たちと酒を酌み交わ
すうちに、控訴人梅澤の立場に一層同情するようになり、家族に見せて納得させ
るだけだといわれて、初江から聞いていた話を前提として、自分の責任を前に出
すようなニュアンスで「証言」を作成して控訴人梅澤の求めに応じたことが、十分
考えられ、このような推論を左右するような事情はなく、後述の座間味村への同人
の釈明や妻文子の陳述(乙41)、宮城晴美の調査(乙18)とも一致している。そし
て、その上で、控訴人梅澤も新川明との対談では認めていたように、宮村幸延は、
改めて、「これはしかし梅澤さん、公表せんで欲しい」「公表せんと約束してくれ」と
明確に求めていたものと認められる。控訴人悔澤は、そのような経緯を十分自覚
しているからこそ、本件訴訟においては、反論を踏まえ更に詳しく説明するとして
提出した陳述書(2)や本人尋問においても、その様な作成経過を意識的に隠そうと
したものと考えざるを得ない。
 そうだとすると、「証言」は、控訴人梅澤が家族に見せて納得させるだけのもの
であることを前提に、アルコールの影響も考えられる状況のもとに、控訴人梅澤の
求めに応じて交付されたものにすぎないと考えるのが相当である。宮村幸延が、
前記のように、同文書は「私し(宮村)が書いた文面でわありません」(乙17)とし
ているのも、言われて書かされた文面であり自分の考えを示すものではないとい
う趣旨を言わんとしたものと解される。そして、「証言」の内容は、初枝の話を前提
としたものにすぎず、座間味戦記に記述されるような梅澤命令それ自体(梅澤命
令説が補償問題以前から村で言われており、住民がそのように認識していたこと
は既に示したとおりである。)が遺族補償のために捏造されたものであることを証
するようなものとは評価できないというべきである。

 現に、控訴人梅澤も沖縄タイムスの新川明との会談で認めていたとおり
(乙43の1及び2)、宮村幸延は、座間味島で集団自決が発生した際には、
座間味島にいなかったのであって、・・昭和20年3月26日の集団自決は梅
澤部隊長の命令ではなく当時兵事主任(兼)村役場助役の盛秀の命令で
行われたとか、座間味戦記に言われている梅澤命令が実際にはなかったなどと
語れる立場になかったことは明らかで・・ある。
 沖縄タイムスが、昭和63年11月3日、座間味村に対し、座間味村にお
ける集団自決についての認識を問うたところ(乙20)、座間味村長宮里正
太郎が、同月18日付けの回答書(乙21の1)で回答したことは、第4・
5(2)ア(ア)mに記載したとおりである。座間味村長宮里正太郎は、前記回答書
(乙21の1)で「・・証言した宮村幸延氏は、当時はひどく酩酊の時で梅澤氏
が原稿を書いて来ていろいろ説得され又、強要されたので仕方なく自筆で捺印し
た様である。しかし、これは決して公表しないこと堅く約束したので書いたもので
、宮村幸延氏も戦争当時座間味村に在住してなく、本土の山口県で軍務にあっ
た。」として、その記載に疑義を呈するとともに、「遺族補償のため玉砕命
令を作為した事実はない。遺族補償請求申請は生き残った者の証言に基づき作
成し、又村長の責任によって申請したもので一人の援護主任が自分勝手に
作成できるものではな」い、「当時の援護主任は戦争当時座間味村に住んで
なく、住んでいない人がどうして勝手な書類作成が出来るのでしょうか。」と
も記載している。 また、同文書に添えられた田中村長の県援護課等への回答に
は、宮村幸延の証言として「その日は投宿中の旧日本兵二人と朝六時頃から酒を
飲んでいた、午前10時頃に問題の梅沢氏が入り込んできて「私も年だ、妻子に肩
身のせまい思いを一生させたくない。茲に原稿を書いてきてある、私の字体は判
るので書き直して捺印を頼む」と強要され、しかもこれは家族だけに見せるもので
絶対に公表しない事を堅く約束するとの事で仕方なく応じ、これはなんの証拠にも
ならないことを申し添えたと本人は証言し且つ新聞記載のことで怒ったら確かに
酒をのんでいた人に申し訳ないと詫びていた由」とされている。さらに、参考資料
として、「村長田中登は、梅沢海上挺進第一戦隊の座間味島進駐時には、主任書
記で軍との渉外係も兼ねていた。この特攻隊受け入れで、当時の模様を簡単に
記して参考にしたい。座間味村は人口約500名の小さな島であったがその小さな
島に人口の約倍の1000人余の日本部隊が進駐してきたので村も島も騒ぐのは
当然であった、しかも同部隊は有名な海上特攻隊とその支援部隊であればなおさ
らだ。」「太平洋戦争では南方輸送路の中継の基地として利用され、続いて昭和1
9年9月の始めには沖縄防衛の海上特攻隊の約5割がケラマに配備される等軍
事一色に塗りつぶされた村となって、軍政下の村政といった感が大きくされ、この
特攻隊が良く言われた秘密兵団でその訓練は「見るな」という事だったが生活は
山との関わりが多く畑も山の段ヽ畑で家畜の草も薪取りも皆、山だった、従って山
に登れば彼等の訓練を見るなといっても見える訳で見たからには軍事機密の漏
洩防止の上から住民の村外えの移動は厳しく規制された。本土から親面会に来
た者が戦後まで帰れなかった例や租界(ママ)まかりならぬという厳しい規制が行わ
れ軍事至上主義がつくられた社会環境になった。その様な中での悲惨な上陸戦
闘を迎え、助役の命令では住民は動かなかったと思う、軍命だと聴いて自決に動
いたと皆が話している。」と当時の実惰を記載している。宮村幸延は、当時のこの
ような事情を知らず、日本軍と村の関係や集団自決の背景には通じていないので
あり、座間味村からすれば、まさに自決命令について語れる立場になかった者と
いえる。

