赤穂浪士の復讐を恐れる近所の訴えで、吉良上野介は、元禄14(1701)年、呉服橋邸を返上し、隅田川の対岸にある本所の空き屋敷(元松平登之助邸)に移りました。
両国とは武蔵国(江戸)と下総国(千葉)のことで、本所は、下総側にありました。
敷地2550坪、建坪846坪、長屋420坪、門は表門・裏門・新門という広大なものでした。
4200石の吉良上野介には、侍79人・小者50人など総勢130人いたとされています。
現在の吉良邸は29.5坪です。
昭和9(1934三四)年、地元の有志が土地を購入し、松坂公園として東京府に寄付しました。
両国小学校の西側のなまこ塀が松坂公園である。 |
吉良邸の隣に本多孫太郎邸跡があります。
越前福井藩の松平兵部大輔昌明の家老・本多孫太郎長員の江戸屋敷は、1600坪ありました。
本多孫太郎の家来・忠見扶右衛門は、堀部弥兵衛の妻の弟です。
そんな関係で、赤穂浪士の切腹後の3月12日、堀部弥兵衛の妻わかと安兵衛の妻きちを本多家の長屋に引き取ったと言われています。
本多家の家来・真柄勘太夫は、討ち入り状況を幕府へ届け出ています。
現在は、松坂公園の北側のセブンイレブンがあります。 |