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作家佐多稲子さんと
我が家の関係?

『牡丹のある家』の舞台は
相生の米田長次さん家族がモデル

左が佐多稲子さん
右が作者の妻と娘
(20年前の相生での写真)
佐多稲子さんの実父が下宿
していた米田長次さん
(長次さんの娘が作者の妻)
■牡丹のある家
 

 「店先に夏蜜柑、ラムネ、駄菓子などを並べている土間の
広い安宿や、荷車をつけたままの大きな牛がつないである
軒の低い運送店や、肥料屋などのある駅前の通りを過ぎて
間もなく村を出はずれると、もう左手は青々と麦のそよい
でいる田圃であった。田圃は広く、中程には、その裾に沿
って小川の流れている土堤道が太々と横に貫いていた。土
堤の側面はびっしりと草がはえて青く、土堤の上をくるく
ると回ってゆく自転車が徴かに白い挨りを後ろに上げてい
た。ときどきその自転車のどこかに陽があたり銀色に光
った。
 右手は木の多い小さな山の連りが奥へのびていて、すぐ
まぢかの高い土堤の上に山陽本線がゆるくうねって、山の
間へ曲がっていた。その土堤に女の子供達が二人、三人、
陽を浴びて土筆を摘んでいる。」


 「まだ生きていた父親が、一時素麺の製造などをやってい
て、この古い牡丹を自慢にし、花の盛りには客など呼んだり
したものであった。その酒の席で父の膝にいた被布姿の自
分を、こぎくは今も思い出す。」

 この小説は佐多稲子さんが娘時代に見た相生駅前の状
況を描いたものです。
 牡丹は長次さんの庭にありました。佐多稲子さんが東京か
ら相生の父親を訪ねてきた時によく見ていたといいます。  
1917年−父田島正文、相生の播磨造船所に就職する
1918年−田島文子(14歳) 、初めて相生の父を訪ねる
1921年−文子、再び相生の父を訪ねる
1923年−文子、三度目の相生を訪ねる
      (米田長次さんに献本した署名には
       「一九七二年秋 五十年ぶりの再会に」
       とあるから、これが父の下宿先を訪問した最後
       となる)

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