| 大石と那波五箇村 |
| 元禄の頃、那波五箇村と称されたのは、那波浦・オオ浦・佐方村・陸村・池芝内村を指したものであるが、此の五箇村が大石良雄の私領となったのは元禄七年(一六九四)である。 これは同年備中松山城主水谷出羽守勝美には子供がなかったため、家は断絶となった。そこで幕府は赤穂城主浅野内匠頚長矩に定番を命じた。折悪しく内匠頭は病中のこととて家老の大石内蔵助良雄を名代として重責を果たすよう命じた。良雄三十六歳のときである。 大石は神崎与五郎・茅野三平・武林唯七・不破数右衛門など多くの家臣を従え、城請け取りに備中松山へ行き、後年己が同じ運命に、有るを知る由もなく無血開城をさせ、元禄八年(一六九五)上野国(群馬県)高崎より安藤対馬守重博が移封されるまでよくその任を果たした。帰国後主君内匠頭はその功を賞し、二百石の加増をし、那波五箇村より納める年責を地行所として与えた為、実質的な彼の私領となったのである。それより前、延宝六年(一六七八)海老名教李の弟甚兵衛を陸村庄屋として藩主長矩公に推挙したのが海老名と親交のあった大石良雄であると伝えている。 相生海老名本家では離れ座敷のうち十畳の間二室を彼の為に提供し、相生浦での鯔(いな)漁検分の時にはここに宿泊したといい、陸海老名では屋敷内の一隅に別宅を造り愛妾「お栄」を住まわせ、大石の定宿とした為、大石公用で来村の時は此処に泊まったとも伝えている。これらの故あって、元禄赤穂事件で大石一同切腹後百回忌に当たり、結縁深い相生光明寺で法要を営み、大石父子の木像を赤穂花岳寺へ寄付している。因に花岳寺の境内にある大石良雄名残りの松は大石が相生浦から移植したもので、現在の二代目の松もオオより移植したものである。 |