(カ)  こうした事実に照らして考えると、宮村幸延の「証言」の記載内容は、
枝の話を前提とするものという以上の意味を持つものとはいい
がたく、併せて、
これに関連する控訴人梅澤の陳述書(2)(甲B33)も措信し難い。

(ア)  「母の遺したもの」には、第4・5(2)ア(イ)eのとおり、「沖縄敗戦秘録−
悲劇の座間味島」に掲載された初枝の手記の控訴人梅澤の集団自決命令につ
いて、援護法の適用を求め、その適用を受けていた住民、遺族等に配慮して、
「座間味戦記」の記載を引用したとの趣旨の記載がある。

(イ)  しかしながら、第4・5(2)ア(イ)eに引用した「母の遺したもの」の記載を
子細に検討すれば、初枝は、座間味村の住民が玉砕命令の存在を信じていた
ことから、援護法適用の調査に「はい、いいえ」で答えたと語るにすぎず、
初枝としても集団自決についての日本軍の責任自体を否定するような考えを有し
ていたわけではなく・・「村の長老」から虚偽の供述を強要されたことなど援
護法適用のために控訴人梅澤の自決命令をねつ造したことを直ちに窺わせる
ものではない。自決命令の具体的な内容自体はそれまでに既に存在し、他の者
も供述していたのであり、それを前提に「はい、いいえ」で質疑応答され、初枝自
身の見聞きした本部壕での控訴人梅澤とのやり取りを述べなかったというにすぎ
ない。
この点、宮城証人は、その陳述書に「隊長命令については、『住民は
隊長命令で自決したといっているが、そうか』との質問に『はい』と答えたと
書きましたが、それ以上に自分からは説明しなかったとのことです。」と、
「母の遺したもの」の記載の趣旨を補足している(乙63・11頁)。

(ウ)  そして、これまでに判示してきた援護法の適用についての事実からすれば、
「母の遺したもの」から集団自決について援護法の適用のために梅澤命令説
が捏造されたとまでは認めることはできない。

 他方、控訴人梅澤に対して、村当局から、援護法適用のため自決命令を出したこ
とにしてくれなどという依頼がなされた形跡はなく、控訴人梅澤もその様な依頼を受
けたことを述べていない。しかし、仮に村当局や陳情担当者が自決命令は本当はな
かったものだなどと考えていたとしたら、命令を出したとする日本軍や隊長らへの反
面調査への対策などを検討せずに、一方的に自決命令を捏造するなどということは
考えにくい。厚生省は現地調査をしているのであり、それに基づき当然日本軍側か
らの裏付けも必要となり聞き取りをするであろうことは、公務に従事している以上当
然判っていることで、その調査詰果とも合致すると考えているからこそ、特に控訴人
梅澤への工作などしないままに実情を訴えて法の適用(この点では解釈の余地があ
る)を陳情したものと考えるのが自然である。厚生省における当時の事務処理の経
緯等は本件訴訟には提出されていないが、先に見たような沖縄戦の戦闘参加者の
実態把握と詳細な分類による処理要項の策定が、旧日本軍側への調査なしになさ
れたとば考えにくいのであって、その内容は、当時の調査結果に裏付けられていた
ものと考える方が合理的である。当時の行政過程の詳細な実態分析などは歴史学
者の研究や議論に待つとしても、先に見た分類Nの自決命令などという重大な事柄
が、行政庁内で軽々しく捏造されたなどとは考えにくい。ちなみに、行政経験を有す
る照屋昇雄の本件訴訟中になされた前記の赤松大尉への命令捏造依頼説は、この
ような疑問に応えようとするものであったと考えられるが、前述のとおり、成功したと
はいえない。

 以上を総合すると、沖縄において、住民が集団自決について援護法が適用さ
れるよう強く求め、自決命令の有無がそれに関係していたことは認められるも
のの、そのために梅澤命令説及び赤松命令説が捏造されたとまで認めることはで
きない。なお、この関係で、梅澤命令がなかったとして当審において新たに提出さ
れた「宮平秀幸新証言」は到底採用できないものであるが、これについては後述す
る。

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