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名作の舞台

赤穂浪士
大仏次郎

 元禄の仇討ちでゆれた播州赤穂藩は瀬戸内海に面した小さな藩だった。こんな事件がなければ明治維新の改革の波にのみこまれ沈んでしまったことだろう。赤穂事件はこの田舎の小藩を一躍、檜舞台に押し上ることになった。
 江戸城松の廊下での刃傷事件で殿は切腹、家は断絶、城を追われた赤穂の浪士たちは、やがて吉良邸に討ち入り、主君の遺恨をはらす。ドラマチックな筋書きは人形浄瑠璃や歌舞伎、講談にと脚色された。なかでも「仮名手本忠臣蔵」は時代を『太平記』の世界に置き換え、復しゅう劇として人々の喝采をあびた。史実が乏しいことが、余計、虚実をおりまぜた数多くの物語を生むことになる。
 大仏次郎は『赤穂浪士』で、この赤穂事件を大胆に読み替えた。主君の仇をうつ忠孝の臣とされた大石内蔵助を幕藩体制に抗議する批判者として描いた。作中で大石は述懐する。「われらの志すところだが、上野介はただ当面の手段にすぎない。敵はその背後のものである。亡君が天下に示そうとなされた御異議をたたき付けるのである」。批判者としての大石を生き生きと描くことで「忠君愛国」的な時代思潮をみごとに裏返してみせた。
 この小説が書かれたのは昭和二年、不況風が吹く金融恐慌の頃だった。失業者が群れたこの時代を武士があぶれた元録時代に重ねあわせた。上杉方の間者になり大石らの動きを追う堀田隼人や怪盗「蜘蛛の陣十郎」、架空のこの二人もまた時代が生み落とした浪人だった。
 大仏はこの小説で「義士」でなく「浪士」を書いた。だから浪士たちの世俗的な悩みや苦しみもどこか実感がともなう。「もっともらしい理屈や意見は平穏無事の時のことだ。いざとなると人間は卑怯か卑怯でないかに分かれる。なまじ知恵があったり学問のある上層の者が事変に無力になるのはそのためだ」。大石のつぶやきはそのまま現代にも通じる。『赤穂浪士』が、いまだに新鮮に読めるのはそのせいかもしれない。
 四十七士らをまつる赤穂の大石神社に一通の公文書が保存されていた。城明渡しのさいに作成された城内所蔵品リスト。『城内犬之覚』には「赤 拾匹、白 九匹、赤ぶち 一匹、黒 弐匹、 外に子犬八匹 廊下下などに所在 員数不明」。城を後にする浪士たちの律儀さか、それとも”お犬将軍”への皮肉だったのだろうか。
 そんな時代の閉塞感のなかで浪士たちは「討ち入り」を果たし、ニヒルな浪人、堀田隼人は討ち入りによる変革を期待する。しかし変わらない、むしろ武士道はすたれていく。
 殿中での刃傷事件が起きてからことしで三百年になる。いまも忠臣蔵の人気は高い。地元の県立赤穂高校3年生のアンケートでも人気のトップは大石内蔵助だった。「若い人には格好いい堀部安兵衛や主税に人気がある筈なんだが、やっぱり大石なんですね。意外でした」(有政一昭教諭)。台座だけが残った本丸跡が整備されて、大石が去っていった清水門も先年、一部復元された。「忠臣蔵」は21世紀にどう伝えられるのだろうか、ふっと考えた。

 

おさらぎ・じろう 明治30(1897)年ー昭和48(1973)年。横浜市生まれ。東大卒業後、外務省に入り役人生活。関東大震災を機に退職、文筆に専念、「鞍馬天狗」で有名に。他に「パリ燃ゆ」「帰郷」「天皇の世紀」など。

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