神崎与五郎

かんざきよごろうのりやす
神崎与五郎則休   行年三十八
【徒目付・郡日付 五両三人扶持】
表門隊
 茅野和助と同じく、代々美作津山の森家に仕えていた。父は直段奉行だったが、森家が断絶したため浪人となり、寺子屋を開いていた。その頃、与五郎は浅野家に仕えている。文武両道で弓の使い手であり、また俳句にも秀でており、竹平と号した。「那波十景」など秀句が多い。
 江戸急進派鎮撫のため、最初は岡島八十右衛門を派遣する予定だったが病気のため、機転のきく与五郎が急遽江戸へ下ることになった。途中、箱根の関で馬方に言い掛かりをつけられて、詫び状を書いたといわれるが、史実にはない。
 江戸に出ると美作屋善兵衛と名乗って扇子を売り歩いたり、米屋をやっていた前原伊助とともに小豆屋善兵衛と変名して、吉良邸裏門で穀物商を営みながら様子を探った。堀部安兵衛が苦心して吉良邸の絵図を手に入れると、屋根に上って吉良邸の内部を見渡しては、少しずつ補正していったという。前原とともに記した『赤城盟伝』は貴重な史料である。
 与五郎の酒好きは有名で、水野家にお預けになったときも、特別待遇で酒が出されたと、記録にみえる。遺言状にも酒の功徳を書き記したほどであった。