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墨田区(1)

 元禄6(1693)年、肥前平戸6万1700石藩主・松浦鎮信が江戸屋敷内で開基したお寺で、開山は盤珪禅師である。
 松浦静山は山鹿素行に師事し、静徳堂を開校した。松浦静山の随筆『甲子夜話』に「討入り陣太鼓」の話が出てくる。山鹿流陣太鼓のフィクションはここから誕生したと言われている。
 松浦静山の墓がある。
 延徳3(1491)年、吉祥寺の2世大洲安充が開基した。
 寛永18(1641)年、徳川家光は開創150年を記念して赤門を寄進した。現在も赤門寺と呼ばれる。
 大石三平の発案で、大石瀬左衛門、潮田又之丞、間瀬孫九郎、矢田五郎右衛門らが密談したお寺である。
 大石三平の墓がある。大石三平大石家の一族で大石無人の次男です。
天祥寺  福厳寺(赤門寺)
墨田区吾妻橋2−6−5 墨田区東駒形3−21
    
 小説『新・忠臣蔵』の作者・舟橋聖一の記念碑がある。
 昭和61(1986)年に建立された記念碑には、井上靖が撰文した「花の生涯」が刻まれてい。
 討入りの報告を受けた若年寄本多伯耆守邸跡があります。
 本多伯耆守は、元禄元(1688)年に寺社奉行となり、元禄9(1696)年に若年寄となっています。
 討入り当夜、若年寄本多伯耆守は、吉良邸の近所の土屋家から討入りの報告を受けた(土屋家の家老竹中助右衛門の記録)が、幕府は何ら動きを示しませんでした。
 その結果、赤穂浪士は3時間かけて泉岳寺に辿りつくことができました。
 蔵前橋通りに面した同愛記念病院の位置にありました。
舟橋聖一生誕碑 本多伯耆守邸跡
墨田区横網1−1−1 墨田区横網2−1−11
   
 刃傷事件前の元禄9(1696)年、梶川与惣兵衛は、本所奉行でした。
 松之廊下で、書院番になっていた梶川与惣兵衛が浅野内匠頭を抱き止めたことで有名です。
 現在は、両国小学校の隣にあたります。
 元禄14(1701)年、前原伊助は、日本橋冨沢町でハギレ商を営んでいました。
 刃傷事件後、前原伊助は、内蔵助の命で、吉良邸裏門付近の相生町に雑穀店を開店しました。名も米屋五兵衛と変えました。
 神崎与五郎も寄宿している。
 現在は、馬車通交差点の角ビルにあたります。
梶川与惣兵衛本所奉行所跡 前原伸助米店跡
墨田区両国4−8 墨田区両国3−2辺り
テキストのみは、写真を入手しておりません。ご協力をお願いします。
全国どこへども行く予定です。
その他、忠臣蔵関係の情報があれば教えてください。
連絡はまでお願いします。

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