体験 的パ ソコ ン論
よきパートナー追悼号
二人三脚で
ここまできた
20年
【026】世にも当たり前な物語(三徳さんとパソコン)
(1)最初の出会いは20年前
 私の息子が小学校2年の終りころ、学習塾には行かせたくなかったので、知人が指導者をしている関係で、「剣道をするか、野球をするか」と尋ねると、息子は「野球をしたい」と答えました。そこで、校区の子供で構成されている軟式野球でなく、相生市内の子供で構成されている硬式の野球チームの見学に行きました。
 もし私の息子が硬式野球チームに入ったいなかったら、三徳さんとの出会いはありませんでした。三徳さんの息子も硬式野球に入ってきたからです。今から20前の話で、挨拶する程度の関係でした。
(2)160人の大所帯ー硬式少年野球
 息子が5年生になると、6年生の試合のエキジビションとして5年生の試合があります。西は岡山、東は大阪まで試合の応援やら、手伝いに駆り出されます。しかし、三徳さんは土・日曜が稼ぎ時の自営業ですから、顔を出せません。祝日に行事があるときには、必ず家族で顔を出していましたから、人付き合いが悪いということではありません。
 息子が6年生になりました。6年生の親を中心に、毎月のようにある公式試合や練習試合のバス・車や弁当や道具などの手配、毎週土・日曜日の練習の準備、毎週水曜日の自主トレの準備、理事や監督・コーチや3〜5年生の親への連絡など超多忙な毎日がやってきます。それが伝統です。
 私は仕事柄、人前で喋るのが得意だということで、代表に祭り上げられました。当時、理事約10人、監督・コーチ6人、選手50人、親約100人の合計160人近い大所帯です。ここからプロの選手も誕生しました。
(3)大したもんだよ三徳さんーマルチプランで会計担当
 自営業の人も試合のある土・日曜は、店のシャッターを下ろして参加します。
 三徳さんは参加できません。しかし、三徳さんは表計算ソフトのマルチプランの達人です。表計算はその後ロータス123となり、現在はエクセルになっています。そこで、家でも出来る会計の仕事をお願いしました。7月末には、相生市長を迎えての相生市市長旗大会が2日間、相生球場であります。兵庫県下から16チームが参加する本格的な大会です。その運営費にリクルート商法を実施しました。選手の親の縁故を通じて、広告代を出してもらい、パンフレットを作り、その差額を大会の運営費にあてるというやりかたです。
 かなりの額が長い日数の間に入ってきます。以前は、帳簿に入金者・入金額・入金日を記入し、それを入金者別に入金額を報告します。大変な作業でした。
 それを三徳さんは、マルチプランを使って、こちらが希望する形に、その場で、仕上げます。便利な世の中になったものだと思うと同時に、「芸は身を助ける」という意味を理解しました。表計算を教えてくれたのも三徳さんでした。
(4)初めてのデジカメ(三徳さん持参)
 子供たちが少年野球を卒部して大学生などになっても保護者の年2回の懇親会は続いていた。1996年4月末の祝日にバーベーキューをした。そのときいつも登場する「知人」(この人が実は三徳さん)が珍しいカメラを披露した。その場で写してその場で見れる。気に入らないとその場で消去する。その時の衝撃は今も鮮明に覚えている。その名はカシオQV10であった。
 「パソコンに取り込んで印刷も出来る」とその「知人」は言う。私には信じられない言葉であった。翌日には、その言葉をこの目で確認するために「知人」の家を訪問した。その場で撮影した写真がその場で印刷されて、私の手の中に納まった。その感触はまさに革命的であった。詳細←ここをクリック
 デジカメの革命性を教えくれてたのも三徳さんでした。
(5)DOS/Vパソコンを始めて購入(三徳さんのアドバイス)
 それ以来、パソコンに関する情報を三徳さんから得るようになりました。パソコン雑誌の記者は、パソコンメーカーから機器を無料で提供してもらっているので、どの機種もほめる提灯記事が多かったが、三徳さんはその当時から部品を買って自前のパソコンを作っていたので、どのメーカーのどの部品がいいかということを体験から会得していました。
 1986年、初めてのワープロ(東芝のルポ)を購入しました。
 1989年、初めてのパソコン(NEC98)を購入しました。
 1996年、NECの98が全盛のとき、私はDOS/V(IBM互換機)の将来性を予見して、富士通かIBMのパソコンを買うために、カタログを用意して、三徳さんに相談しました。三徳さんは「このパソコンを買って何に使うのか?」と質問しました。私は「インターネット・ホームページ、デジカメ、スキャナ、プリンターをしたい」と言うと、即座に「それやったらIBMしかない」と答えるのです。富士通ではスカジボードがそれだけ装備出来ないというのです。多くの人が富士通を推薦していただけに、大変なことになるところでした。聞く人に聞くことを教えてくれたのも三徳さんでした。 
(6)IBMパソコンにホームページビルダーが付いていた→これも「ついていた」
 当時、ホームページのソフトがなかったので、最初は下記のように「html言語」を習得しました。
(略)
<TD><IMG src="kinkaku01h.JPG" height="265" width="339"></TD>
<TD><IMG src="ginkaku01h.JPG" height="265" width="339"></TD></TR>
(略)
<TD><FONT color="#ff0000">鹿苑寺金閣</FONT>(左)と<FONT color="#ff0000">慈照寺銀閣</FONT>(右)の写真をみて次の質問に答えなさい。</TD></TR>
(略)
上のhtml言語の詳細←ここをクリック
 所が、IBMのパソコンには、ホームページビルダーV1がおまけで付いていました。もし、DOS/Vの富士通を購入していたら、ホームページビルダーとの出会いはなかったかも知れません。そうなると、ホームページビルダーV3(2006年の段階ではV10)を永遠の恋人にしてなかったことになります。ラッキー(ついていた)でした。永遠の恋人を世話してくれたのも三徳さんでした。
(7)最近の最近までお世話になりました。ゆっくりお休みください。
 相生市のパソコン教室の定期講座に指定されました。ウインドウズXPではウインドウズ95で使えるソフトが裏技を使わないと、使えなくしています。ホームページビルダーV3はウインドウズ95で使える完成された優れたソフトです。三徳さんに相談すると、互換性のこつを教えてくれました。
 定期講座が現在も続行しているのは三徳さんのおかげです。
 夜中でも、「どこか悪いところないか」と電話がかかってきます。それに「おんぶに抱っこ」で現在まで来ました。三徳さんと親戚になった夢まで見るようになりました。
 その夢が息子のおかげで、実現したのです。私の息子は、三徳さんの息子さんと高校時代まで同じ野球部でした。そんな関係で、三徳さんの娘さん(息子さんの妹)と結婚することになったのです。
 2006年3月21日の春分の日、入院先から私に会いたいという伝言がありました。すっかりやせ細ってはいましたが、三徳さんは「少年野球からの20年間の思い出は楽しかった。ありがとう」と元気に言いました。私には返す言葉がありませんでした。「ここまでこれたのも三徳さんのおかげや。まだまだ聞きたいことが山ほどあるからなー」とだけ言って分かれました。
 3月27日、三徳さんは不帰の人となりました。57歳という若さでした。20年ではありましたが、深く濃い関係でした。本当に、本当に、ありがとう。ゆっくりお休みください。