神崎与五郎と那波村
 神崎与五郎書(寛文六年〜元禄十六年「1666〜1703」)は津山藩士神崎半右衛門光則の子。父が浪人となった為、浅野長矩に横目として仕え、禄高5両3人扶持を支給された。和歌をよくし「竹平」と号し、桑田貞佐(了我)の門人で、榎本其角とも親しかった。
 主君長矩の刃傷事件後は美作善兵衛と変名して吉良家を探ったが、本懐を遂げた後は三河岡崎藩五万石藩主水野監物に預けられ、同家で切腹し三十八歳の生涯を閉じた。介錯人は稲垣作助が命じられている。
 城明け渡し後浪人となった神崎与五郎は、暫くその身を那波に寄せていたことが、田中弘司家所蔵文書や、元禄十四年(1701)六月八日、那波村庄屋孫左衛門から代官所へ提出された『播磨国赤穂郡那波村高反別并永荒諸色提出』により明らかである。
 『那波村高反別并永荒諸色提出』には
 「一、牢(浪)人 壱人 浅野内匠頭様牢人衆神崎与五郎 当村九郎左衛門家に御座候」とある。文中の浪人神崎与五郎が身を寄せた「九郎左衛門」とは「那波屋九郎左衛門」のことと考えられ、現那波西本町六ノ一にある旧表屋の屋敷がそれである。赤穂藩横目当時の別宅は、現在那波本町十七ノ十六前にある駐車場がをの跡で、明治の頃「ササ屋」の屋号をもつ家の跡ということから、俗にササ庭の別宅跡とも云われている。

古伝那波十景と神崎与五郎の詠んだ発句
宮山松開花 神山や 松はすねつつ 花の雲 那波宮山
渡田面早苗 那波と陸 争ひはなし 夕田植 那波大浜町一帯
■渕流蛍乱 すんなりと 渕に入りてぞ 蛍の火 入鹿渕の池
岡野台秋月 海山も 月の隅かな 岡野台 那波丘ノ台
雪降台暮雪 龍神も 雲を見よとや 山のかげ 天ケ台山
二子対姨川 川柳 まねいて見るや 二子島 薮谷川・半田病院付近
浮水大島翠 大島や 海はいよいよ 夏木立 大島山
大避崎宿鷲 此の月に 素面なりけ新 秋の鴬 那波大避神社南
相生浦漁舟 涼みかも 網帆唐めく 相生の舟 旧皆勤橋付近東寄り
馬通曲江望 彩色や 入江々々の 浅かすみ 松之浦付近
■(魚+孚)

神崎与五郎撰「那波浦十景」
 元禄の十二己卯歳(1699)那波浦荒神山に於て浅野氏家臣神崎与五郎那波浦十景を撰す
 濱田之早苗 攣子島凉舟 竹島之暮雪 大島之藤花 宮山之躑躅
 向ヒ鼻夜漁 岡之台秋月 汐見坂夕霧 鍋崎之蛤狩 白鷺鼻群蟹
  右神崎の作れる那波浦十景を氏神大避社へ奉納す
      田中孫四郎  書写
   庄屋 孫左衛門 保管

神崎与五郎の詠んだ丘ノ台の句
  丘ノ台 古城のあとに吹く綿を
       己は着ねども 暖に見ゆ

  水仙に 酔顔見せず 梅もどき(田中弘司家所蔵)
と丘の台を詠んだ歌二首と
  朝日てる 国光稲荷山桜
        花を眺めて 君を思はむ
の一首が今も伝えられている。