| 孝行井戸の伝説 |
| 那波本町十七ノ十三前にある古井戸を土地の人は「孝行井戸」と愛称し、孝子神崎与五郎則休の話を伝えている。 「浅野家領の時、藩士神崎与五郎といふ人は、常に孝道を深く心懸けて、親の長命を念じたるに、その母不意に酒毒のため重病に罹(かか)りて、生死存命不定と医者に宣せられたり。則休は別けて一生に会ひ難き慈(いつくし)みの親なりせば如何せんとて惑ふ内に、浅野侯(長矩)の命に依り、御殿医にかかり日夜様々に労はりけれども終に病治の効(しる)しなかりければ、常々藩主の篤く信仰し玉ふ那波浦荒神山の国光稲荷の籠堂に参龍して、母の病気平癒を祈り申しけるに、七日目の夜更(よふ)けに至り、心も澄みたる時、御神殿の内より、扉を押し開く音と、警蹕(けいひつ)の声のしければ、則休畏(かしこ)みて拝するに、十七・八ばかりなる美女、手に三光の玉を捧持し、後ろに天童1人、稲穂を捧持して出現し給ひ、其の玉光は、月夜の如くあたりを照らしたり 天童の曰く『大神は汝の孝心を嘉(よみ)せらるるにより、天下台よりさし昇る御来光の光線を口に戴き、赤松の葉を噛みしめ、塩水を呑ませよ。されば苦悩去らん』とあり、比の神託により、神慮の御受納を憑(たの)もしく覚えて直に下山し、お告の如くなしたるに、母の悪も立処に平癒して、更に恙(つつが)なかり とぞ、御神徳の尊きを知るべきに非すや。 (浅野侯領那波浦 庄屋 三木屋孫左衛門しるす)」 この伝説を書いた庄屋孫左衛門は神崎与五郎とは親交のあった人物で、討ち入りの為江戸に下った後も「酒さえ高値になり、買いにくく不自由している」等の書状も残している。 与五郎の母は義士討ち入りの時は、父神崎半右衛門と共に作州勝田郡黒土村(岡山県勝田郡勝央町黒土)に住んでいたが、妻は事件後もそのまま播州赤穂に在住していた。 |
| ■警蹕(けいひつ)の声 貴人が出てくる前に、「おお」「しし」「おし」「おしおし」などという先払いの声 |